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風の匂い
09
 すっと逸らされた視線に、驚くほどの痛みが生まれた。


 庭木の水遣りを、俺は結構楽しむようになっていた。習慣付ければ、何でもできるものなのだ。そのために、少し早起きをするのも、何も考えずに、ただ水をやることも。
 さわさわと生い茂った葉に水が当たる音が気持ちがいい。
 あの日の翌日、春日が寮に戻ったと聞いた。見事に逃げられたのだ。
 そして、ついさっきの春日の顔。
 逸らされた視線と、傷ついたような横顔が、痛々しかった。
 いつも、真っ直ぐな春日が。
 そうしたのが自分だとわかっていて、俺は苦笑を禁じえなかった。それを無理やり、にこやかな笑顔に摩り替えて、軽口まで叩いて見せたのは、意地だったのかもしれない。
 七つも年下のガキに、振り回されている自分の。
 小さくため息をつきながら、水を止める。濡れて光る葉や花が、朝日に眩しかった。
 アルバイトに、と言ったおじさんの顔は少し照れていて、でも嬉しそうだった。当たり前だ。息子が自分と同じ職に就こうとしているのだ。親を尊敬している、と言っているのと同じことだ。
 春日はいつでもそうだった。
 高校進学のときも、九重の卒業生だといって、俺のところに話を聞きに来たことがある。生の声が聞きたい、などと今の夢を思わせることを言って。
「どんな学校かって?うーん。面白いけど、厳しいかな」
「厳しいって?校則とかはそんなに厳しそうじゃないけど」
「ああ、そう言う厳しさじゃないよ。押し付ける厳しさじゃなくて、突き放される厳しさ、って感じかな」
「……もうちょっとわかりやすく説明できない?」
 俺は困った顔をした春日に苦笑した。まだ、幼さを残した春日。
「甘やかしてはくれないってことだよ。自分の言動に責任を持つっていうのはどう言うことか、大人になるって言うのはどういうことか……そいういうことを厳しく教えてくれる」
 ふーん、と春日は考え込んだ。言葉で言ってもわかることじゃない。そうだったんだ、とわかるのは、卒業してからだ。俺はそう思いながらも、春日にはきちんと伝えたいと思った。
「とにかくさ、真己は九重が好きなんだな」
 考えてわかったのかわからないのか、春日はそう言って笑った。俺はそれに、まあな、と少し照れて答えた。
「そっか。なら俺も九重にしよう」
「おいおい、簡単に決めるな」
 そう苦笑した俺に、春日はなんで?と言った。
 それがさも当然だと言うように、言った。
「なんで?真己が好きって言うなら、大丈夫だろ」
 いっそ清々しいほどの笑顔で、春日はそう言った。
 

 飲むのは、別に嫌いではない。よく親父に付き合って飲んでいたし、誘われれば飲み会だって行く。でも、今の職場では俺以外に男の職員は一人だけで、もう年配の事務員をしている彼には家族もあって、飲み会には出てこない。まるで園児たちと同じように、子ども扱いされてしまうから、一緒に飲むというのも変な感じだ。
 春日とあんなことになってから、一週間が過ぎていた。朝時々会うが、当り障りのない挨拶をするだけだった。春日にしてみれば、忘れたいことなのだろう。俺たちはだから、それ以上の接触を避けていた。
 誰かと飲みたいと思って、高校からの友人である小倉を呼び出した。お互い、電車で三十分ほどの街で待ち合わせる。よおっと、手を挙げて笑った変わらない丸い顔に、俺はほっとした。
 変わらないものだって、あるのだと。
「久しぶりだな」
 いつ以来、と言おうとして、小倉はふっと口を閉じた。小倉と会ったのは、親父の葬式以来だった。
「ああ、あのときはありがとう」
 小倉は感情を隠さない。隠さない分、同情や哀れみでも、なんとなく素直に受け入れてしまう。
「何言ってんだよ。結局大して手伝いも出来なかったし」
 行こう、と促されて、俺たちは繁華街に向かって歩き出した。あまり知らない街だが、小倉がいい店を一つ知っている、という話だった。
「で?どうしたんだ」
 小倉の案内した店はいかにも居酒屋と言った感じの店だった。カウンターに並ぶ大鉢に盛られた惣菜が、とても美味しそうだった。見た目の素朴さを裏切る美食家の小倉らしい。そのカウンターに坐ってすぐ、小倉がにやりと笑った。
