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ユーフォリア――euphoria―― 




11

 年が明けてからもう半月以上たち、小正月も終わった一月も末、例年にない大雪で、あまり雪の積もらない七緒が住んでいる街も、そこかしこに白い化粧をしていた。早朝と深夜の冷え具合は厳しく、夜も九時を過ぎた道を、七緒は足早に歩いていた。
 ――明かりが点いている?
 アパートの前まで来て、七緒はあり得ないその光に、一瞬自分が場所を間違えたのかと思った。もう三年近く住んでいる、自宅だというのに。
 七緒は馴らされた習癖で、ざっとドアの前を確認する。それから、ノブの鍵の差込口をのぞいた。無理やりあけられた跡はない。それから少し中の様子を伺うと、テレビの音と何か水を使う音が聞こえてきた。ふいっと台所の磨りガラスを見ると、誰かが立ち上がった影が見えた。
 七緒は思い切り眉を顰めて、しばらく考えた。鍵を持っているのは自分、ちょっと離れたところに住んでいる大家、そして、朝井だった。何かのときに困るから、と朝井には渡された鍵の一つを頼んであったのだ。その朝井が来ているはずはなかった。さっきまで一緒に仕事をしていて、何も言っていなかったのだから。
 七緒は眉を顰めたまま、とにかく入ってみよう、と鍵を入れて回した。テレビまでつけて、水を使っている強盗もないだろうと思いつつ、一応用心はして。
 入った玄関には、見慣れない靴が一つ。いや、この革靴は知っている気がする……そう思った瞬間、「あ、おかえり」と声がして、ひょこりと顔が現れた。
「哲史!」
 七緒は大きく息を吐いて、玄関に座り込みそうになる。それを何とかやり過ごし、靴をぽんっとばかりに脱いで、慌てて部屋に入った。
「おまえ……何やってんだ?」
「飯作ってる」
 呆気、と言っていい表情で七緒が問い掛けたのに、哲史は忙しそうに手を動かしながら簡潔に答えた。
「鍵、どうした」
「ああ、勝手に上がってごめんなさい。朝井さんにね、借りた」
 そうにっこりと笑う哲史は、コート脱いで、スーツ着替えたら?などと呑気に言う。
「なんで、朝井さんを知ってるんだよ……」
「えーと、実は今日署まで行って、伏見さんに会ったんだ。七緒にも会いたかったのに、いなかっただろ?それで、まあ色々話すうちにこういうことになったんだ」
 何が「こういうことになったんだ」だっ、と七緒は思いながら、どうせ伏見の奴だろう、と思ってため息をついた。どうも伏見は、面白がっている節がある。朝井が鍵を貸したことを黙っていたのも、伏見の差し金だろう。
「ごめん、迷惑だった?」
 黙って額に手をのせて考え込んだ七緒に、哲史が緊張した声で聞いてきた。ちらりと見ると、ひどく不安そうな顔をしている。その声と顔に、まさか迷惑だとは言えなかった。まあ、七緒にしても本当に迷惑なわけではないのだが。どちらかというと、分っていればこの寒い中、この部屋のぬくもりを想像して、憂鬱も少しは吹き飛んだだろうに、と残念だったと言ってもいい。
「いや、驚いただけだ。何を作ってるんだ?」
 ただ少しだけ、困惑はある。哲史と久しぶりにクリスマス・イブなんて日に会って、そのときは楽しく過ごした。でも、やっぱり最後に別れるとき、哲史がとても真摯な目をして言ったのだ。
『電話で言ったこと、嘘じゃないから』
 そう言うのが精一杯だったようで俯いた哲史に、七緒は惚けることも誤魔化すこともできなかった。ただ、黙っていて。どこまでも、卑怯な答えしか返さないと七緒は思う。
「あ、鍋なんだ。キムチ鍋。伏見さんが美味しいキムチ屋さん教えてくれてさ」
 哲史がそう言いながら、はやくコート脱いで、と目で急かす。それに苦笑しつつ、七緒はようやく寝室のスペースに歩いていき、コートを脱いでハンガーにかけた。ついでにネクタイをはずし、Yシャツのボタンも一つはずす。
「もう出来るよ。先に食べる?」
「ああ、貰うよ」
 七緒が振り向くと、テーブルには既に箸やお茶碗や取り皿が置かれて、あとは鍋を待つばかりになっていた。
「それにしても哲史、おまえこんな遅くに大丈夫か?」
 大きな事件はなく、それでも少しばかり溜まっていた書類を片付けていたせいで、決して早い時刻に帰ってきたわけではない。七緒が時計を見ると、もう九時半になろうとしていた。
「……駄目かな」
「え?」
「泊まっちゃ、だめかな」
 ひどく遠慮した声だった。駄目ならすぐに帰る、と続けて呟き、哲史は俯いたまま、視線を彷徨わせていた。今日は早く帰るだろうし、と署では言われていた。でも、その後伏見から電話があって、七緒は書類と格闘してるわよ、と教えられたのだ。それでも、ここまで来たらどうしても顔が見たくて、時計を見ながらあと少し、もうちょっと、と待っていたのだ。
 七緒は俯いた哲史と鍋を交互に見て、小さく吐息を吐くと、親には俺が電話しよう、と言った。
「……いいの?」
 ぱっと顔を上げた哲史の顔がとても嬉しそうで、七緒は苦笑した。ひどく素直に感情を表すようになって、明るくなった表情もまた、七緒には眩しかった。でも、その哲史の表情が少しだけ曇る。
「家には、いいよ、連絡しなくて。さっき、言ったから」
「って、おい。最初からそのつもりだったのか?」
「ううん。でも、どっちみち今日は家には帰るつもりはなかったから。そう、言ってあったし」
 微笑んだ哲史の痛々しさに、七緒は眉根を寄せた。とりあえず食べよう、と促すと、こくりと頷いて座ったが、手を動かそうとしなかった。
「どうした」
 ビールを取ってこよう、と思って七緒が冷蔵庫に向かいながらさりげなく言うと、うん、とわけのわからない返事が返ってきた。
「ごめん、冷めちゃうね。食べようか」
 哲史はそれだけ言うと、吹っ切ったように今度は元気に話し出した。それでも、学校のことや、今日署で聞いた話を楽しそうに話すその姿は、どこか空元気のようで、七緒は一緒に笑ったり怒ったりしながらも、どこか心配が拭えなかった。


