青空でさえ知っている
09
『こんな片思いをできるなら、
僕は早く大人になりたい。
辛くて、心が引き絞られるような、
そんな片思いではなくて、少し哀しくて、
切なくて、でもどこか余裕があるような、
そんな片思いができるなら。
早く、大人になってしまいたい。』
白い厚紙に書かれていたのは、豪快な筆跡とは不釣合いな内容だった。自分と同級の図書委員たちは、どうやらPOPの筆跡を誤魔化しているらしい。理はそう、聞いていた。それに、いつもの「彼」の筆跡なら、今ではよく見知っている。丁寧で読みやすい、部分的に丸みを帯びたその文字ならば、すぐに見つけた。
筆跡を誤魔化されている限り、POPの中身を読まなければ、目当ての人物が紹介する本はわからない。彼は一つのジャンルにこだわってもいないので、ジャンルで探すわけにも行かない。そして今回は、なんと恋愛小説だった。
「ふーん……。恋愛小説かあ。珍しいな」
POPを眺めていたら、後ろから声をかけられた。振り向く間もなく、肩に顎が乗せられる。もとからだという、薄茶色の髪は信吾のものだ。理はその耳元で、舌打ちをしてやった。
「おまえ、なんでいんの」
「お勉強。期末近いだろ?」
確かに、図書館にはいつもより人がいた。本を読んでいるのではなく、勉強をしている生徒ばかりのせいか、少しだけざわついている感じだ。みんな小声で話しているが、それも集まれば騒々しい。
「そのPOPくん、ジャンルは色々だったけど、今まで恋愛小説はなかったよな?」
信吾は、理が同じ図書委員が書いているPOPの本ばかりを借りていることを知っている。いや、ばれた、と言うほうが正しい。あまり本など読まない理が、月に一度、必ず本を借りることに興味を持ったらしい。信吾自身は読書家だ。図書館には良くいる。こっそり観察され、POPを眺めているところを見られたのだ。
「一回だけ、ある」
「えー……? あ、三島か」
三島由紀夫という、教科書に載っているような作家の本を自分から借りて読むとは、理は自分でも想像したことはなかった。中学校まで、読むなら専ら漫画、だったのだ。
「あれ、三島かあって思ったけど、別に三島だからじゃなかったんだなー。単純に、面白かったから、って感じで」
あの文は良かったよ、と信吾が微笑んだ。顎はまだ肩にのっていて、喋るたびにかくかくと動く。
「僕たちにも、こんな恋をする権利があるはずだ!」
信吾が、三島の「潮騒」を紹介したPOPに書かれていた文を諳んじる。当初から、たいそう気に入っていたようだ。
「でもあのときは、別にこの子、好きな子いるんだなあ、とか思わなかったけどね。でも今回のこれは……」
まるで誰かに片思いをしているみたいだ。
呟かれた言葉に、理は心の中で同意した。文を読めばわかる。この人は、きっと好きな人がいて、きっと辛い片思いをしているのだ。胸を焦がすような――焦げてしまった火傷の跡がひりひりするような、そんな感じが滲み出ている。
「片思い、ねえ……」
信吾が含むような口調で呟く。いいかげん肩も重くなってきたから、理はその頭をぱしぱしと叩いた。ようやく信吾は真っ直ぐに立った。
「理は、そのPOPくんが誰なのか、わかってるんだろ? どうなの? 片思いしてそう?」
理は信吾の言葉を無視して、本を棚の上から取り上げた。腕がぶつかって、POPがゆらゆらと揺れる。
片思い、しているのだろう。昨日見た、切なげな微笑を思い出す。最近両思いになったばかりの図書委員長の隣で、彼はその微笑を湛えていた。委員長の守谷が同級の長倉に惚れ込んでいることは、大方の生徒が知っている。相手がいる人間に思いを寄せると言うのは、確かに辛いものだ。そう考えると、自分も似たようなものだと理は自嘲する。
信吾は理の返答を待っている。もういい加減、言ってしまえ、というような顔をして。彼が誰なのか、うすうす見当がついているのだ。
同じクラスになったのが嬉しくて、勝手な思い込みで実行委員に誘ったのが、間違いだった。いや、全体的に見れば間違っていなかったと思うが、それによって信吾に悟られたのは、失敗だった。