「どうしたって?」
「何か相談でもあるんだろ?」
「別に。ただ飲みたかっただけなんだけど」
 驚いて言うと、ふーん、と小倉が曖昧に頷いた。
 ここでは日本酒だ、という小倉に、俺たちは初めから冷を頼んでいた。こくりと飲むと、喉越しのいい美味い酒だった。
「なんだよ。その納得行きませんって顔は」
「いや。おまえから誘うのは珍しいからさ」
 そうだっただろうか、と思い返してみれば、確かにいつも小倉から誘われていたかもしれない。でも、今日だってただ飲みたかっただけなのだ。
 悩みなど。
 ―――あったって相談なんか出来るはずがない。
「そう言えばさ、坂井先輩、結婚するらしいよ」
 うどのきんぴらをぽいっと口に入れて、小倉はさらりと言った。俺もそれに、へえ、と答えただけだった。
「へえって……相変わらず冷たいな」
 ふっと小倉が笑う。
「他に何を言えって言うんだ」
「まあ、そうだな」
 坂井先輩は、俺の一つ上の先輩で、高校時代から俺をしつこく口説いていた人だった。もちろん俺は、ずっと断り続けていた。
 大学に入ってからも諦めない先輩に、一度だけ、傾きそうになったときがある。
 春日のことを、恋愛対象として好きだと気付いたときだった。
 七つも年下で、それこそ弟のように可愛がってきた、その春日に欲情する自分に、混乱して、嫌悪さえ生まれた。あのとき、春日はまだ中学二年生で、そのわりに体格は良かったが、それでも子供に違いなかった。
 恐ろしくて、怖くて。
 そんな思いを抱いた自分を咎めるように、誰かに抱かれてしまえと思った。
 引き裂かれて、汚れてしまえと。
 そのとき先輩はもう四年生で、社会に出て俺と完全に離れてしまうことに焦っていた。そして、たぶん区切りをつけようとしていた。
 ―――抱いてくださいと言ったら、抱いてくれますか。
 そう言った俺に、先輩は息を呑んだ。それから、しばらく俺の真意を見極めるようにただ黙って俺を見ていた。
 耐え切れなくなったのは、俺だった。
 どれだけ酷いことをしているか、後悔して後悔して、俺はただただ謝った。自分を汚すために、この人の気持ちまで汚そうとしたことが、許せなかった。
 どこまで自分勝手だったのか。
 それは今でも、変わらない。
「まあでも、幸せになって欲しいよ、あの人には」
 心からそう思った。今なら、どれだけあの人が偉大だったのかわかる。決して、無理強いはしなかった。気持ちを押し付けることさえ、しなかった。
「そうだな。俺でさえ尊敬したからな」
 小倉もそう言って笑っている。
「相手は?」
「それがさ、なんとアメリカ人」
「国際結婚か……なんかまあ」
「あの人らしいと言えばらしいよ。プロポーズも、奥さんからだって」
 そのときの慌てふためく先輩が想像できて、俺は思わず笑った。人を口説くわりに、純情だった。
「それにしても小倉、おまえ詳しいな。連絡とってんの?」
「俺じゃなくて、田井だよ。同じ会社なんだ」
 ああ、と無愛想な同級生を思い浮かべる。そう言えば、小倉とは仲が良かった。
「そう言う話、しなさそうなのに」
「ん?まあ、たまたまな。俺たちの中では坂井先輩を知らない奴いないし」
 何か誤魔化すように、小倉はふいっと視線を逸らして、茄子のあんかけを注文した。俺は首を傾げつつ、コップに口を付けて、残りを飲み干す。
「結婚か……」
「なんだ、真己。そんな相手でも出来たのか?」
 何も言わないうちに、小倉は俺の分も二杯目の酒を頼んでくれた。俺は茹で豚の梅肉ソースを注文した。
「いないよ。小倉は?」
 あまり触れられたくない話題だった。小倉も、首を振る。
 酒が来て、小倉はそれを思い切り煽った。じっと、手の中のコップを見ている。
「……俺は、結婚しないかもしれない」
 ふいにぽつりと言われた言葉に、反応できなかった。どんな意味かと、聞いていいのかわからなかった。
「親を泣かすな」
 苦笑交じりの表情はでも、すっきりとしていた。もう、何もかも覚悟しているような表情だった。
「小倉……」
「結婚するって聞いて、坂井先輩にさ、聞いたことがあるんだ」
 ―――やっぱり、男は結婚して家庭を持たないと駄目ですかね。
 ―――俺は別に、だから結婚するわけじゃない。
 ―――真己のことは?
