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ソクラテスとソフィストの優しい関係について

09
 ところでこのまま襲っていいだろうか、と言う雅道に、智は音がしそうなぐらいの勢いで首を振った。
「恥ずかしいのは最初だけだよ。さっきのキスみたいにさ」
 雅道はそう言うが、智はただでさえ痛いくらい心臓がどきどきしたのを考えると、これ以上は無理だと思った。それに、今現在の状況だって顔から火が出そうなほど恥ずかしい。雅道の、腕の中にすっかり取り込まれてしまっている、この状況も。
「それより、零れたコーヒー、拭かないと染みになるよ」
「いいよそんなの。ふーん。その状況を見てたってことは結構余裕があったんだ」
「ないですっ。それにさ、もう行かないと門限がやばい」
 智がなんとかその腕の中から抜け出そうとするが、雅道は一向に離そうとしない。
「大丈夫だよ。稜にでもメール入れるし」
 ああ借りができてしまう、とは思いながら、そんなことは口にしない。
「だからって」
 ぐっと肩を押し戻すのに、上から抱きつかれているぶん、智の方が分が悪い。それに、雅道は身体を動かすこと自体は嫌いではないから、よく稜の筋トレに付き合っている。
「智、知ってる?俺がどれだけ忍耐強く我慢してきたか」
「雅道ー」
 ほとんど泣きそうな声で智が呼ぶ。それに雅道はにっこりと笑うだけだ。
 そのとてつもなく嬉しそうな顔に、智は再び心臓がどきどきと鳴るのを聞いた。もう、壊れるのではないかと思う。
 雅道はそんな風に真っ赤になっている智を見ながら、智には悪いがやっぱり今日中に頂かせてもらおう、と決心していた。今を逃して、後になるほうが余程恥ずかしくなるのではないか、と思うのだ。智のことだから、抱くのにまた理由をつけなくてはならなくなるかもしれない。
 雅道は暴れる智を押さえて、再び唇を落とした。驚いて目を見開く智に苦笑しつつ、その瞼にも唇を落として、閉じさせる。それから、思う存分口腔を蹂躙した。抗っていた力がだんだん抜けて、漏れる声が甘くなる。名残惜しいと思いつつも唇を離すと、ぼんやりとした智と目が合った。
「ベッドに行こう」
 そう言ったかと思うと、智を抱き上げて、ベッドまで運ぶ。壁際のベッドに隣人を少しばかり思い浮かべたが、今回は勘弁してもらおう、と雅道は心中で手を合わせた。
「雅道……?」
 先刻のあまりに官能的なキスに翻弄されっぱなしの智は、ふわりとしたベッドの感触に少しほっとした。柔らかくて、温かい。ただそれだけで安心するあたり、智がどれだけ慣れていないのかがわかる。
 雅道はそっとまたキスを落としながら、携帯で稜にメールを送った。「智を預かる。よろしく」とそれだけだが、稜はきっと察してくれるだろう。そして、同室の生徒に上手く言ってくれるはずだ。ただ時間がぎりぎりで、これは思ったより大きな借りになるな、と苦笑する。
 メールが送信されたことを確認して智の方を見ると、ばっと起き上がられた。どうやら正気に戻ったらしい。内心舌打ちをしつつ、雅道はにっこりと笑みを浮かべた。
「いい加減覚悟しろ。わからないこと想像して一人で赤くなるより、体験した方が早い。考えれば考えるだけ、恥ずかしくなる。だから、何も考えるなよ」
 こんな風に、言葉で畳み掛けることは本当はしないつもりだったのに、と雅道は苦笑した。そうしていたら、こんなにこじれなかったかもしれない。でも、だからこそ、智のあの素直な言葉が聞けたのだ。
 智は真っ赤になって、ずるりとベッドヘッドに向けて身をずらした。そんなに真っ赤になってばかりでは、血管が切れるのではないかと雅道は笑う。
「智が嫌ならしない。でも、恥ずかしいだけなら、する」
 じっと見つめられると、智はどうしていいのかわからなくなった。抱かれるのも、キスをするのも、嫌ではなかった。だからと言って、ここでいいと頷くのも、癪な気がした。
「恥ずかしいから嫌だって言ったら?」
 だから、ずるい言葉を吐く。
「重点は恥ずかしい、にあるんだな。なら、する」
 雅道は少しも途惑いなく、そういってさらりと智の髪を掻き揚げた。智は頭の中で、叫びながら自分が逃げ回っているのが見えた。
 所詮、雅道には言葉では敵わない。
 また唇が触れてきて、智はもういい加減諦めどきなのだとわかった。キスは気持ちがいい。
 考えない、というのは智にはある種の恐怖だった。でも、今は確かに何も考えずに、目の前の雅道だけを見ているほうがいい気がした。
 優しく触れてくる唇も手も、口より余程雄弁だ。全てのことが、言い表せなくてもいいのだと、智は全身に教え込まれた。


