サイレント・ノイズ 第五話
――盗マレタ声――
06
上の階でばたばととしているのがカイたちにもわかったが、そんなことはまるで気にしていないかのように、ファンは廊下を走った。地下は広いわけではないから、すぐにまた反対側の突き当たりに行き当たる。そこで、前と同じようにファンは一瞬身を隠すと、続けざまに銃を撃った。恐ろしいほど、確かな腕だ。男が二人、ばさりと倒れるのが分かる。
「時間がないって言ってたな。エリカに何かあるのか?」
そっと部屋に近づきながら、ファンが小声で聞いてくる。
「無茶なことをされてなければ、まだ平気なはずです」
かなり痛いだろうに、しっかりと二人について来ているリュウが、そう答えた。ファンは小さく頷いて、二人に壁際に寄るように促す。それから、また足でそっと扉を開けると、銃を構えて部屋の中に向けた。瞬間、部屋と廊下に、明かりが点った。
目の前に、銃を突きつけられたのは、相手だけではなく、ファンも同じだった。それも、両サイドと正面からだ。しかし、様相がおかしい。部屋の中に、男が一人倒れているのだ。そして、正面で銃を構えているのは、長い髪を一つに束ねた、すらりとした長身の美女だった。
組織の人間ではない。
ファンはすぐに、そう気付いた。雰囲気が違うのだ。
「あなた、コバルト60の人間じゃないわね。どうしてここにいるのかしら」
女はそう言うと、両サイドの男たちに、ファンを捕らえるように目で促した。でもその瞬間、ふらりと影が動いて、両サイドの男はその方向に銃を向けた。
「リュウ……」
扉に寄りかかるようにして現れたのは、リュウだった。室内より少し薄暗い廊下の照明に、顔が少しだけ翳っている。
「あなただって、ここの人間じゃないでしょう。……久しぶりですね、山吹」
リュウは、そう言ってにやりと笑った。その顔はたぶん、今まで誰も見たことがないほど、冷たくて、怖い顔をしている。
「……やっぱり、あなただったのね。エリカを連れ去ったのは」
山吹は表情を凍りつかせたまま、そう呟いた。
「ひどいな。先に攫ったのはそっちじゃないか。その上、今度は他人の獲物を横取りしようなんてな」
リュウの声は、ひどく冷たい。まだ廊下にいて、リュウの顔が見えないカイは、いつもと随分雰囲気の違うリュウの声に、そっとその背を見つめた。そのまま中を覗くと、明るくなった室内に、眠っているエリカと、その隣に立つ長身の女の顔が見える。ファンもその女も、そして両脇の男たちも、銃は構えたままだ。三対三だが、武器を持たない二人がいる分、カイたちの方が分が悪い。
「隠れてないで出てらっしゃいな。殺しはしないわ。そんなことをしたら、蘇芳に怒られるもの」
覗いていたのがばれて、山吹のそう言う声がする。それにカイは、眉根を寄せて顔を出した。
――蘇芳だって?
あの、蘇芳だろうか、と思うが、それ以外にカイは蘇芳という名をもつ人物を知らない。
「蘇芳って……」
カイが確かめようと口を開いたが、足音が聞こえてきて、その場にいた全員が緊張するのがわかった。まるで忘れていたかのようだったが、ここは闇組織、コバルト60の敷地なのだ。
「エリカだけを連れて行っても無駄なようね。ここにはデータもない。また改めて、そちらをお伺いするわ。カイも、またね」
山吹はそう言うと、二人の男に合図をして、部屋を出ていった。
「おい、ちょっと……」
突然名前を呼ばれて、カイは混乱している。蘇芳を知り、自分の名を知る、この女は、一体誰なんだ?
「なんだかわからないが、詳しい話はあとだな。とにかく俺たちもここから抜け出さないと」
ファンがふっと息を吐き出して、山吹の後を追おうとしたカイの肩を掴む。カイはひどく気になったが、リュウにも促されて、エリカを抱え上げた。
「さっきの倉庫まで行く。今ならさっきの女たちが連中の気を逸らしてくれるだろう」
ファンのその言葉どおり、廊下に人はいない。上階でばたばたと音がしているのはわかったが、こちらに向かってくる様子がない。そのままファンが先頭にたって、エリカを抱えたカイがその後に続き、リュウがその後方に回った。
その先頭のファンが、びくりと立ち止まる。カイが前を見ると、自分と変わらない年頃の少年が、銃を構えているのが見えた。その先は、ぴたりとファンの額に向いている。美しい立ち姿だと、カイは場違いな思いを抱いた。
「なんで、ここにいるんだよっ」
ふっと冷たかった眼差しが崩れて、少年がそう叫んだ。それはひどく悲痛な叫び声で、カイは思わずファンを見た。じっと前を見詰める、ファンの表情が厳しい。
「迎えに、来たと言ったら?」
ファンがしばらくの沈黙の後、呟くようにそう言うと、少年の唇が震えた。ファンは、先ほどまでの厳しい表情が嘘のように、ひどく優しい顔をしている。凍りついたように、じっと前を見詰めるのは変わらず、それなのに、それは優しい顔だとカイは思った。
「殺すように、命令が出てる」
少年は、睨むような目のまま、そう言い放った。ファンはそれに、ふっと顔を緩ませて、カイ、と後ろも向かずに呼びかけた。
「先に行ってて。俺はこいつに話がある」
小さく、そう言う。カイは一瞬躊躇したが、リュウに促されて、その場を後にした。倉庫は、すぐそこだ。
「ファン」
「大丈夫。すぐに行く。でも俺を待たずに、外に出たら、すぐに逃げろよ」
ファンのその言葉に頷いて、カイたちはその言葉どおり、ファンを待たずに逃げた。
それから一度も、カイはファンに会っていない。
潜り込んだのと同じ道を辿って、隣家の裏庭に出たカイは、弱っているエリカとリュウをどうやって家まで運ぼうかと考えて、途方にくれそうになった。でも、そこに思わぬ人物が現れて、助けられた。
「なんでジェイクとウォンがいるわけ?」
「お前な、俺らをなんだと思ってるんだ?」
車を飛ばしながら、ジェイクがそう言う。本当のことを言えば、ジェイクはメイに言われて、カイの行動を探っていたのだ。それで、カイが地図作りが趣味の男のところに行ったという情報を手に入れて、そこからこの7区域のことを聞き出したのだった。
「ラブラブカップル」
カイがぼそりとそう言うと、ジェイクが固まったのがわかる。カイはカイで、あまりに色々なことがありすぎて、頭の整理がつかないのだった。
「冗談だよ、冗談」
あながち間違ってはいないと思いながら、カイはそう笑った。ウォンも呆れたようにカイを見ている。
「それにしても、良く入れたな、あの中」
ジェイクはわりと慎重に運転をする。狭い地下では、確かにスピードなど出せるものでもない。
「ああ、ファンって奴に会ってさ、いろいろ助けてもらった」
一体あの後、ファンはどうしたのだろうとカイは思うが、今はリュウやエリカを治療することが先決だろう。
「ファン……?」
ジェイクはそう呟いたまま、黙ってしまう。
カイはリュウに聞きたいことがたくさんあった。でも、そのリュウは怪我人だし、ジェイクやウォンがいることも、少しだけ質問することを躊躇させる。
ファンのこと。
山吹と言う女のこと。
梅花との関係。
聞きたいことがありすぎる。そしてそれよりもまず、どこか落ち着けるところで、ゆっくりと休みたいと、カイは切実に思った。