琥珀に沈む月
10
部屋に着いてドアを閉めた途端、俺たちは貪るように唇を重ねた。おかげで俺は、以前と比べればかなり立派な朗の新しいアパートをゆっくり見る暇もなかった。
舌が絡み合う。唾液が溢れそうになって、俺は鼻を鳴らした。柔らかく誘われるまま舌を追っていくと、優しく吸われた。
湿った音がして、唇が離れた。でもまたすぐに、二度、三度と重なる。最後は、ゆっくりと唇を舐められた。離れた途端、ひんやりと空気を感じる。
俺はふっと息を吐きながら、朗の肩口に顔をのせた。朗のたくましい腕が腰を抱いている。それが泣けるほど嬉しかった。
「抱いても、いいですか」
遠慮がちな声が吹き込まれた。いいながら、耳に口付けられて背中が震える。
俺は抱き締め返すことで、返事をした。
もどかしく靴を脱ぐと、寝室に引き摺られていった。ベッドに押し倒され、また口付けられる。朗は俺に跨った形でコートとスーツの上着を脱いで、それを放り投げた。ぐっとネクタイを緩める。太い首が晒されて、俺はごくりと唾を飲んだ。
俺も服を脱がなければ。そう思ったのに、動けなかった。朗の欲望に濡れた目に釘付けになっていた。
初めてと告白したあの夜とは、比べ物にならないくらい、朗は手馴れていた。五年の間、誰とも肌を重ねなかったはずがないのだ。そのことに胸が痛んだが、馬鹿なことだと目を閉じた。
ひどく丁寧に、胸を舐められる。恐ろしいことに、朗はあの一夜だけで俺の敏感なところを覚え、それをいまだに忘れていないらしい。躊躇いなく、責めてくる。人と肌を合わせることが久しぶりの俺には、堪らなかった。
「朗……そこ、もう――」
大して触られてないのに、息が上がって恥かしい。でも、あのキスだけで、俺には十分刺激的だった。欲しくて欲しくて、堪らなかったものが与えられたのだ。
朗は少し顔をあげるとにこりと笑って、身体をずらした。そのまま徐に、既に立ち上がっていた俺のものを口に含む。俺は驚きのあまり、「朗っ」と声を上げた。
ゆっくりと、丁寧に舐めあげられる。周囲は手で散々に責められて、俺は朗の髪を握ってやめろと抗議した。
「いやですか?」
ふいに口を離した朗が訊く。その間も、手の動きは止まらなくて、俺は責め来る快楽に耐えながら首を振った。
「そうじゃ、ない。でも、気持ちよすぎてやばい」
それなら安心しました、と朗は笑う。そしてまた、口淫を再開した。
「だめ、だって……」
最短記録でいきそう。そう思って抗議しているのに、朗はやめてくれない。濡れた音が部屋にかなり響くようになって、朗はようやく俺の後ろに手を伸ばしてきた。
初めてのときは、俺が自分でやったのを思い出した。ローションもなくて、ハンドクリームか何かを持ってこさせて、自ら指を突き立てた。でも、今の朗は迷いがない。
「湯野さん、すごい真っ赤」
後ろ向きに四つん這いにさせられて、俺はなぜか今更、恥かしくなった。こんな格好は何度もしたのに。
朗の唇が背骨をなぞる。それに、びくびくと身体を震わせた。長いあの指が自分の内側を探っているのも、堪らなかった。
違和感は、すぐに快感になった。洩れる声も抑えられなくなってくる。朗は何度も、声を出してもいいですよ、と言ったが、俺は首を振り続けた。
「朗、朗、もういいから」
もう、指が何本入っているのかもわからなくなってくる。でも、それでは足りないということだけはわかった。
「湯野さん、きつい。久しぶりでしょう?」
「ん……、でも、欲しい」
「煽らないで……傷つけるのは嫌だ」
朗が掠れた声でそんなことを言う。俺はまた、いやだと首を振った。うわ言のように名を呼ぶ。
何度呼んだだろう。朗はようやく指を抜き、俺を仰向かせた。腰の下に枕を差し込まれ、足を広げられる。
ゆっくりと、朗は入ってきた。少し遠慮がちなところが朗らしくて可笑しくなったが、俺ははっきりいって焦れていた。早く、欲しかった。
何度も呼吸して、意識して朗を受け入れる。でも、そのうち優しく顔や首筋にキスする朗のおかげで、快楽だけが頭を占めていった。
知らず閉じていた目を開けると、朗が心配そうな顔をしていた。こういうところは相変わらずだと、可笑しくなる。大丈夫だと安心させるように微笑むと、朗もほっとしたようだった。
「でも、きついでしょう? あの……」
朗が言い淀む。慣れるまで動かないつもりなのだろう。そっと髪を撫でられた。
「久しぶりなんですか?」
逡巡の末に出て来たのはそんな言葉だった。俺はその手を掴んで引っ張り、朗の頭を引き寄せた。
「あれ以来、誰ともしてない」
朗の首に唇を落としながら言うと、え、と小さな声が上がった。
「朗としただろ、五年前。それ以来、誰にも抱かれてない」
もちろん、抱いてもいない。そう言うと、朗の身体が一瞬硬直した。それから、恐る恐ると言った感じに、起き上がる。
「信用してないって顔だな。本当だぞ。――だから、焦らすなよ。ずっと欲しかったんだ、お前が」