「で?なんで智はマサを避けてるんだ?」
 翌日、圭に誘われて昼食を取るために家庭科室に来た稜が、雅道に問い掛ける。さっきから、智は一切雅道を見ないし、振り返りもしない。それに、雅道は苦笑で返した。
「後の方がよっぽど恥ずかしいじゃないか、だって」
 さすがに朝帰りは面倒を起こす、と智は昨晩のうちに自分の部屋に帰った。ほんの少しの距離でも歩くのは大変だろうと、雅道も付き添った。さらには、壊れたままの倉庫の窓から中に忍び込まないとならないのだ。その間中、悪態をついていたのは、智なりの照れ隠しだったのだろうと雅道は勝手に解釈している。
 そうやって帰してしまったのがまた悪かったのだ、と雅道はため息をついた。どうやらその後、色々考えてしまったらしい。思い出しては赤くなり、を繰り返す智は可愛いと言えたが、目も合わせてくれないのは冷たいんじゃないか、と雅道は思う。
 稜は耐え切れないとばかりに、くっくっと笑っている。可愛いねえ、と呟かれて、雅道はその頭をごんっと殴った。
「いてーよ。ったく、誰のおかげでそんな美味しいことが出来たと思ってんだ?」
 にやにやと笑う稜に、雅道は嫌な顔をした。点呼ギリギリの時間にメールを送ったために、稜が急いで智の同室者に連絡してくれたのはわかっている。門限までに寮内にいない場合、寮長に報告が行ってしまうのだ。寮長とフロアー長は責任を持ってその生徒を探さなければならない。先輩方はそれは恐ろしい人たちばかりなので、そういう面倒を起こすと後で散々な目に会う。南寮はその点、点呼がない。その代わり自分できちんと全ての責任を取らなければならないのだが。
「俺はいい友達を持って誇らしいよ」
 雅道が精一杯の笑顔で持ってそう言うと、稜は誤魔化されないとばかりに「そうだろう?」と言う。
「わかった。わかったよ。稜のお望みをなんでも叶えましょう」
 雅道がそう言うと、稜は何にしようかな、と鼻歌交じりに考え出した。雅道はふうっとため息をつくと、ふと視線を感じて、智の方を見る。すると、智はばっとあからさまに顔を逸らした。もう、苦笑しかない。
 あとは慣れだ、と雅道は内心にやにやと笑った。これでもかと言うくらい、甘やかしてやろうと思う。
「おーい、手伝えよ」
 圭がそう言って、智が逃げ時とばかりにぱたぱたと走っていく。でも、圭のそばに行った途端、絶句した。
「あれ?智固まってるよ。圭、何したんだ?」
 稜が機嫌よくふらふらとそこに向かう。それから、圭が持っている炊飯ジャーの中を見た途端、爆笑した。
「け、圭っ」
 智の叫びが聞こえる。雅道はようやくその中身が想像できて、やれやれとため息をついた。これでまた、智はしばらく自分から逃げ回るだろう。
「えー?だってお祝いだからさ、やっぱり。それとも赤飯嫌い?」
 圭はまったく悪意のない目で、にっこりと笑った。稜は腹を抱えて、涙まで流して笑っている。
 智はこれまでにないくらい真っ赤になって、立ち竦んでいた。それが昨晩を思い出させて、雅道は一人声を出さずに笑っていた。





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