春の夜を疾走し 10
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春の夜を疾走し

10
 夕食の間も、梅野は油断をすればつい「やめようか」と思ってしまう自分を励まし続けた。視界の隅に高居が入ったときは、あまりに心臓がばくばくとして、食べる手も止まってしまった。
 部屋に帰って紅茶を飲んで、なんとか気持ちを落ち着かせていたら、古柴が来た。梅野の弱気なところをわかっているようで、天文部の観測会だから今夜は戻らないから、と同室の重藤に言って、逃げられなくされてしまった。
 ほら、と古柴にエレベーターから押し出されて、梅野はなんとか高居の部屋に向かった。だが、部屋の前に立ったとき、梅野は一体何と言ったらいいのかと悩んでしまった。古柴は「やろうって言え」と言ったが、そんなことを言えるわけがない。
 好きだ――。
 素直な気持ちはその一言に尽きた。でも、そんなことは思っただけでも顔が赤くなってしまう。
 考えても名案は浮かばない。梅野はふっと息を吐いてから、えいっとばかりにドアを叩いた。
 かちゃりとドアが開いたとき、梅野の緊張は頂点に達しようとしていた。自分から訪れたと言うのに、何も言えずに立ち尽くしてしまう。
 その梅野を見て、高居はひどく驚いた顔をした。それからぼそりと「来たのか」と言った。
 梅野は思わず「あ……」と声を零した。
 浮かれていた自分が馬鹿みたいだ、と思った。この気持ちを伝えるだけでも、と意気込んできたが、それが迷惑になることを考えなかった。九重に二年いて、感覚が鈍ってしまったのかもしれない。梅野が知る限り、高居は今まで、他の生徒と付き合ったという話もなければ、噂になったこともない。二年もここにいれば、諦めたように男同士ということに目を瞑るようになったりもするが、他人に対してはそうであっても、自分自身のことを受け入れるのとはまた違う。そんなことも、忘れていた。
「入れよ」
 高居に言われて、梅野は思わず逃げてしまおうかと思った。だが、突っ立っているだけの梅野に焦れたのか、高居が腕を掴んで引っ張った。
 少し乱暴に腕を掴まれて、梅野は居たたまれなかった。その上、「古柴がわけのわかんないこと言ってたんだけど」とも言われて、思わず梅野はその腕を払うと「ごめん」と呟いた。
 俯いた頭上から、小さなため息が聞こえる。
「あの、ごめんな。高居の都合も訊かないでさ」
 今から観測会に行こうか、と梅野は思った。だが、酷い顰蹙を買いながらキャンセルしたのだ。今更行くのも気が引けた。
「迷惑だったら、俺、こっちで寝るから」
 そう言って、梅野は古柴のスペースに向かった。
 古柴のおかげで、今夜はもう帰れない。いや、こうなったら、古柴のせいと言うべきだろう。ベッドくらいは提供してもらおうと思った。
「梅野? 何でそっち向かってんだよ。迷惑って……」
 高居が慌ててまた腕を掴んできた。梅野は構わず、足を進めようとする。それに、高居が「待てって」と怒った声を上げた。
「今日は別のところに泊まるって言って出てきたから、帰れないんだよ」
 離してくれないか、と梅野はなるべく落ち着いた声を出そうと努めた。惨めだ、と思った。滑稽だとも。
「――だからって、なんで古柴の方に行くんだよ」
「ソファーで寝ろって? 古柴、今日は帰って来ないだろ。ベッドが空いてるのに、使わないなんて勿体ないじゃないか」
 高居の腕を掴む手に力が入った。思わず梅野も、顔を歪めた。だが、文句を言おうと顔を上げたら、ひどく怒った顔の高居がいて、言葉を飲み込んでしまった。
「だったら、俺がそっちで寝るから、お前がこっちで寝ろ」
「はあ? 何言ってんだよ」
 高居は自分のベッドがあると言うのに、わざわざそんなことをしなければならない理由がわからない。梅野は呆れた声を上げた。いい加減、手を離して欲しかった。
 ――この手を、欲しいと思った。大きなこの掌に、撫でられたいと思っていた。そんな自分が、悲しかった。
「何の意味があるんだよ。そんなことする必要ない――」
「おまえが他の男のベッドに寝るなんて、許せるわけないだろっ」
 急に怒鳴られて、梅野はぽかりと口を開けて高居を見た。もの凄く、怒っている。すごく鋭い目で、梅野を睨んでいる。あまりに恐ろしい形相で、梅野はひやりとした。だが同時に、内心首を傾げた。
 高居が言った言葉を、頭の中で繰り返す。その意味を、自分に都合よく解釈していいのかと、どこかで期待したい自分がいる。じんわりと、耳の先が熱くなってくる。ざわりと鳥肌が立つときのような、感覚があった。
 期待して、いいのだろうか。梅野はじっと、高居を見つめた。
 高居は梅野から手を離して、苛々したように頭をくしゃりとかき回した。
