home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 * 10


君を愛する理由(わけ)などいらない。
09
 コンビニによってスポーツドリンクを買い込んで部屋に帰ってもまだ、藤川は眠っていた。といっても、きっとあまり身体を動かせるような状況でもないのだろう。
「なんで怒んないんだよ」
 呟きながらうっすらと汗をかいた額を撫で上げると、おかえり、と声がして真崎はびくりと手を震わせた。そのままさり気なさを装って、額から手をどかした。
「なんだ、起きてたのか。スポーツドリンク買ってきたけど飲むか?」
 飲む、と掠れた声が痛々しかった。どうして、自分のためにこいつがこんなに苦しむようなことになったのだろう、と思う。
 キッチンに行くと、プリンが目に入った。ため息を隠さずに、スプーンとプリンも手にとった。私からって言わなくていいから、と智耶子が言ったのを思い出す。
「なんで怒るんだ?」
 だるそうに腕を上げて、それでもごくごくとペットボトルから直接スポーツドリンクを飲んだ藤川が、じっと真崎を見た。真っ直ぐな視線は、ときには耐えられない。見上げているその藤川から視線を逸らすように、真崎は思い切り俯いた。
「おまえの所為じゃないよ」
 俯いたままの真崎に、藤川がはっきりとそう言った。静かで落ち着いた声は、少しも責めている様子がない。
「俺のせいだろ」
「違うよ。おまえは悪くない」
 顔を全く上げない真崎の手に、藤川の手が触れた。ゆっくり顔を上げると、顔を横に向けて、苦笑したような表情を藤川はしていた。
「週一の我侭を本当に聞いてもらってるのは俺だろ。おまえはそれに付き合ってくれてる。だから、昨日の昼の事だっておまえは何も悪くない。あいつがおまえを好きなのも、おまえが俺を好きなのも、みんな何も悪くない」
 触れる手は、いつも温かい。縋りつきたくなるくらい、それは温かく優しい。その手を離した智耶子が、また縋りに来たのも頷けるな、と真崎は思った。こんな手を、真崎は知らなかった。
「俺は、智耶子を好きなことを否定しない。だから、おまえも否定しなくていいんだよ」
 藤川の声はとても穏やかだった。
 そう言えば、最初に「冗談かと思った」と言った後は、自分が藤川を好きだといっても、何も言わなかったな、と真崎は思い出す。男に好きだと言われたのに、それにも何も言わなかった。我慢がきかずに襲いたくなるときだけ拒否はされるが、気持ちそのものを拒否されたことはない。智耶子が真崎を好きだと言うのも、否定しない。
 どうしてこいつは、と真崎は唇を噛み締めた。
 週一の我侭が無駄な足掻きだと言うことも、今回の原因が真崎にあることも、全部分っていて、それでも真っ直ぐであり続けるこの男が欲しいのは、もう仕方がないことなんじゃないかと思った。
「馬鹿だよ、藤川は」
 そう言うと、その馬鹿に向かって好きだとか言う奴は誰だよ、と文句を言われた。
 それは間違いなく自分だ。その上、その馬鹿さ加減にいかれている。真崎は泣き笑いのような顔で、だって好きなんだよ、と言うと、藤川がなぜか頷いていた。
 それから、そう言えば、とプリンを差し出した真崎に、藤川は思い切り眉をしかめた。あれ?と真崎が思っていると、「話したなっ」と噛み付かんばかりの勢いで藤川が叫んだ。
「え?なんだよ、突然」
「チャコに喋ったな」
 調子の悪いときだけプリンを食べる、なんていうのは智耶子ぐらいしか知らないことだったのだろう。真崎は小さく吐息を吐きながら、俺じゃないよ、と言い訳がましく言った。
「藤川のバイト先の奴。昨日見てたんだろ?そいつが智耶子サンに電話したんだよ」
 そんなことを言ってみても、少しも藤川の耳には入ってないらしい。痛いだろうに顔を顰めて、唸っている。
「チャコに知られた……」
 余程ショックだったのか、一点を睨んで動かない。
 あーあ、と真崎は思う。やっぱり、智耶子には勝てない。惚れ直させて、それはないんじゃないかと、腹立ち紛れにプリンの蓋をべりっと開けて食べようとすると、隣で藤川が喚いた。
「あ、食べるなよっ。チャコが俺に買ってくれたんだろ?」
「なんでそんなことわかるんだよ。聞いただけで俺が買ったかもしれないだろ」
「だってそれ、大学の購買のプリンだ。おまえなら帰りにコンビニで買えば良かったじゃないか」
 どうしてそんなときだけ頭が回るんだ、と真崎が不思議に思っていると、その手から藤川がプリンを取り上げた。さっきまで、智耶子に知られたのがショックだと言っていたのに、嘘のようににっこりと笑っていた。
「チャコは悪くないし、プリンも罪はない。わー、チャコのプリンだ」
 いや、購買のプリンだ、と思ったが、真崎はそれを言う勇気はなかった。何にせよ、藤川は喜んでいる。それでまずはいいか、と思っていた。