カウンターに向かう理に、信吾は「感想聞かせろよ」と囁いた。それから、机に戻っていく。そこには、篤弘が懸命に勉強している姿があった。
カウンターで貸し出しの手続きをして、図書カードに本のタイトルを書き込む。貸し出し業務自体はコンピュータ化されたにもかかわらず、司書の宮森先生の意向で、図書カードも存続している。卒業時に渡されるそのカードによって、高校三年間、自分がどんな本を読んだのかわかるから、と言う意見に、学校側も賛成した。
自分のカードを見たら、彼のPOPに影響された読書遍歴を辿っていると、一目でわかる。そう考えると、少し気恥ずかしいと理は思った。
本と学生証を渡され、理は学生証を財布にしまいながら、図書館を出た。湿った空気に、窓から外を見上げる。どんよりと曇った空が見えた。今晩も雨が降りそうだ。
最初に彼のPOPに惹かれたのは、去年の五月のことだった。新入生は、月に一冊は本を読むように言われる。ある種、国語科のロングスパンで出る宿題のようなもので、月の終わりに短い感想を書かなければならなかった。
読書が苦手だった理は、正直困っていた。薄い本でも構わなかったので、とにかく字数の少ないものにしようかと考えていたとき、たまたま図書館でPOPを目にした。最初は、ずらりと並ぶPOPに、なんだろうと好奇心が働いただけだ。
眺めていると、読んでみたいと思う本が何冊か出てきた。それでも、分厚いハードカバーの小説には、なかなか手が出なかった。だが、彼が推薦していたのは、新書だった。厚みだけを考えれば、薄目で理の希望に叶っていた。でもその本を手にしたのは、その薄さに惹かれただけではなかった。
『僕たちは、細胞レベルでは、一年も経つと
すっかり入れ替わっているのだそうだ。
高校生になっても、結局自分は変わらないと
嘆く必要はない。
抗えない自然の力で、一年前とは確実に違う
自分になっているのだから。
そう言うことを実感するためにも、そして
理科嫌いにはそのベクトルを多少なりとも変える
ためにも、読んで欲しい一冊』
横で揺れるPOPに書いてあったその文章に、理は惹き付けられた。高校に入って、それも全寮制で家族から離れた生活をすることで、理は何かが大きく変化するのではないかと期待していた。「何か」とは、具体的なものではない。自分でも、その正体がわからないような期待だった。だが、九重はその九重らしさによって、新入生の理に自分の子供っぽさや未熟さを突きつけた。既に五月には、そのことで理は自分に失望していた。
POPの文で救われたとか、安心したとかではない。だが、その本を、無性に読んでみたくなった。そして、読書の楽しさを知ったのだ。
本自体は、DNAの二重らせん構造の発見にまつわる話で、「変わらない(変われない)自分に悩む高校生を励ます本」などではまったくなかった。だが、POPに書かれたような細胞の入れ替わりの話に、ぽろりと目から鱗が落ちたような気がしたのは本当で、理はこの本を夢中で読んだ。語り口もわかりやすく、今までの理にしてみれば、「生物の勉強のための本」と分類していたような本が、とても面白いことを発見した。それで理は、POPを書いた生徒に、感嘆するとともに、大いに感謝した。
同じ生徒が書いたPOPを毎月探すのは、至難の業だった。歴代のPOPは、コピーされてファイルに保管してあるため、見ることができる。そこから、筆跡で当てようと思った。だが、次月のPOPは、紹介の文章があまりに違った。それとなく図書委員に聞いてみると、POPを書く人間と、内容を考える人間と、別にしているという。筆跡は、まったく手がかりにならなかった。
同じ一年だということは、五月のPOPの文章から確信していた。「高校生になっても」の下りは、上級生が下級生に向けたものではないと思ったのだ。文を考えた生徒が、理と同じように、「高校生になったら自分は変わる」と感じていたのだと思った。だがその期待は裏切られ、この本に出会い、裏切られたなどと傷ついたふりをした自分が馬鹿らしくなったのではないか、と。