どくり、と俺の中の朗が質量を増す。俺はそれに身体を震わせ、背をしならせ、喘いだ。本当に、この熱を早くどうにかして欲しい。
首筋に、噛み付くように口付けられた。歯の硬い感触がある。でも、全く痛くなかった。甘く痺れるような感覚に、俺は無意識に「早く」と強請ってしまった。朗はゆっくりと動き出した。
もう、声を抑えるどころじゃなかった。久しぶりだからなのか、五年ぶりの朗だからなのか、わからない。身体のコントロールが効かずに、勝手に色々動いてしまう。朗を包む場所が、焦がれたものを貪欲に呑み込もうと伸縮する。
朗の顔が辛そうに歪んだ。それでも、俺は緩められなかった。
朗は小さく息を吐き、俺を抱き上げて、宥めるように背中を撫でた。俺は腕を首に回して、唇をねだった。激しいのではなく、優しいキスを与えられる。
俺が落ち着いたところで、朗はまた動き出した。腰から下肢、背中、全身に快楽が巡る。ゆらゆら揺れているのがとても気持ち良い。
朗はもう、焦らさなかった。二人分の荒い息が部屋に満ちる。快楽に歪む朗の顔に、俺は満ち足りた気持ちになる。頭の中が気持ち良さで一杯になっていった。
朗の手、朗の体温、――朗の熱。
全てに翻弄された。
乱暴なほどに腰を打ち付けられたのに、果てたあとには、朗の優しさと頭が真っ白になるほどの快楽ばかりが、残された。
荒い息を吐きながら、俺たちは見詰め合った。唇が重なる。しっとり湿った熱い肌が触れ合って、俺は泣きたいような気持ちになった。
「泣きそうな顔」
目ざとい朗に言われてしまう。熱い唇が、今度は瞼に落ちてきた。
「嬉しいんだ。朗、五年前にちょっと会った俺のことなんてもう覚えてないと思った」
「ひどいな。あのとき俺、初めてだっていいましたよね? それも実家にまで連れて行ったのに、忘れるわけないでしょう」
朗がどさりと横に寝転がる。
「忘れてなくても、怒ってると思った」
離れた分、身体が冷えていく。奪われる熱が嫌で、俺は腕を少しだけ朗に寄せた。
「怒ってる? どうしてですか」
指が絡まってきた。それにひどく安心する。
「何も言わずに、いなくなったし」
落ち着き始めた呼吸の音が静かな部屋に響いた。朗は黙っている。俺はひどく不安になって、その横顔を見ることが出来なかった。
「あんな風にいなくなって、ごめん。今更かもしれないけど、ごめん。でも、どうしても、俺は一人にならないと駄目だったんだ」
あのとき、一人で立つと決めた。淋しがり屋で甘えたがりの自分は、朗がいたらきっと全てを頼り切っただろう。――恭司のことでさえも。
「俺は、あの後何度も電話しました。いろいろなところを捜し回りました」
ぎゅっと手に力を込められる。
「ごめん」
「嫌われたんだと思いました。実家になんか連れて行って、鬱陶しかったんだろうとか」
「まさか!」
思わずがばりと起き上がると、微笑む朗の顔があった。
「かなり落ち込んで――でも、氷上さんに、湯野さんはきっと全てをリセットしてやり直そうと思ったんだと言われて、淋しかったけど、それなら仕方がないと思いました」
朗は微笑んでいる。慈しむような目をして。
「カフェで会ったとき、氷上さんの言う通りだったとわかりました」
全てをリセットして、やり直した。確かにその通りかもしれなかった。だが、あの過去がなくなったとは思っていない。リセットして、「なかったこと」には出来ない。してはいけないのだ。一人で、立つためには。
「だから、あのとき凄く緊張していたんです。あなたはもう、俺とのことも思い出したくないのではないか」
思わず、手のひらで朗の口を塞いだ。そんな馬鹿なことがあるはずがなかった。
「思い出すどころか、忘れたことなんてなかった。ずっと。朗、朗とのあの思い出があったから、俺は頑張れたんだ。朗に出会って、朗の家族に会って、だから俺は――」
胸が締めつけられる。言葉が途切れた。
朗の指がすっと俺の頬を撫でた。何度も、何度も。涙を流してはいないはずなのに、流れる涙を拭いてくれているようだった。
「だから俺は、一人で立とうと思った。きちんと、自分の足で立って、朗の隣にいたいと思った」
あの頃、明日のことも考えられなかった。流れるままに、ただ生きていくのだと思っていた。どこかでそれを怖がっていたのに、俺は見ない振りをしていた。
朗が俺をまっすぐ見ていた。この目に恥じることがないように――なりたかった。
「ありがとう」
湧き上がってきた思いを堪えきれず、俺は絞りだすようにその言葉を言った。ずっと、伝えたかった。何より、伝えたい言葉だった。今の俺があるのは、朗に出会ったからだと。あの思い出を与えてくれたからだと。
頬を撫でていた指が止まり、手のひらがそのまま頬を包んだ。ゆっくりと頭を引かれて、俺は朗に口付けた。肌が触れ合う。
静かな夜だった。初めて抱き合ったときのように、水の底に沈みこんだような夜だった。
その静けさの中、俺たちはまるで子供のように、重なり合って眠った。
そうして起きた翌朝、日々が、ゆっくりと優しく、流れ始めた。
(了)