「だって高居、ドアを開けた途端、来たのかって言っただろ? 俺、迷惑かと思って……」
「違う。まさか、来るとは思ってなかったんだ」
「だから」
「古柴が! あいつが、梅野が来るなら、そのつもりで来るって言うから……」
 二人は思わず見詰め合った。なんとなく気まずいような、探り合うような、微妙な空気が流れた。
「――そのつもりで来たんだけど」


 梅野の呟きは、消え入るような、小さな声だった。
 高居は大きなため息をついた。笑い出したいような気分だった。一体、何をしているのだ、自分たちは。
「俺は、おまえは俺に抱かれるのなんか嫌なんだろうと思ってた。そもそも、どこまで好意を持ってくれているのかわからなかった」
「そんなの、俺だって同じだった。高居は男に興味なかっただろ。前にやったのは、その、事故みたいなもんだったし。それに、俺みたいなのを抱くなんて本当は嫌何じゃないかと思って……」
 高居はすっと手を伸ばして、梅野の頬を撫でた。そのまま頬を手で包んで、顔を上げさせる。それからゆっくりと顔を近づけると、唇を重ねた。
 舌を絡めて咥内を貪る。柔らかい唇と絡む舌に、高居はそれだけでは満足できないと、歯の裏から口蓋まで、余すところなく犯す。高居がそれに夢中になっていると、梅野が鼻をならした。
 ゆっくりと顔を離す。高居は濡れた唇を無意識に舐めた。梅野はぼんやりと潤んだ目でその唇を眺めていた。僅かに開いた唇が誘うようで、高居は言おうと思っていた言葉をとりあえず置いておいて、もう一度、唇を重ねた。
「もう古柴のベッドに行くとか言わないよな」
 ようやく高居が言いたいことを言ったとき、梅野は頬を上気させていた。とろりとした目で、高居を見てくる。
 しなやかな手が伸びてきて、首に掛かる。三度目に唇が重なる。二人はそのまま縺れるようにベッドに向かい、柔らかい布の上に倒れこんだ。
 梅野の変化は鮮やかだ。普段の無表情さが嘘のように、一つ一つの愛撫に敏感に反応する。するほうにしてみれば、楽しくて仕方がない。
 高居は全身をくまなく愛撫した。唇と手で、ゆっくりと、丹念に。その度に、細かく震える肌にも、洩れる吐息にも、高居は煽られた。
 ずっと、触れたかったのだ。何度、伸ばしかけた手を引き込めたことだろう。
 梅野は何も言わない。甘い喘ぎ声と、熱い息は吐き出すが、言葉でねだることはない。だが、その目は雄弁なほどに、高居に行為を促した。
 ゆっくりと、慎重に、後ろを探る。だがやはり無理な部分があるのか、先走りのぬめりを借りてそっと指を差し入れても、梅野は眉根を寄せて、耐えるような顔をした。高居は仕方なく、意外なほどにお節介だった古柴が置いていった、ローションを手に垂らした。
 本当は、古柴から貰ったものなど使いたくなかった。だが、急なことで用意が出来なかったのだから、仕方がない。もう、梅野に辛い思いをして欲しくなかった。
 自分と比べてずっと細くて柔らかい身体がしなる。ごつごつとした感触は男のものだが、筋肉で覆われた高居の身体と並べば、梅野の身体は細い。
 ゆっくりとその中に入ったとき、梅野は高居の腕をぐっと握ってきた。痛いほどに爪が食い込む。だが、それが愛しいと高居は思った。
 ゆっくりと丁寧に快楽を引き出すと、梅野は目を潤ませた。同じ快楽に誘うように、中が伸縮する。何かを訴えるかのように見つめられたら、堪らなくなった。まるで動物のように、ただその身体を貪った。


 梅野は最近、放課後は部活に行くか図書館で宿題をしたりして、ゆっくり寮の部屋に帰るようになった。帰り道にゆっくりと校庭の脇を歩いて、こっそりと高居を見ることが楽しかった。
 思いが通じ合ったからと言って、教室の中での二人は変わらなかった。今までもほとんど話をしていなかったから、今も必要なとき以外、会話をすることはない。でも、どちらかと言えば意識をしすぎているところがあって、目が合うとどことなく恥かしくなって不自然に目を逸らしたりする。耳の先を熱くしながら、梅野は中学生みたいなことをしてる、と可笑しくなってしまう。でも、ひどく幸せな気持ちだった。
 ふと目が合ったときの高居のほんの僅かな笑みを思い出して、梅野は一人口を綻ばせた。いつもの帰り道、遠くで高居が後輩に指導しているのが見える。その熱の入れようは今や有名になっていて、嫉妬してしまいそうになるほどだ。
 梅野はふいに緩めた口元をきゅっと噛み締めて、目を伏せた。
 わかっているのだ。陸上のことなど全然わからない自分では、支え切れないことがある。今、高居に確かな未来を見せているのは、あの後輩なのだと。
「何でそんな顔してんの」
