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サイレント・ノイズ 第五話
――盗マレタ声――

  02

 やばいな、と思ったときは、既にリュウは意識を失っていた。ここのところずっと平和に暮らしていて、気が緩んでいたのかもしれない。安定した、永遠に続くような安らかな日々など、あるわけがないと知っていたのに。
 いつ、そんなことを知ったのだろう。
 薄暗い部屋の中で、リュウは過去をなぞる。それはもう、何度もしてきたことだ。そして、その度に――忘れようとしてきた。
『記憶を消すなど、無理なこと。忘れると言うのは、思い出す、ということだろう?』
 昔、そう言われたことがあった。その老人はそう言いながら、傍らの少年の眠る頭を撫でた。『でも、この子は、どうだろう……』
 少年のことを、リュウは知らなかった。知らないほうがいいだろうと、言われたのだ。もとより、リュウがこの老人に頼んで、言わば便乗するような形でそこに行ったのだから、何か言える立場でもなかった。
 その少年が、エリカと同じ、残酷で過酷な何かを背負っているだろうことは、想像できた。
 ふと、その少年のことを思う。あのときは、瞳さえ見ることができなかった。それでもまだ、あどけない少年だった。
 ――どれくらい時間が経ったのだろう。
 リュウは腕時計を見ようと手を動かしたが、その重みがないことに気付いて、諦める。あの時嗅がされた睡眠剤は、長くても一日ほどしか効かないはずだ。リュウは最悪の状況を考えて、とにかく一日経ったことにしようと考えた。
 エリカはどうしただろう。
 ――タイムリミットがある。
 リュウは軽く唇を噛んだ。一日経っているとしたら、あと三日だ。
「くそっ」
 タイミングが悪い。どうせなら、もっと早くに攫ってくれれば良かったのだ。
 今更、こんなことでエリカを死なせたくなかった。彼女には、彼女にとっての自然死がある。それで十分じゃないかと思う。それは、決して安らかではないのだから。
 すっと光の筋が見えて顔を上げると、ひどく目を背けたくなるような、醜い男がいた。光を背にしているが、距離が近い分、薄明かりでも顔は見えた。金髪に、すらりとした体躯をしている。造作の問題ではない。目の光や、表情や、そう言ったものが、ひどく醜かった。人を捨てたような顔だ、とリュウは思った。
「あんたも何でわざわざ痛い目に遭おうっていうのかなあ」
 男はそう言って、にやりと笑う。
 違う、とリュウは思う。目の光などないのだ。人を捨てたのではない。
「データ、どこにあるの?」
 男はそう言って、両手をズボンのポケットに入れたまま、笑いながら、突然足でリュウを蹴り上げる。睡眠剤のせいで、リュウはまだ動けないことを悟った。さっきから、思考が緩慢なのもその所為なのだとぼんやりと考える。
「俺さ、ナイフとかあんまり好きじゃないんだよね。まして銃なんてさ。だって」
 男はそこでふと言葉を途切れさせると、リュウの左手を取って、小指をゆっくりと撫でると、おもむろにその骨をぽきりと折った。激痛に、リュウも思わず唸る。手首を離さずに持っていた男は、それを揺らして、小指だけがぶらぶらと揺れるのを見て、綺麗な指だね、と言った。
「こういうさあ、直接的な感覚っていうの?そういう楽しみがなくなるからなあ」
 男が笑う。
 人を捨てたのではない。こいつは、死人なのだと、リュウは思った。


 時間の感覚がない。
 全身は痛くて、もうその感覚さえないような気がしていた。もう、生きているのかも分からない。痛いと思うのが生きている証だといわれても、もうこうやって、永遠に痛いのかも知れないと思う。
 そんな地獄に、落ちたのかもしれないと。
 男は自分で言ったとおり、道具を使ってリュウを痛めることはしなかった。関節がはずれたり、骨が折れたりするその感触が、楽しくて仕方がないようだった。でも、すぐにそうやって楽しめるところがなくなると、つまらなそうに誰かと交代したようだった。
 記憶が曖昧だ。
 ほとんど、意識を失っていたように思う。
「非効率的過ぎるんだよ、お前のやり方は」
 変わりに入ってきた男は、そんなことを言っていた。それから、何か注射をされたように思う。瞬間、死のうかと思ったが、それが一番最悪な結果だと知っているリュウは、とりあえずメイに謝った。計り知れない迷惑をかけるだろうことを思って。
 そんなことは、最初から分かっていること。それを承知で、預かるのよ。
 メイはきっと、そう言うだろう。
 ――でも。
 全ては自分のわがままだとリュウは思っている。メイにデータを預けることも、エリカを手元に置くことも。自己満足だと、思っている。
 注射は、きっと自白剤だろう。ここなら何でも揃っている。そいうところだ。それならなぜ最初から薬を使わないのかとも思うが、あの死んだような男の楽しみなのだろう。人の身体を、粘土のようにいじるのは。
 そういう、ところなのだ。
 注射をされながら、せめて、梅花の名を口にした瞬間を、忘れられたらいいのに、とリュウは思った。消えて欲しいとは言わない。せめて、忘れられたら――
『忘れられる記憶を持つのなら、幸せかもしれんな』
 老人が、そう哀しそうに笑ったのを、リュウは思い出した。


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