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□yugo08 http://recipe.electro.xx
ずっと会えなかったから、なんとしても会いたくて。
あの日幸野は、そう言った。それは謝礼を言うためであり、謝罪するためであり、そして、別れの挨拶をするためだったのだと、ユーゴは思う。あれから、一週間が経っていた。
どこか淡々と、でも辛そうに料理を習い始めた理由を語ってくれた幸野。あの時はあまりのことに泣いてしまって、その辛さばかりに思いが寄ってしまったが、今考えれば、つまりはもう、幸野は料理を習う必要がなくなったということだった。
客と担当なんて、そんなもの。
一度きりしか会わない客だっているし、環境が変わって、web electroの利用が困難になる客もいる。料理担当は数が少ないが、それでも三交代制で常時二人以上の人間を置いておけるだけの人数がいる。その上、web electroは年中無休だが、担当達は完全週休二日だ。
ぱりっとしたシーツの上に寝転がって、ユーゴは高い空を眺めていた。投げ出した左腕に、点滴の針が刺さっている。ぽたり、ぽたりとゆっくり落ちるその液体が、今のユーゴを生かしていると思うと、料理ってなんだろう、と思ってしまう。
少し休んだら?と軽くカナエに言われて、でも有無を言わせず、休暇を取らされてしまった。入院してもしなくてもどちらでもいいが、一日一度は通院するように言われている。体力は落ちたが、入院するほどでもないと思ったユーゴは、午前中に一度、病院を訪れることにした。
医師のカナエと話していると、どこか心が穏やかになる。彼は決して否定しない。ユーゴの言ったことを、まず、肯定してくれる。
聞かれて、ユーゴは幸野の話をした。彼がどれだけ素晴らしく、優しいか。ぽつぽつと、でもときには興奮気味に話すユーゴを、カナエは常に微笑んで、頷きながら聞いてくれた。後で思い返すと、ユーゴは顔が赤くなる。
でも、そのおかげで気持ちの整理がなされているのか、夜中に眠れずに菓子を作る回数は減っていった。二週間も経つと、前よりずっと穏やかな気持ちになれた。もちろんそれは、ただ幸野から離れて、諦めていっているからだとわかっていたけれど。
だからこそ、幸野の名を耳にしたとき、ユーゴは心臓が止まるような思いをした。
その日、久しぶりにぐっすりと眠れて、気持ちのいい朝を迎えたユーゴは、散歩がてら病院へ向かった。いつもより少しばかり時間は早かったが、カナエが忙しければ時間まで中庭ででも時間を潰せばいいと思っていた。
「で?いつになったらユーゴは仕事復帰出来るんだよ?」
カナエの診察室の前で聞こえてきた叫び声に、ユーゴはドアノブに伸ばしかけた手を止めた。この声は、タチバナだ。彼は何度か、ユーゴを心配して、部屋に遊びにきてくれていた。本当は、彼を見ると幸野を思い出してしまうユーゴにとって、タチバナは何も悪くないとわかっていても、その訪問はときどき苦痛だった。
タチバナは何も言わなかった。幸野のことは、意図的に避けているようだった。だからユーゴも、何も聞けなかった。本当は、ものすごく聞きたかったのだけれども。
いつも冷静沈着、穏やかなカナエの声は外までは洩れ聞こえてこない。だがタチバナは興奮しているのか、いつも大きめな声が、今はもっと大きくなっていた。
「ああ?そうだけど。でも、だから、誤解だって。あの人、大事に大事にしすぎたんだって」
出直そうか、とユーゴは思った。でも、自分の名が出てきたことが気になっていた。随分とのんびりさせてもらったが、仕事をこれほど休んで、迷惑をかけたのかもしれない。
「だからそれは、出張。会社のパソコン持ってくなんてへましてさ。場所も違うからアクセスできなかったんだよ。それだって無理やり切り上げて帰ってきたと思ったら、ユーゴは休みだろ?『ただ今そちらの担当はご利用いただけません』ってどう言う意味だって、詰め寄られたんだからな。でもカナエが何も言うなって言うから、俺は知らないって苦しい言い訳してさあ。それから毎日、ユーゴが駄目なら俺を呼び出して、どうしたんだって聞かれる身にもなってよ。もう知らないなんて言えないよ……。逃げ帰るなんて俺のスタイルじゃないし。それに、このままじゃ幸野さんの方が倒れる……」
ばたんっと廊下に音が響いた。その音の大きさに、タチバナもカナエも目を丸くして驚いていたが、ユーゴはそんなことに構っていられなかった。
幸野が、倒れる?
