home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 * 10
満ちてゆく月欠けてゆく月
09
居心地の悪さを感じながら、ルカは小さくため息を吐いた。金色のワインを、舐めるように飲む。
どうして、自分がフェルディナンドの代理なのか、ルカはここに来てもわからなかった。それなら、ユーゴやエドアルドのほうが余程立派にこなすはずだ。人見知りをするルカには、こんな場は苦痛でしかない。愛想笑いの一つも満足に出来ないのだから、工房の評判を落としかねないと思っていた。
本当なら逃げ帰りたいところだが、一言ロレンツォに挨拶をするように、と師には言われている。それならさっさとしてしまえばいいのだが、先刻からロレンツォの周りには人が絶えない。その上、今は傍らにレオーネがいた。
密やかに、楽しそうに笑っている二人は、遠目でも仲が良いのだろうことが伺えた。黒くシックな服を着ているにも関わらず、レオーネは豪華王と呼ばれるロレンツォに劣らない華やかさがある。美しく着飾った婦人たちが、そんな二人に熱い視線と共に感嘆のため息を洩らすのは、ルカにも理解できた。二人が並んでいるところがまた、一枚の絵のようだった。
彼女達のように女だったら―――そう考えて、そのあまりの馬鹿らしい想像にルカは自分を笑った。女だったら、父の意のままの相手と結婚させられていただろう。絵など描くこともなく、もちろん、レオーネに会うこともなく。
「おや、楽しそうですね」
ふいに聞こえてきた声にルカは顔を上げた。知らず緩んでいた口元が、瞬時に感情を無くす。知らない人間の前では、ルカはいつもこんな無表情が多かった。
「フェルディナンドの弟子でしたね?」
「はい……」
高価そうな生地の服と煌びやかな装飾品を身につける男は、絵の注文主なのかもしれない。ルカは対外的な交渉はあまりしないから、客の顔のほとんどを知らなかった。でもだからこそ、気を付けなくてはならなかった。師の知らないところで、無礼な真似は出来ない。
「愛らしい天使の絵を描かれますが、その画家自身が天使のようだとは……」
男は四十代も後半辺りの年齢に見えた。年の割には引き締まった身体と精悍な顔をしていたが、その好色な視線に、ルカは無意識に逃げ腰になっていた。
「いえ、そんな」
「フェルディナンドはあなたを余程可愛がっていると見える。ダヴィデのモデルを拝見したいと言ってみても、少しも取り合ってくれなかった」
「モデルと言っても、ポーズをとっただけですから」
実際、顔も似ていなくはないのだが、ルカは否定しなければならない気がして、必死に言った。
「そんなに謙遜なさらなくても。フェルディナンドがあなたをモデルに選んだ理由は、私にもわかりますよ」
男は、じわりとさり気なく、ルカを壁際に追い詰め、その視界を遮った。ルカは困りきって、俯いているから、そのことに気付かなかった。
「ご気分が優れませんか?ずい分顔色が悪い」
少し休まれたらいかがです?と男はルカの肩を軽く押した。確かに人酔いしたのか、ルカは気持ち悪くなっていた。促されるまま、客室の一つに向かう。
「ご気分が優れない方々が休まれるところだそうですよ」
男はそう言いながら、ルカを部屋に入れ、ベッドに坐らせた。それから、水差しから水を汲んでくれる。親切な人だと、ルカは思った。
「すみません、ご迷惑を……」
「いえいえ。どうかお気になさらず.。そうそう、これをお飲みなさい。気付け薬です」
ルカは恐縮しながらその小さな小壜に入った薬を飲んだ。甘い薬に僅かに顔を顰めながら今度はこくりと水を飲んで顔を上げると、思わぬ近さに男の顔があって、ルカは驚いてコップの水を零してしまった。男はそれに苦笑する。
「自ら服を脱ぐような状況をお作りになるとは、もしかして誘ってくださってます?」
言いながら、男はするりとルカの服を脱がしに掛かっていた。あまりの突然の出来事に、ルカは一瞬呆然とした。
レオーネと一度した切りで、あれからルカは誰とも肌を重ねあっていない。エドアルドやジョルジュたちの猥談にも参加しないルカは、どこかこう言ったことには鈍かった。
「あの……」
「しっ。黙って。私に任せなさい。そうだ。君が工房を持ちたいというなら、持たせてあげよう」
男の手がするりと太ももの付け根辺りを撫でて初めて、ルカはその意図に気付いた。気付いた途端、怒りと恐怖に身が震えた。
「工房を持とうなんて考えていません。どうか、お放しください」
「では絵の注文を出そう。大きな絵だ」
「いえ、私はそう言ったことはしていませんので……」
男はルカの手首を何かで縛ってしまった。それをベッドヘッドに取り付けて、手の自由を奪った。
「おやめ……ください」
男はにやりとした気色の悪い笑みを浮かべた。ルカが怯え嫌がると、嬉しそうに目を細める。
「泣き喚いてもいいよ。きっと誰も来ないから」
するりとズボンを脱がされ、ルカは思わず足を合わせようとした。でも、がっしりと足首を掴まれて身動きが取れなくなっていた。
「やめて……」
恐怖と嫌悪感に、涙が出てくる。なんとか逃げようともがいてみるが、手も足も、動かなかった。
