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蜜と毒


8
時を止めることなどできないことは分かっている。
先生と生徒と言う拠り所の無くなる関係を、裕貴は恐れていた。だから、この関係は卒業までと、二人の中では決まっていた。
京梧がそれを、嫌がっていることは分かっている。
京梧は学校での先生と生徒と言う関係が無くなる瞬間から、新たな関係が生まれると信じているから。
でも、裕貴にはその新しい関係が怖かった。きっと、戻れなくなる。そして戻れなくなるのは、裕貴一人に違いない。
先の不安をそう言う風に封じ込めるのは、裕貴の癖だった。期待して裏切られるなら、始めから期待しない。愚かと分かっていても、裕貴はどうしてもその方向へ流れて行く。
「俺が卒業しなかったら、俺たちはこのままでいられるのか?」
できもしない馬鹿なことを言っていると、京梧はわかって呟いた。ずっと、このままでいられるわけなど無い。この関係が、たとえ恋人と呼ばれる関係でも、「いつまでも」と言うのは、幻想と希望でしかないことも、分かっていた。
京梧の呟きは、裕貴には届かなかった。届いていたとしても、裕貴は答える気などなかった。
二人が必死にしがみついている時間は、嫌でも流れて行くことを教える。逸らすことの出来ない事が、いつでも待っている。今は、京梧たち三年生は自宅学習期間に入っていた。もう、高校生活は残り少なく、別れを待つばかりだった。
「お前、入試最後まで残ってるな」
卒業時点で、まだ決まらないその大学は、自宅からも通える近場の大学だった。レベルも学科も京梧には合っていたし、裕貴の事が無くても、京梧はその大学を目指しただろう。でも今や、それが二人を繋ぐ最後のものになっている。
「他にも受かってるんだろう?」
「あぁ」
「どこに行くんだ?」
聞くつもりのなかった問いが、口を出た。暖房をしていない資料室で、京梧の白い息に見惚れていた所為だろう。もっと何か、話して欲しかった。
「受かれば、最後の大学」
「……そうか」
裕貴は立ちあがって、窓際に寄った。京梧もコートを着込んだまま、椅子に座っていた。裕貴の吐く息で、窓が薄っすらと曇る。でも、それも外の空気の冷たさに、すぐに消えてなくなっていった。
二人とも、別れの言葉を言えないでいる。
卒業まで、まだ数日残っているのに、もう耐えられなかった。別れるその日を待つことが、出来なかった。
苦しくて、堪らない。
触れれば、その温もりを失うことを想像し、視線を合わせれば、もうそうやって見つめ合うことはない日々を思う。それがあまりにも辛くて、京梧はここを訪れた。
でも姿を見れば、そうして自分からこの関係を絶ち切ることが出来ないことを知らされる。
離すことなど、出来るはずがないのだ。
裕貴から離されたら、京梧はそれをただ見ているだけにするだろうか。
――それも、ない。
ひどくばかばかしいことを二人は考えていて、そのことに互いに気づいていない。
裕貴は京梧の強引さを恐れながら期待もし、京梧は裕貴が甘い言葉を言ってくれることを待っている。
望んでいることは同じなのに、二人は立ち止まっている。
たくさんの本に囲まれた部屋の中を、京梧はぐるりと見渡した。寒い所為で、いつも香っている紙とインクの独特の匂いが薄い。
触れれば、壊れそうな寒さだと京梧は思った。
本も、机も、窓ガラスも、裕貴も。
「――……寒くない?」
少し肩を丸めたような裕貴の背中に、京梧が話し掛ける。どうして今更進学のことを聞いたのか。そんな聞きたい言葉など出てこない。
「ストーブ、つけるか」
裕貴はそう言うと、部屋の中央に置かれたストーブへと歩み寄った。昔ながらのだるまストーブは、小さな部屋の中で明るく燃える。
二人は、長居をするつもりはなかった。だから、ストーブもつけないでいた。ほんの一言さえ言えば、それで終わりだったから。
裕貴が芯を調節しようと屈むと、その上から京梧の手が伸びてきた。そして、慎重に火を弱めていた裕貴の手を掴むと、一息にぐるりと回した。火は、ぼっ、と抗議するように音をたてて消え、辺りには、灯油の匂いが立ち込めた。
「何するんだ。寒いんだろう?」
京梧の突然の行動に、裕貴はため息をついて立ち上がった。それでも、京梧と目を合わせないように、下を向いてコートが汚れていないか見る振りをする。
「先生は、寒くないの」
二人で、いるのに。
二人でいるからこそ、余計に寒さを感じているのかもしれない。温もりを、欲するように。理由がなければ触れられなくて、寒さを理由にしていようとしている。
吐く息にさえ、触れられなくて。
冷たくなった指先を、暖めて欲しいのに。
京梧はずっと、そんなことを望んでいたのかもしれないと、自分の指先を見つめた。温もりを求め合って、ただ、互いに手を握り合うような。
「……寒いよ」
小さく呟いて、また火を点けようと座った裕貴に、京梧は背後から抱きついた。
「危ねーな。おい、坂城、重いだろう」
ふざけたように、明るい声で抗議をしようとしたのに、裕貴は自分の声が震えているのがわかった。
京梧は、ただ、暖かく。
コートの上からでもわかる、温かい体温。その温かさに、ただ、縋りつきたくて。
「坂城……最後に、しようか」
目の前の京梧の腕に、そっと伸ばされかけた手は、その腕に触れることはなかった。冷たいのに。ひどく、温もりを求めているのに。
「え?」
「抱けよ」
「……ユーキ?」
「ほら」
裕貴は、京梧の腕を解いて、コートを脱いだ。ジャケットも脱いで、シャツ一枚になって、ボタンをはずす。神経質そうな指が、一つ、一つ、肌を露にしていく。
「――なんで」
何故、こんな形でしか、触れることを許してくれないのだろう。ただ、温もりを求めてはいけないのだろう。
ボタンを全てはずして、裕貴はシャツを羽織ったまま、京梧に手を伸ばす。ひやりと冷たい感触が首筋に触れて、京梧は堪らなくなってその手を掴んだ。
「そんなつもりじゃない」
冷たい、と京梧は思った。掴んだ手首は冷たくて、京梧は目頭が熱くなるのがわかった。
「そんなつもりじゃないんだよっ」
叫んで、叩きつけるように手首を振り下ろして離すと、裕貴の手は、ぶらりと宙を泳いだ。掴まれた手首が熱く、裕貴はそっとそこに触れた。微かな赤い跡に、無意識に自分の指を重ねる。
京梧の、熱。
吐く息が、いやに白く見えるのは、京梧が温かいからだろうか。
その熱は、裕貴を救うかもしれない。でも、裕貴がその熱を奪うかもしれない。
そんなことは出来ないと、裕貴は思う。
――そんなことは、出来ない。
「――じゃぁ、」
裕貴が、掴んでいた手首を、さらにきつく掴んだ。
「じゃぁ、お遊びはこれで終わりだな。今まで、つき合わせて悪かった」
裕貴の吐く息が、京梧に届きそうなくらい近い。でも、ふわりと漂うと、それは目の前ですぐに消えた。
「……ずるい」
京梧が、呟いた。それから耐え切れずに、裕貴から目を逸らした。
こんなときだけ、真っ直ぐに目を見るのは、ずるい――
風がなって、窓ガラスが揺れた。何気なくその窓のほうへ目を向ける裕貴に、京梧は我慢ができずに、資料室を飛び出した。
天気予報では、静かな午後に、なるはずだった。







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