「ユーゴ……」
「タチバナ。幸野さん、どうかしたの?」
「え?あ、ああ、うん」
「どうしたの?!具合悪いの?病気なの?」
勢い込んで詰め寄ると、タチバナが両手を挙げて降参のポーズをとった。
「ユーゴ、少し落ち着いて。幸野さんは病気とかじゃないから」
カナエが、その向こうで苦笑していた。その声を聞いて、ユーゴはふいに自分が何をしていたのか自覚して、真っ赤になって立ち尽くした。
「ごめん、タチバナ」
「あーびっくりした……」
タチバナは万歳の姿勢のまま、目をぱちりとさせた。ユーゴは恥かしくて、そこに蹲ってしまいたくなった。
「まったく、どうしてそこまで想ってるのに、諦めようとするのかねえ」
少し呆れ口調で言ったのは、カナエだった。ユーゴは顔を真っ赤にしたまま、口元を手で押さえた。全く、カナエの言う通りだと思った。もう大丈夫なんて、全然そんなことはなかった。名前を聞いただけで、こんなに心臓が鳴っているのに。
「そもそもさあ、なんで諦めなきゃならないのか、そこが俺にはわかんねえ」
タチバナがようやく手を下ろして、ため息を吐いている。
「だ、だって、幸野さんは社長でSランクで、かっこよくて優しくて……」
ユーゴが呟くと、カナエとタチバナは目を見合わせて、弱々しく首を振った。
「Sランクのことも引っかかっていたのか……だからこそ、真面目だしお薦めだって言いたかったんだけど。俺も失敗したわけね」
タチバナは深々とため息を吐いて、ユーゴの肩を叩いた。
「とにかく、仕事復帰しなよ、ユーゴ。それで、幸野さんと話して来い。って言うか、頼むから話してきて。もう俺には手に負えない」
Sランクも人は人だよ、とタチバナが言う。ユーゴは話がよくわからなくて、助けを求めるようにカナエを見た。でもカナエも、笑って「行っておいで」と言ったのだった。
とにかくすぐに復帰、どうしても待ってるお客さんがいるんだよ。
タチバナがスケジュール担当にそう言うと、担当はしぶしぶながらユーゴの現場復帰を認めてくれた。どうやら幸野の名も効いたらしい。「特別だからな。ユーゴ」と言われて、ユーゴは深く深く頭を下げた。もちろん、カナエの診断書も提出した。そこに、治療の一環として「幸野氏と会うこと」が書かれていたことは、ユーゴは知らない。
担当には申し訳ないと思いながら、でも、幸野に会うのをユーゴは怖いと思っていた。タチバナはとにかく会え、大丈夫、を繰り返すのだが、ユーゴには到底歓迎される自信がない。でもそれなら自分を呼び出すことはしないだろう。そう思いついて、それにまたユーゴは傷ついた。重傷だと思う。
だが、復帰が認められてすぐ、携帯が鳴った。どきり、と胸が鳴る。これほどこの音が心臓に悪かったことなどない。
「あ……」
画面に示された番号は、忘れもしない幸野のお客様番号だった。思わず立ち止まったユーゴの背を、タチバナがぽんっと押す。
「ほらほら、お客様を待たせない!」
後になって、このときタチバナが、こっそり幸野に、ユーゴが仕事に入ったと知らせていたのだとわかった。客とのメールのやり取りは、自己責任において許されている。ただ、原則仕事中は禁止のはずなのだが。
ユーゴはブースに入っても、どきどきと心臓が破裂しそうなくらい鳴っているのがわかった。緊張に身体が震える。まるで初めて仕事をしたときのようだった。
でも、その震えも、幸野の前に行ったら治まった――と言うより、びっくりして止まった。前回と同じに、抱き締められたからだ。
「ユーゴ……」
耳を掠った声に、ユーゴはどしたらいいのかわからなくなる。一体、この身体を抱き締め返していいのか。
「あの」
なんとか出した声は、震えて小さかった。背中を、そっと、大きな幸野の手が滑る。大丈夫。ゆっくり話したらいい。そう言われているようだった。
「もう、会えないかと思った」
幸野のため息に、それは自分の方だとユーゴは思った。何しろ、幸野が呼び出さない限り、会うことは出来ないのだから。
何か言おうとして、でも、ユーゴは言葉を出せないまま、その肩口に顔を埋めた。そして、そっとその背中の背広を掴んだ。ほんの少し、かなり、控え目に。
「何度呼んでも出てこなかったときは、とうとう嫌われてしまったのかと思ったよ」
拒否コードがあることを知っていたからね、と幸野は言った。ユーゴは驚いて顔を上げた。苦しくて苦しくて、幸野のコードを拒否設定にしようかと思ったこともある。でも、それは決して、嫌ったわけではない。
「嫌うなんて……」
「でも、君は呼び出しに応えてくれなかった。どうしたのかとタチバナに聞いても、知らないの一点張りで……」
「すみません。あのときは、お休みを貰っていて」
幸野は離す気がないのか、ずっとユーゴを腕の中に囲ったままだ。その温かさと匂いに、ユーゴはうっとりしてしまう。
「じゃあ、嫌われていないと思って良いのかな」
真っ直ぐな幸野の目に、ユーゴは泣きたくなる。嫌ってなんていない。それどころか、好きで好きで――どうしたらいいのか、わからない。
頷こうとしたユーゴは、優しい表情で近づいてくる幸野の顔が見えて、それに引き寄せられるように目を閉じた。柔らかい感触を唇に感じて、ユーゴは控え目だった指の力を、少し強くした。それが、ユーゴの答えだった。
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