「なに、乱暴なことはしないよ。可愛がってやるから」
どちらでも嫌だ、とルカは思った。こんな男の手に抱かれるなど、冗談ではなかった。
「いやです。どうか、離してください」
なんとかそう言ってみるが、男は聞く耳を持たなかった。
―――レオーネ。
先刻、広間で見たレオーネにルカは心中で助けを求めた。もちろん、彼が助けに来てくれるはずがないとわかっていたが、縋るようにその名を思い浮かべた。
初めてレオーネに抱かれたときも、誤解の所為で決して優しかったとは言い難い抱かれ方をした。でも、こんな恐怖は感じなかった。
この手がレオーネなら。
どれだけ乱暴であっても、ルカは歓喜に震えたかもしれない。
あの熱や痛みを、ルカはずっと、大事にしていた。それだけを知っていればいいと、思っていた。
どちらも、あまりに儚く頼りない感覚であっても。
もう一度、その熱を感じられるなら、ルカはそれこそ貪欲に貪ることだろう。でも、この手は、レオーネではない。
「やめ……」
とろりとオイルが垂らされて、ルカは背筋をぞっと震わせた。秘所を指先で撫でられ、吐き気が込み上げてくる。
レオーネ。
もし、あなただったら―――。
「お楽しみのところを申し訳ないが、ベール公、豪華王がお探しでしたよ?」
きいっとノックもなく扉が開いて、男は驚いてルカから離れた。そこに現れた相手に、苦虫を潰したような顔になる。
「なんでも秋の借用金についての話をしたいとか。他にもそう言うお方はいらっしゃるようですから、出遅れるのは得策ではないのでは?」
薄く微笑んだ相手の言葉に、男―――ベール公―――は慌ててそうだな、と頷いて部屋を出て行った。何しろ今日の目的は、その話だったのだ。早いうちに高い金額で話をつけないと、今後の豪奢な生活に限りが出来てしまう。
「……なぜ、あなたが……」
男が去った後で、ルカは呆然と呟いた。心の中では、確かに助けを求めていた。でも、口には出さなかったはずなのだ。
「呼ばなかったか?俺を」
レオーネは痛ましげに顔を歪めながら、それでも軽口を叩いた。手早く、手の諌めをほどく。
「え?まさか、声に出してしまった……?」
呆然と呟くルカに、レオーネは耳を疑った。冗談のつもりだったのに、本当に呼んだのだろうか。
「ルカ……?」
少しばかり呆気に取られたようなレオーネに、ルカははっとして口元を手で覆いながら赤くなった。
おかしいのだ。
先刻から、身体が熱くなっている。レオーネが傍にいるから―――というだけにしては熱い疼き。ルカはどうしようもなくて、俯いた。
「ベール公は手が早いので有名なお方でね。君が一緒に出て行くのを見て、少し心配になって様子を見に来たんだ。それがまさかこれほど予感が的中しているとは」
細い手首についた赤い痕が痛々しい。レオーネはそれをそっと撫でた。
優しい、邪気のない手の動きだったのに、ルカはそれにすら身体が震えた。ぎゅっと、目も口も堅く閉じる。自分が、わからなかった。
「ルカ……?どうした?」
堅く閉じたはずの目から、ぽろりと涙が落ちた。先刻の恐怖と、今のわけのわからない状態とに、ルカは耐えられなくなっていた。
「やっ……」
そっと目尻を拭われて、ルカは甘い息を吐いた。その様子に、レオーネは微かに眉根を寄せた。ルカと違って経験豊富なレオーネは、ルカのその状態にすぐに気が付いた。
「ベール公に、何か飲まされなかったか?」
身体が熱い。レオーネに触れられたそこから、途方もない疼きが広がるようで、ルカはぎゅっと自分の腕を掴んだ。
「ルカ、大丈夫だから。答えて。何か、飲まなかったか?」
ぼんやりとした頭で、ルカは頷いた。
「気付け薬を……」
ちっ、とレオーネは思わず舌打ちした。それが、気付け薬であるはずがない。ベール公の目論見など、彼を知っている人間ならすぐにわかる。
「レオーネ……」
どうしたらいいのかわからず、ルカは助けを求めるように、濡れた目でレオーネを見上げた。吐き出す吐息も甘いルカに、レオーネは参ったと、片手で顔を覆った。
どうすれば、その熱から解放できるのか、レオーネは知っている。でも、一度ならず二度までも、ルカを辱めると思うと気持ちが固まらなかった。だからと言って他人に任せるなど絶対に許せないし、ルカの辛さもレオーネには理解できた。昔、遊びで女に媚薬を飲まされたことがあるのだ。あのもどかしいほどの疼きは、そうそう簡単に治まるものではない。
「ルカ……君は悪くない。辛いんだろう?解放してやる。何も考えるんじゃない」
レオーネはそう言って、ルカをゆっくりとベッドに押し倒した。
「レオーネ……抱いて、くれるの……?」
もうほとんど頭の働いていないルカは、自分の呟きもわかっていない。だが、優しく口付けられて、ルカは泣いた。
あの熱も痛みも、ルカは必死で覚えていようと思った。でも、それはどんどんと曖昧な感覚になって、全てがなかったことのようにルカから消えてしまう。
もう一度。
もう一度だけで良いから、その感覚が欲しかった。
遠く、離れてしまう前に。
home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 * 10