 ふいに隣に影が差して見上げると、古柴がいた。梅野は立ち止まってじっと高居を見ていたことに気が付いて、歩き出そうとした。だが、古柴に肩を掴まれて、すぐに立ち止まる。
「上手くいったんだろ?」
「まあ、おかげさまで」
 古柴が何かと気にする、と高居が言ったことは本当で、必要以上に古柴は二人のことを訊いてくる。高居の同室で、梅野と高居が互いの気持ちを確かめられたのは古柴のおかげと言ってもいいから、二人ともどうも強く放っておけとは言えない。
「それにしちゃあ、浮かない顔で見てたな」
 そんなことを言われて、梅野は隣の古柴を見た。古柴は真っ直ぐ高居を見ていた。
「まあ、高居があの後輩に掛かりきってるのは有名だもんな」
 坂城だっけ? と言われて、梅野は頷いた。
「でも、そこは仕方ないだろ。高居が陸上を捨てられるわけないんだ。ああいう形で関わっていけるなら、いいと思う」
「相変わらずだなあ、梅野」
「え?」
「智のときも、そうやって嫌に割り切ったようにしてたよな。それこそ、そんな顔さえもしないでさ。平気なんだなって俺も不思議だった」
 痛いところを突かれた気がして、梅野は顔を俯けるしかなかった。少なくとも、今は割り切れてなどいない。でも、必死でそんな振りをしようとはしている。
「げ。やばい。見つかった」
 ふいに古柴が呟いて、梅野が顔を上げると、遠くから高居が走ってくるのが見えた。古柴は「じゃあな」と慌てて離れていってしまった。
 梅野もなんとなく逃げたい気分だったが、全速力ではないにしろ、自分に向かって走ってくる高居を無視は出来なかった。
「古柴、なんだって?」
 梅野のもとに辿り着いた途端、高居は硬い声を出した。梅野は思わず苦笑しながら「なんでもないよ」と言った。
「何でもないって……。あいつ、おまえの肩まで掴んでただろ」
 一体いつから見ていたのか、高居はむっとした顔で古柴が走り去った方向を睨んでいた。
「また何か無理なこととか言われた?」
 それには、梅野は大きく首を振って否定した。
「言われてない。ただ、高居、熱心だなって話してただけ」
 言うと、高居はああ、と少し戸惑ったような顔をした。
「あいつ教えてると、どうもイライラすると言うか……もったいないって思うって言うか。つい、な」
 言って、くしゃりと髪を掻き揚げた高居は、「妬ける?」とからかうような口調で付け足した。
 梅野は古柴の指摘を思い出して、「でも坂城は必要だろ?」と言おうとした口を閉じた。それから「ちょっとね」と呟くように言った。
「妬かないって言ったら嘘だよ」
 素直な気持ちを口に出してみたら、思ったより甘えたような声になってしまった。確かに、妬いているはずが、どこか甘い気分だ。
 梅野は少しばかり高居を恨みたい気持ちになった。どうしてこんなところでそんなことを訊くのだ。どこでも良いから触れたくなって、ひどく困る。こてりと身体を預けてしまいたくなる。
「そっか。――ごめん、ちょっと嬉しい。俺も古柴に妬いてるからな」
 甘い気分だった梅野ははっとして、顔を上げた。古柴は違う。梅野はそう言おうとしたが、少し恥しそうな高居と目が合ってしまった。言葉が出ないまま、なんとなく、見詰め合った。そうしたら、わかってしまった。
 お互い、同じことを考えている。
 ――キスしたい。触れたい。抱き合いたい。
 でも、こんな運動部がたくさんいる校庭から丸見えのところでは、手を繋ぐことさえ難しい。
 梅野は堪らなくなって、高居の後方に目を逸らした。
「――高居、坂城が待ってる」
 高居が可愛がっている後輩は、たぶん少し困っている。先輩を呼ぶべきか、待つべきか。高居が陸上のことになると厳しいことは梅野もわかっているから、後輩の困惑もわかった。
 高居は少し振り返ると、ふっと息を吐き出した。
「ああ、行かないと。また、夜にな」
 すっと伸びてきた手が、頬を掠めていった。梅野は声を発することが出来ずに、頷くのが精一杯だった。
 高居は時々、こんな風にさらりと梅野に触れていく。あまりに自然で、梅野はリアクションに困ってしまう。
 高居はくるりと身を翻すと、走って行った。梅野は頬を手の甲で軽く撫でると、無意識に微笑んだ。
 夜になれば、また会える。ただなんとなく話をするだけのことが多いが、幸せなのは確かだ。
 昨日、智に電話で言われたことを思い出す。古柴がわざわざ、梅野のことを報告したらしい。智は先輩らしく、祝福してくれた。
 ――今度は少しくらい我侭言えよ。それから、幸せになれよ。
 ひどく恥かしそうな声で、でも、智が心から言ってくれているのはわかった。梅野はそれに、はい、と頷いた。
 今なら、こう答えるかもしれない。
 ――俺、幸せですよ。



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