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君を愛する理由(わけ)などいらない。
08
翌日、珍しく藤川のバイトからの帰りが遅いのを気にしつつも、真崎は日付が変わる頃にはベッドに潜り込んだ。バイト仲間で飲みに行くこともあるだろうと考えながら眠りに入った頃、藤川が帰ってきたのか、玄関で派手な音がした。酔って帰ってきたのか、と真崎はため息をつきつつ起き上がった。音の正体も、その後静かになってしまったのも気になったのだ。
「何やってんだよ」
案の定、電気もつけずに玄関口でうつ伏せに倒れている藤川に、真崎は呆れながら近づいた。電気をつけて揺り起こそうとしたところで、酔っているにしてはおかしいことに気付いた。
「……痛えよ」
掠れた声に、真崎は眉根を寄せる。覗き込むように顔を見たら、もうちょっとほっとけ、と言われた。
「ほっとけって、その顔……喧嘩か?」
どうやら酔ってではなく、怪我をして動けないらしい、と悟った真崎は慌てて藤川を起こして壁に凭れるように坐らせた。
「痛えって」
「わかってるよ。でもそのまま寝るわけにいかないだろ」
そう言う真崎に、大したことない、と藤川は言う。
「おまえ、自分の顔がどうなってんのかわかってないな。ひどいぞ」
「あ?腫れてんのはわかってるよ。でもあとはそれほどひどくない」
喋るのも辛いのか、あまり口を動かさない。真崎は小さく吐息を吐くと、バスルームに行ってタオルを濡らしてきた。
「ああ、ありがと」
「どうしたんだ?酔っ払いにでも絡まれたのか?」
ところどころ血がついている顔を拭く。よく見れば服も泥だらけで、よく帰って来たものだと真崎は思った。
「相手、一人じゃなかったな」
「でも、勝てると思ったんだけどな」
人の心配を余所に、藤川はそんなことを言う。
「医者行くか?」
「この時間に?平気だよ。骨とか折れてないし」
「でもな」
「大丈夫。それよりさ、悪いけどそこら辺に布団敷いてくれない?」
だるそうにそう言う藤川にため息を吐きつつ、真崎は水と痛み止めを持ってきてから、リビングに布団を敷いた。服も泥だらけだからと、パジャマを渡したが動く様子がない。
「まったく、相手が複数ってわかったら逃げろよ」
ぶつぶつと文句を言いつつ、セーターとシャツ、ズボンをそっと脱がす。怪我なんてしてなければ嬉しい場面なのに、と真崎は再びため息を吐いた。
「俺が逃げるかって」
藤川が変に勝気なのは分っている。弱いのは智耶子にだけなのだ。いや、あれは甘いと言うべきなのかもしれない。
「そうだけどな」
腹筋辺りに赤黒い痕があって、蹴られたな、と思わず指を這わせたら、痛いのか藤川の眉根が寄った。足にもいくつか痣があって、やれやれと真崎は全身を眺めた。藤川は着痩せをするのか、筋肉は結構ついている。身体を動かすのは嫌いではないらしく、ときどきどこかのサークルで運動はしているといっていた。
そのままでいいと藤川は言って、這うようにすぐ横の布団に寝転がった。玄関脇だ。それでは寒いだろう、と言うと「へーき」ともう眠っているような声が返って来た。真崎はもう何度目かわからないため息を吐くと、もう一枚掛け布団を持ってきた。まったく、と思いながらそれをかけると、寝ていると思ったのに、「ありがと」と声が聞こえた。
「真崎がいて、助かった」
ほとんど寝言のようなその声に、真崎はやれやれと自分も眠るために部屋に戻った。
真崎が午後の講義のために部屋を出るときも、藤川はずっと眠っていた。蹴られた所為で熱があり、看病のために講義など休みつもりだったのだが、さっさと行け、と怒られてしぶしぶ出てきたのだ。でも、出て来て良かったと真崎は思った。
「ちょっと真崎、藤川大丈夫でしょうね?」
講義が終わってすぐに、智耶子に声を掛けられた。どうして智耶子がそれを知っているのか、と目を眇めると、ちらりと智耶子が周りを見た。人がいると話しずらいことなのか、智耶子は無言で歩き始めた。
「それで?どうして智耶子サンが知ってるの?」
電話でもしたのかと思ったが、あの藤川が智耶子にあんな情けないことを知らせるはずもない、と思い返した。
「藤川のバイト先に知り合いがいるのよ。この大学の子なんだけど、昨日の帰りがけに変な男に藤川が連れて行かれたって言うから」
「変な男?」
「すごい目をして藤川睨んでたらしいわよ。どこかで見たことがある、って思ったら、この大学の人だって後で思い出して、私に連絡くれたのよ」
でも、それは私の関係じゃないわ、と智耶子はどこか淡々とした口調で言った。真崎は嫌な予感がして、眉根を寄せた。
「俺関係だって言うのか」
「多分ね。昨日のお昼の後だし」
確かに、藤川に会ってから手を切った男は多い。宿泊料変わりに抱かれていた男もいるから、部屋を持った時点で必要ない男は結構いたのだ。
「後腐れないのばっかりだったのに」
思わず呟くと、そんなのわからないわよ、と智耶子は言った。
「真崎がそれを望んでいたら、そういう振りだってするでしょ?」
「俺、そういうの嫌い」
「だから、その男もそう見せてたんじゃない。騙されたのよ」
智耶子も容赦がない、と真崎は思った。本当にこの女は自分のことが好きなんだろうか、といつも思うが、実のところこういう智耶子は嫌いではない。
「それで?藤川は?」
「熱出して寝てる」
それなのに大学に来ているのか、と怒られるかと思ったが智耶子は「そう」と言っただけだった。
「お見舞い来る?」
「行かないわよ。藤川嫌がるもの。絶対無理して起き上がってもっと具合悪くするのよ」
それもそうだな、と真崎は納得した。あの藤川のことだから、智耶子になど弱ったところは見せたくないだろう。
「怪我、ひどいの?」
「結構殴られてる。口も切ってるから、食事も大変だし」
でも、痛み止めと解熱を兼ねて薬を飲ませたい身としては、何か食べてもらわないと困るのだ。
「そう……真崎、これから帰るのよね?」
頷くと、ちょっと待って、と言われた。それから一服して待っていると、購買で買ったプリンを渡された。
「調子悪いときだけ食べるのよ。何も食べないよりいいでしょ」
そう智耶子は言ったが、なにやらそのプリンは、真崎に罪悪感と屈辱感を与えた。
「結局、智耶子サンには勝てないってか」
呟くと、智耶子は不意をつかれたような奇妙な顔をした。
「馬鹿なこと言ってるのね。それを言ったら、私は結局藤川に勝てないのよ」
苦笑した顔は、それでもどこか寂しそうだった。そんな顔をするくらいなら、別れなければいいのに、などと思う。
「そうだな。あいつには勝てないかもな」
何しろ、真崎の所為で殴られたと言うのに、そんなことは一言も言わなかった。その上。
「助かったって言うんだもんな」
え?と聞き返した智耶子の方は見ずに、真崎は俯いて手に下げたプリンの入ったビニール袋を揺らした。
「俺がいて助かったって、言うんだ」
詰られてもおかしくないのに、ちょっと世話をしたくらいでそんなことを言うのだ。まったく、参るよな、と真崎は思う。
智耶子は俯いた真崎を見ながら、ほらね、と思っていた。
ほらね、結局藤川には勝てないのよ。
そう言おうと思ったのに、声を出したら震えそうで、智耶子はしばらく唇を噛んでいた。
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