サイレント・ノイズ 第五話
――盗マレタ声――
07
どうしてこんなに綺麗な目なのだろう、とファンはいつも思う。吸い込まれるような、でも鏡のように揺れない水面のような。その瞳に最後を見届けられるなら、それで構わない気がしてしまう。
ユーリが殺してきた人々が、殺される瞬間にふいに表情なくユーリを見つめる、その気持ちがファンはわかる気がした。それはとても、赦されて安らかに眠れると思う気持ちと、似ている。
二人は見詰め合ったまま、動けずにいた。真っ直ぐに伸ばされた手に握られる銃の銃口さえ、ぴくりとも動かない。
言葉を発したら、終わってしまう気がユーリはした。何も聞かずに、何も言わずに、この引き金を引いてしまうのが一番良いのだ、と思う。たぶんそれを、この目の前にすらりと立つ男も望んでいると。でも――
自分は、何を望んでいるのだろう。
この男の死を?自分の死を?
二人の、死を――?
ユーリは突然、伸ばしていた手をだらりと下ろして、持っていた銃をぽんっと捨てた。それから、尻ポケットからナイフを取り出すと、パチンッときれいな音をさせて、その刃を出した。それを見て、ファンもにやりと笑って、同じように尻ポケットからナイフを取り出すと、すっと構えた。
昔からこうして、二人で遊んだものだった。それは、傷つけあうような戦いであったにもかかわらず、何も遊ぶもののなかったその頃の二人の中では、立派な遊戯の一つとなっていた。ファンもユーリも、この真剣な、緊張感のある遊びが、とても好きだった。
先に動いたのは、ユーリだった。しなやかな豹を思わせる、伸びるような手と足。それで容赦なく、ファンを斬りつける。ユーリと何度も対戦したファンだからこそ、避け切ることができるのだ。最後の瞬間に、ぐぐっと伸びる腕との間合いは、ひどくとりにくい。狭い廊下で、ファンはそれを軽やかに避ける。
キンッと嫌な音が響いて、ユーリの刃が止められた。正確に喉元を狙ってきているその刃は、ファンの目の前で艶かしい光を発する。
静かだった。ここには誰ももういないかのように、静寂が満たされていた。
二人の視線が、一瞬交差する。でもそれは、獲物を狙うものの目であって、それ以外には何も語らない。
ファンが思い切り力を出してユーリの刃を跳ね返し、今度は自分の番だとばかりに、ユーリに斬りかかる。ファンの常人とは思えないほどの速い刃捌きを交わせるのも、それに慣らされたユーリだからだ。
ファンの戦う姿は、とても美しい。無駄なく鍛えられた筋肉が、無駄なく使われている。そんなことをふと考えて、奇妙な懐かしさに、ユーリは泣きたくなった。傷つけあうようなこんな行為が、二人の過ごした長い時間を語るなど、ひどく滑稽で、哀しかった。
どうして、このままではいられなかったのだろう。
こんな風に真剣に戦った後に、顔を見合わせて笑い合った日々が、どうして、遠くなってしまったのだろう。
ふっと風を感じて、危ない、と思ったときには、ユーリは胸の辺りに熱を感じた。服を切られて、一筋赤く染まったきれいな直線が、左脇腹から肩にかけて現れる。
「考え事してて、俺に勝てると思ってるのか」
荒い息を吐きながら、ファンがそう言った。その目を見据えて、ユーリは無言で反撃を開始した。傷はわりと深いはずだ。でも、それは麻痺したように痛みをもたらさなかった。その痺れは全身に広がり、脳までを侵し、ユーリは何も考えられずにただ、目の前の獲物を狙った。
この獲物は、極上だ。仕留められた暁には、きっと例えようのない幸福感があるだろう。
その感覚を、おかしいと思ったことはユーリには一度もない。ファンが、それは幸福感などではない、とはっきりと言い切ったそのときでさえ。
ユーリにはわからなかった。幸せというものも、命と言うものも。
気付いたときには、ユーリはファンを廊下の床に押し倒し、その喉元に刃を向けていた。でも鏡のなかにふと自分の小さな虚像を見つけて、ユーリはその手を寸前で止めた。
ファンの、黒く深い瞳に、自分が映っていたのだ。
「甘いな。一発で仕留めなかったら、お前がやられる」
ファンが無表情でそう言うが、ユーリはただその瞳を見るのに精一杯で、そんな言葉は聞いていなかった。きれいな瞳だ。濁りのない、深い色をした、何よりも尊いもののように思えた。
「どうして、また現れたんだ」
ナイフの鋭い切っ先を喉元に突きつけたまま、ユーリが呟いた。
「わからないよ、俺にも」
真剣に自分に斬りかかるユーリに、ファンはやはり、自分はユーリを殺すことは出来ないと思った。この幼馴染を、手にかけることは出来ない。何よりも大切で、その身体に傷をつけた自分が信じられないほどだった。
だからファンは、この組織から抜け出したのだ。大切なものを持ってしまった殺し屋は、きっとその大切なものを傷つけずにはいられない。自分のために、自分のその思いのために、傷つけられるのは、目に見えていた。殺し屋は、誰をも殺すことが出来なくてはならない。
いや、違う。
失うのが怖かったのだ。自分の目の前で、ユーリを奪われるのが、ファンはただただ怖かったのだ。
「会いたかった」
ほとんど無意識のようにファンがそう呟くと、ユーリの顔が歪んだ。ナイフを持つ手に力が入って震えていたが、力なくその切っ先は皮膚を撫でて、からん、と音がして転がった。撫でられた喉元の薄い皮膚には、一筋の細い赤い線が残った。ユーリはそのまま、その上に覆い被さるようにして、倒れこんで嗚咽を上げた。
待っていたのだ。
もう一度、手が差し伸べられるのを。
あの時掴まなかった自分の臆病さを、ずっと後悔していたのだ。
あれだけ真剣に戦って、たぶんはじめて、ユーリは相手を殺すことが出来なかった。きっとそうやってずっと、傷つけずにすむ相手を、命を奪わずにすむ相手を、探していたのかもしれなかった。