 ―――大学卒業のときに、きっぱり諦めた……つもりだった。でもまあ、そんなに簡単に気持ちなんて変わるもんじゃないからな。引きずって、いい加減疲れてたときに、あいつに会ったんだ。
「俺も酔っててさ。結構普段聞きづらいことなんかを聞いちゃったんだよな。先輩はあの性格だから、真面目に答えてくれた。たぶん、俺の中の迷いとかもわかってて」
 小倉がまたコップを煽る。それから出てきた茹で豚を、ぱくりと食べて、美味い、と笑った。
「先輩が失恋を引きずってるってわかってて、慰めてくれたんだそうだ。それでいいからってさ。結局、真己のこと、話したらしい」
 それには俺も目を見開いた。やはり、あまり大きな声で言えることではない。あの九重の、それも山奥にいたから、世間の目とか、社会の常識とか、色々なものに目を瞑ることができたのだ。先輩も、大学に入ってからは高校のときほど、あからさまに迫ることはなかった。
 アメリカ人だから、というわけではないだろう。誰かに打ち明けると言うのは、やはり勇気のいることだ。
「先輩も、悩んでいたんだ。失恋を引きずって、しかも相手は男で。一時はすごかったらしいよ、何人も女の人がいて」
 あ、これは田井情報ね、と小倉は小さく笑う。俺はただ、黙って聞いていた。
「惨めだったって、言ってた。別に、真己を責めるわけじゃなくてさ」
 俺はああ、と頷いた。同じ気持ちではなくても、わかる気がした。
 男相手の恋愛に、真剣に悩む自分が哀れになってくるのだ。馬鹿なことをしていると、何度も思う。伝えることさえ出来ずに、相手を求める自分は―――確かに惨めだった。
「でも、その婚約者のジェシカがさ、馬鹿ねえって頭を撫でてくれたんだって」
 ―――自分の気持ちを認めてあげないから、惨めなのよ。いいじゃないの。好きなんでしょう?だったらそれで、いいじゃないの。
 随分と強い人間だ、と思った。でも、確かにそうなのだ。認めないから、哀れで惨めで、哀しくてたまらないのだろう。
 あの春日を、欲する自分を。
「認めてから、また考えなさいって言われて……俺も認めて、考えてみた」
 突然小倉の話になって、俺は横を見た。小倉が俺を見て、ゆっくりと笑った。
 綺麗な笑顔だった。
 人間は、こうして美しく輝くことが出来ると証明するような、笑顔だった。
「それで、俺は今は田井と暮らしてる」
 一瞬驚いて、それから、ああ、と納得した。
 小倉の言葉を、最初から知っていたかのように。


 俺は、どうするだろう。
 認めて、それから―――。
 一体、どうするだろう。


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