椿古道具屋 第一話
懐中時計の神さま 09
二人はそのまま、今度は桐原家に向かった。幸いにも昨日のお手伝いさんがいて、二人が千織の友人であることを、両親に話してくれた。どうやら医者に、今日が山場だと言われているらしく、どうか励ましてやって欲しい、と頼まれた。ここでももちろん、凪の制服姿は大いに役立ったようだ。さらに役立ったのは、水穂神社の息子、という凪が最も嫌っている形容だったのだが。
部屋に入っても、千織は昨日と違い、上半身を起こすこともできないようだった。二人の顔を見て微笑んだ顔は胸を衝くものがあって、史朗は咄嗟に言葉が出なかった。一緒に入ってきたお手伝いさんは、目頭を押さえて、「お飲み物を持ってまいります」と出て行ってしまった。
ベッドの脇に膝まづいて、史朗は懐中時計を取り出した。それを千織の掌に乗せると、千織はたった数日しか離れていなかったのに、懐かしそうに目を細めた。彼女はその「たった数日」で、起き上がることさえできなくなったのだ。
「時計、直せそうです」
千織の目が僅かに見開いた。少しだけ、希望の光が見えた気がして、史朗は力強く頷いていた。
「ただ一つ、約束して欲しいんです。時計は、おばあ様に返すと」
千織の首が微かに傾いだが、史朗は重ねて「お願いします」と言った。
「千織さんも時計を大事にしていることはわかっています。でも、おばあ様が生きていらっしゃるうちは、どうか彼女の手元に置いて上げてください」
訴えるうちに、史朗は「ああ、そういうことだったのか」と時計様の怒りの一端を知った気がした。彼女は全くその気はなかったにしろ、千織は祖母が生きているうちに遺品を分けてもらったような形になったのだ。そして老女は一人、施設に入っている――。かくしゃくとした祖父を持ち、祖母はまだ若いうちに他界、父方の祖父母も元気に健在している史朗には、その苦労はわからない。しかし、時計様は哀しんだに違いない。そして、せめて自分だけは傍にいよう、と思ったのだろう。だがそれも叶わなかった。時計様は、無念だっただろう。
なぜなら、時計様はきっと――。
「わかりました」
小さな声が、それでもはっきりと史朗の耳に聞こえて、はっとした。千織が苦しそうに息をしながら、頷いた。
「もともとは、おばあ様のもの、だから。大事にしていたから、今度は私が、と思ったけれど、おばあ様だって、まだ元気だものね。先走りすぎちゃった」
千織はそれ以上言わなかったが、零れた涙が全てを語っていた。そのおばあ様より先に、命が尽きるかもしれないのだ。なんて不幸なことだろう。おばあ様だって、きっとこんなことは望んでいないだろう。
「時計様、千織さんのおばあ様は、鏡様が映したあなたの姿を見て、やっと迎えにきてくれたのだと、言いましたよ。彼女はあなたを、待っていました。約束は忘れていないと、言っていました」
思わず史朗はそう言っていた。千織の虚ろな目が、史朗を見た。そこに、史朗は確かに時計様の存在を感じ取った。
「鎮まんな、時計様とやら。そうしたら、おまえを帰してやる。時計は、俺たちが責任持って、桐原のばあさんに届けてやるから」
凪が、すっと史朗の隣に立った。その肩を叩いて、そこからどくように促す。史朗は立ち上がると、一歩後ろに下がった。
凪は躊躇せずに、千織がかぶっていた布団をはがすと、その胸の辺りに右手を伸ばした。さすがにパジャマを脱がすようなことはしなかったが、胸のふくらみを気にもせず、指をそこに押し付けた。すぐに、ずぶずぶと熟れた果実に指が入っていくように、手が沈んでいく。史朗はたとえそれが幻なのだとしても、思わず口元を押さえた。
千織の目が、かっと見開いた。口も開いて、低い呻き声を上げる。ひどく苦しそうで、史朗は目を背けそうになった。
やがて凪は、顔を顰めて、野球ボール大の丸い塊を引っ張りあげた。額に汗をかいている。腕が震えていて、その塊が相当な重さであることを示していた。
だが、ほんの数秒後には、それは柔らかい光を放つ、夜空に浮かぶ月のようになった。しかし、史朗の目には、残念ながらその光は見えなかった。彼には、あたかも黒い塊が消えたように見えた。
凪は一息ついて、自らの掌を――正確には、そこに乗っている御魂を――じっと見つめた。それから、千織の手に乗っていた、銀色の懐中時計の上に置く。丸い塊は、すうっとその時計に溶け込んでいった。
「神馴らし」後の千織の顔色は、目に見えて良くなっていた。何も知らない、お茶を運んできたお手伝いさんは、顔色が良くなったようだと喜んで、両親を呼びに行った。友達が来たことが嬉しかったのだろうと、二人は引きとめられたが、また来ると言い残して足早に桐原邸を辞した。また病院に舞い戻らなければならなかったのだ。
「明日でいいだろ。期限は明日までなんだから」
病院へ向かうバスの中、史朗と並んで坐る凪が、面倒そうな顔をして言う。
「駄目。大体、時計様に責任持って届ける、って言ったのは凪だろ」
史朗の手には、懐中時計があった。凪は「帰ったよ」と言ったが、実はまだ時計は動き出していない。時計様も、現われない。
隣から長い溜息が聞こえて、史朗が隣を見ようとしたら、肩にことりと重みを感じた。驚いて、自分の肩で揺れる黒い髪を凝視する。
「着いたら起こせ」
凪はそれだけ言って、目を閉じた。