 絶対ソファー。
 そう言って、無理やりソファーの寝床を確保した哲史は、少しだけ目線を上げて、ベッドの上の七緒を見た。ぼんやりとした明かりの中、布団に埋まる七緒はでも、あまり見えない。
 風邪を引かれたら困るし、自分は署で慣れてるから、と七緒が言うのに、哲史は頑としてソファーで眠るのだと言い張った。七緒のほうがずっと大きく、がたいもいい。自分はソファーでもそれほど窮屈じゃないし、掛け布団を貸してくれれば大丈夫、と何度も言った。
 ――そうじゃなかったら、一緒に寝るからな。
 その言葉は、とうとう言えなかった。七緒が言ってくれることを期待したかもしれないが、そんなことはありえない、とさっさと諦めていて、あとは自分が言うだけだ、と思っていた。でも、冗談でもそんなことが言えない自分に気づいて、哲史は苦笑するしかなかった。
 会えばわかる。
 自分がどれだけこの七緒という男に救われているか。顔を見るだけでほっとして、笑ってくれたりなんかしたら、泣きそうになる。
 でも、それは決して特別なものではない。
 今日、朝井や伏見、刑事課の他の人たちや後輩の来生に会って、七緒がどれだけ信頼されて、そして思われているのかわかった。七緒は自分に対するように、やはり他の人にも優しく、厳しいのだろう。来生にしても、鬼って言われてるんだ、と言いながら、嬉しそうに、誇らしげに笑っていた。
 ずっと傍にいられたら。
 ただそれだけを願ったのは、あの最後の電話のときだった。あのときのことを、謝るな、と言ったのは哲史だ。七緒がひどく辛そうな顔をしていて、哲史はどうにか笑って見せた。ありがとう、と自分が言うのはいいが、七緒に謝られたら惨めだから。そう言ったら、微笑まれた。
 哲史はそっと起き上がって、外を眺めた。まだ残る雪に月明かりが反射しているのか、カーテンを開けるとずいぶん明るかった。立ち上がって見える、七緒の穏やかな寝顔に、胸が苦しくなる。
 自分は肌を合わせることを知っている。だから余計、触りたい、触れてもらいたい、と思う。こんな風にそれが可能な夜に、だから自分は眠れない。あんな穏やかな顔をして、眠ることなんて出来ないと思う。でもそれと同時に、快楽とお金のためだけに肌を許してきた自分に、吐き気がする。その肌を七緒に触れてもらいたいと思うこと自体、思い上がっていると思う。
 会えないでいた間ずっと、考えていた。弟の代わりでも良いと、決心した。でも、声を聞いて、その顔を見て、一緒に時を過ごせば、自分はどんどん貪欲に、我侭になっていく。だからと言って、それを上手く誤魔化せるほど、大人でもない。
 哲史がほうっと息をつくと、目の前のガラスが一瞬白く曇った。
 自分は今も、一人で立つことが出来ずにいるのだ。両親には虚勢を張って、その分七緒に甘えている。優しい、七緒に。それなのに、その優しさが憎らしい。
 哲史は一瞬目を閉じて、それからゆっくりと目を開けると、窓の外を眺めつづけた。




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