 藤川の身体がすっかり回復した頃には、冬休みになっていた。そして、その快気祝いを兼ねたクリスマスには、三人で過ごすことがなぜか勝手に決められていた。どうやら発案者は藤川らしい。
「あいつもわかんないけど、それにのる智耶子サンもわからないよね」
 久しぶりに二人で飲んでいたが、相変わらず話題は藤川のことだ。智耶子はそれとわからないように苦笑した。
「真崎だってOKしたんでしょう?」
「だって、そうしなかったらクリスマスは智耶子サンと藤川の二人で過ごされる羽目になる」
 そんなことがあるはずがないでしょう、と智耶子は呆れたような顔をした。
「藤川は私が誘わない限り二人では会わないわよ。そして、私は藤川は誘わない。真崎ってときどき、私が真崎を好きなこと忘れてない?」
「忘れてるわけじゃないよ。疑ってるけど」
 智耶子は心底憤慨だ、とでもいうようにため息を吐いてグラスのビールを飲み干した。
「どうして疑うのよ。好きじゃなかったら」
 ここで藤川を餌に会ったりなんかしない、と言おうと思ってやめた。それはあまりに藤川に失礼だと思ったのだ。そして、自分にも。
「ごめん。だってさ、俺から見たらどうして俺なんだよ、って思うんだ。智耶子サンって、結構恋愛にはシビアな気がするのに」
「十分シビアじゃない。あの藤川を振ったのよ」
「だから。それで俺って言うのがわからない。自慢じゃないけど、俺はそう言う相手に選ばれるような男じゃないよ。ちょっとした遊び相手とか、アクセサリー的にはいいだろうけど」
 自分の方が余程シビアじゃない、と智耶子は思った。ちやほやされているだけかと思ったら、ちゃんと自分のことも周りのことも見ている。そういうギャップにやられたのだ、と智耶子は言ってやろうかと思った。その上辺ではない真崎の部分が見られたのは、藤川のおかげだと言うのが、絶望的な気がするのだけれど。
「それなのに、あの藤川と恋愛したいの?それこそ遊びなんて無理よ」
「大丈夫。遊ぶつもりなんかないからね」
 ふっと笑う真崎の目が優しくて、智耶子は目を逸らした。いいかげん、自分もよく我慢していると思う。あれから、藤川は慰めてもくれないのに。そして真崎は、決してその遊びとしてさえ手など出してくれないのに。
 そして、そんなことを言いながら、真崎は未だに遊び相手には不自由していない。そんな噂は嫌でも智耶子の耳に入ってくる。
「色んな人にお聞かせしたいわね」
「別に構わないけど。でも、肝心の本人が聞いてくれないんだよな」
「藤川もあなたのお遊びを知ってるの?あの子、そう言う噂疎いわよ」
「ご親切にもいちいち吹き込む奴がいなけりゃね」
 真崎が気に入った相手がいるらしい、という噂は実はかなり早い段階で囁かれていた。最初は智耶子がその相手だと思われていたのが、何度か食堂で藤川と食べているうちに、どうやら藤川らしい、という噂になったのだ。藤川と智耶子もある意味噂のカップルだったから、格好の暇つぶしネタを提供したようなものだった。
「それで?藤川は何て?」
「別に。あの無関心さはちょっと残酷だよな」
 その上、男友達だと言ったら、そう言うのは友達って言うのか?などとのんびりした口調で聞き返されたことを思い出した。
 ときどき、ひどく歯がゆい。否定もしないが、受け入れもしない藤川に、決断を迫りたくなる。もう、はっきりさせようと思ったりする。でも、それでは自分が不利なだけだと真崎はわかっていた。曖昧で、ぬるいこの空気に救われているのは、確かに真崎だ。
 決断を迫る必要など、きっとない。藤川にとっては、はっきりしていることだ。切り捨てろと言ったら、躊躇なく真崎を切り捨てるに決まっている。
 真崎はグラスに半分ほど入ったビールを揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「正直言えばね、ときどき、二人が元の鞘に戻ればいい、なんて思うときもある」
 実際そうなったら耐えられないかもしれないのに、それで藤川が幸せになって、自分はそれを見守るんだと思えば、その静かな生活もまたいいかもしれないと思うのだ。
 智耶子はそれを聞いて、ふっと笑った。相関図のようなものを作れば、きっと単純な図式で表せる三人の関係は、なんて複雑なんだろうと思う。
「今、私が考えていたことわかる?」
 そう智耶子は言いながら、ぼんやりとした灯りを覆う青い電球カバーを見つめた。青いのに、温かさが感じられるのは不思議だった。
「はやく、真崎が藤川とくっつけばいい」
 そうしたら、自分は真崎を諦められる。藤川からの愛情に、未練もなくなる。
 盲目的すぎる、と言いながら、藤川と出会った当時の自分は、確かにそんな盲目的な愛情を欲していた、と智耶子は思っていた。変わってしまったのは智耶子であって、藤川ではない。だから、藤川を責めることができないのだ。
 罪悪感、なのだろうか。藤川に幸せになって欲しいと願うのは、自分の自分勝手な、自己満足なのだろうか。藤川が幸せになることなど簡単だ。自分が、藤川を受け入れればいい。謝らなくても、嘘だったと言ってみなくても、藤川なら智耶子が戻ればそれだけで幸せになる。
 でもそれは違う、と智耶子は思った。藤川なら、智耶子が幸せなのが一番だと言うだろう。ただ、藤川が智耶子を好きだという気持ちだけを許してくれればいい、と。
 果たして、この三人の関係に終着はあるのだろうか、と智耶子はすっかり黙った隣の真崎を盗み見た。この奇妙で完璧な三角関係は、今が一番均衡を保っている。それが崩れるときが、いったい来るのだろうか。
 崩れて欲しいのか、欲しくないのか。それすらわからない智耶子は、自分がこの均衡を崩すことはできないだろうと思っていた。



home モドル  01 02 03 04 05 06 07 08 * 10