なんで俺が肩貸さないとなんないんだよ。史朗はそう抗議しようとして、でも思いとどまった。目を閉じたその顔が、なんだか疲れているように思えたのだ。
確かに、朝から色々あった。結局、病院を調べてきてくれたのも凪で、神馴らしなんて、わけのわからないことをしたのも凪。肩くらい、貸してやろう。史朗はいつになく寛大な気持ちになって、揺れる髪をくすぐったく思いながら、窓の外の流れる景色を眺めた。
「じゃあ、無事、おばあ様のもとに時計は戻ったのですね」
薬箱様が、ほうっと安堵の息を吐いた。糸巻き様など、目尻をぬぐっている。例によって、史朗の報告は要領を得ない部分はあったが、おおむね話の内容は伝わったようだ。今回は、凪も補足をしてくれなかった。よほど疲れたのか、病院から椿屋に着いてすぐ、ごろりと横になってしまったのだ。
懐中時計を手渡すと、桐原のおばあ様はそれを何度も撫でて、目を細めて懐かしんでいた。それから、ぱかりと蓋を開けた。史朗がそっと中を覗くと、時計の針が動いていた。思わず病室の時計を見ると、ちょうど五時になったところだった。時計は、まるで止まっていたことなど嘘のように、正確なときを刻みだしたのだ。
「それにしても凪殿、なかなかに気骨があるの。躊躇わずに心の臓に向かって手を突き入れられるとはのう」
織部様は、感心して、寝転がっている凪の背中を見た。凪にしてみれば、神様たちの姿は見えないし、声も聞こえないので、これだけみんなが騒いでいても関係ないのだろう。
「それにしても、不思議なことです」
「何がじゃ、薬箱殿」
「史朗様ですよ。普段は私たちのように、何かしらの姿をかたどった御魂しか見られないでしょう? それなのに、今回の時計様の荒魂が、黒くて重そうな丸いものだとわかったのは、何故でしょう?」
言われてみれば、そのとおりだった。史朗も首をかしげる。
「あんたが言った通りだろ。史朗は「何かの姿をかたどった」御魂なら見える。つまり、その黒い丸い塊だって、御魂そのものじゃない。何かをかたどったのと一緒ってことさ。その代わり、御魂が鎮まったら消えちまったとくる。消えちまったんじゃねえ、見えなくなっちまったんだ」
弟そば猪口様はそう言うと、まるで酒を飲むかのようにお茶をがばりと飲んだ。そして、その器を頭上に掲げて底を片目で見ながら、酒が呑みてえ、と呟いた。
それを合図としたように、数人の神様たちが台所に向かった。何やら、また宴会をするつもりらしい。部屋の中はすっかり薄暗くなっていて、史朗が携帯を見ると、六時半を回っていた。
「そろそろ帰んないとなあ」
「何を言っておる。これから宴じゃ」
「って、織部様。そもそも俺たちは酒飲んじゃだめなんです。こいつも疲れてるみたいだし、神様たちで楽しんでください」
ぴくりとも動かない凪を指差して言うと、駄目じゃ、と予想外に強固な口調で反対された。
「史朗さま。この宴は、凪さま――いえ、凪さまにお力添えをして下さった方に、感謝をするための宴でございます。助けていただいただけで、お供えもしないとなると、今度はこちらが荒ぶる神となるやもしれません」
そう言いながら現われたのは、池の鯉の神様、朱紫様だった。「おお、良く来なすった」と、織部様が座布団を敷く。
「荒ぶるって言ってもよ、この様子じゃ、この坊主の命も危ねえぞ」
「命?!」
突然話が深刻になって、史朗は説明を求めるように神様たちを見た。
「これ、あまり脅しをかけるものじゃありませんよ、そば猪口の。凪さまは初めてということもあって、疲れているのでしょう。神馴らしは、相当気力を使うと聞いていますからね。大神様は、お神酒を差し上げ、神饌を供えれば、そうは怒りますまい」
朱紫様が史朗を宥めるように、微笑んだ。
「凪さまは薄々感づいていたようなところがありますが……。史朗さま、『神馴らし』は、決して人の力でやっているわけではありません」
もしそうだったら、俺らの立場がねえよなあ、と弟そば猪口様が呟く。
「大神さまたちのお力添えで為していることなのです。凪さまはいわば依り代。その上、ご神託を述べるだけではなく、力も使いますから、人の身では堪えましょう。そして、お力添えをしてもらった御礼をしなければなりません」
「お礼……」
「深く考えずとも、感謝の気持ちを込めて、お神酒と供物を差し上げればよろしいのでございます。ただし、それをしなければ、凪さまは大神様の怒りを買ってしまいます」
先刻から、箪笥様の陰から、怖い怖い、と便利水様たちが震えているのが見えていた。凪が怖いのか、大神様の怒りが怖いのか、判断に迷うところではある。
「というわけで、宴だよっ。凪さまと史朗さまの初仕事をお祝いして、私らも大いに盛り上げようじゃないか」
かんざし様が、踊りだす。その横を、襷がけをした糸巻き様やら兄そば猪口様やらが、お膳を持って通り過ぎる。「危ないよっ。踊るなら真ん中でやんなっ」と糸巻き様の声も威勢がいい。
結局史朗は、またしてもここに泊まることになるようだった。どうやら凪も宴には参加しなければならないらしい。史朗はそのことを伝えようと、凪の方を振り返ったのだが、寝ていたはずの背中が消えていた。トイレにでも行ったのかもしれない。追いかけついでに、自分も家に電話をしようと、史朗は席を立った。
空には三日月が、冴え冴えと光っていた。