理はこの生徒が誰なのか、切実に知りたい、と思った。会って話をしてみたい。そう思って、図書委員にもさりげなく訊いてみたが、POPを誰が書いたのかは、絶対に教えてもらえなかった。
毎月真剣にPOPを読んでいると、だんだん文章の癖のようなものがわかるようになってきた。それと、言葉では言い難い、印象だ。彼の書くPOPは、気取りがない。図書委員の中には、ときどき、自分はこんなに難しい本を読んでいる、とまるで自慢するかのようにPOPを書く生徒がいたが、彼は決して、そんな風には書かない。言葉を尽くし、必要ならば噛み砕き、とにかく伝えたい、その一心で文を考えている。
彼のPOPだと確信を持ち、間違えないようになったのは、例の三島由紀夫の本からだった。以前にも、何人かの生徒が三島の本を紹介していたが、小難しい言葉を使っているものが多かった。その中で、彼は素直に「僕たちにも、こんな恋をする権利があるはずだ!」と物語の中の恋を羨んでいた。ああ、これは絶対に彼だ。その文を読んだとき、理はそう確信していた。
のびやかで、素直な文章。ときには、さりげない優しい視点で登場人物たちを見ていることが伺えるものもあった。理は、本よりもまず、そのPOPを読むのが楽しみになり、月初めを心待ちにするようになった。図書館報にも、各委員たちの書評めいたものが毎号載るため、それもチェックした。
その図書館報が、彼の正体のヒントになった。記事には、署名が入る。名前の最初の一文字のときもあれば、苗字だけのときもあったが、書評はフルネームだった。そのためもあってか、少し堅苦しく、伸びやかさを失った文章にはなっていたが、理は彼をすぐに見つけた。やはり、同じ一年だった。
彼とは、クラスも寮も違った。接点など何もなく、遠くから眺めるだけだった。だがそれでも、いいと思っていた。最初にPOPを読んでから半年以上が経っていて、このひそやかな、相手は自分を知らない関係が、ちょうどいいと思い始めた頃でもあった。
その気持ちが変化したのは、いつだっただろう。
実は、最初、理は自分が人違いをしたと思ったことがあった。POPから伺える彼の性格と、実際の性格が、あまりに違っていたからだ。理が想像していたのは、路のような明るく元気で、素直な性格の、でも路とは違って知的な――と言えば路に憤慨されそうだが――人物だった。ところが、実際目にする彼は、大人しくて遠慮深い、みんなからいつも一歩引いたところに立っている、ごく控え目な性格をしていた。
それでも彼だと確信したのは、彼が読んでいる本がPOPで紹介されたことがあったからだ。その文は、紛れもなく、理が追いかけている生徒のものだった。そしてその姿を目で追っているうちに、彼は本のことになると、まるで人格が変わったかのようになることを知った。他の図書委員と好きな本について話しているときなど、その表情は生き生きとして、目は輝き、動作も大きくなっている。そのときに見せる衒いのない笑顔を見ていると、彼があのPOPの人物なのだと、素直に思えた。
多分、そのギャップにやられたのだろう、と理は思う。彼をもっと知りたい、と思うようになり、あの笑顔を自分に向けて欲しいと願うようになった。
願うなら、そこまでにしておけば良かったのだ。だが、同じクラスになって、無理矢理自分のテリトリーである実行委員に入れることに成功して、彼のことを知る度に、独占欲が生まれていった。先走ったその気持ちのおかげで、結局、理は友人という椅子にすら坐れていない。
図書室から教室に戻ると、誰もいなかった。理は借りてきた本を、鞄に入れる。
ふと、斜め前の席を見た。いつもいつも、見つめている場所だ。最近少し、髪が伸びてきたように思う。少しばかり猫背で、たぶんときどき、居眠りをしている。前日に、夢中になって本でも読んでいるのだろう。理はその背中を見ながら、いろいろな想像をする。当てられて、緊張して赤くなっている顔とか、頬杖をついてぼんやりしている表情とか。そんなことを考えながら、いつも強く祈っている。
彼が――安里が――、振り向いてくれないか、と。