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コレガ僕ラノ進ム道

12
 ダイニングキッチンに隣り合う、公園が見える部屋は藤吾の部屋だと勝手に決めていた映は、その反対側の部屋に落ち着いた。角部屋のそこは、映の部屋にも十分に光を入れてくれる。
 映が越してきて三週間目に、ようやく二人の休日が重なって、その部屋で過ごすことになった。引っ越し祝いは藤吾が来てから、と決めていたが、早く同棲気分を味わいたい映は、朝から機嫌が良かった。夜勤明けの藤吾は、昼過ぎに来ることになっていた。それから二人で買い物に行って、ゆっくりご飯を作るのも良いだろう。
 だが、藤吾が来る前に、厄介な人物が現われた。
 最初は、軽い音で鳴ったインターホンの音に、藤吾も鍵を持っているだろうに、他人行儀だ、と笑ってそれに答えた映だったが、その声の相手に、おもいっきり顔を顰めた。
「何しに来たんだよ」
「そりゃあ引っ越し祝いに」
 瀬戸口の顔はにやにやと笑っている。確かに片手に美味しそうな酒と、なにやら高級店の惣菜を持っていたが、映は中に入れるつもりなどなかった。
 でも、瀬戸口はこれで執拗な性格をしている。断ったら断ったで、「待ってたら映の相手が来るだろ」と言うのだから映もしぶしぶ中に入れた。出来るなら、藤吾が来る前に帰って欲しかった。
 だからこそ、飲むのも付き合おうと思っていたのに、相手が来てからだと嫌なことを言って酒を渡そうとしない瀬戸口に、映は仕方なくコーヒーを出した。それから、頭の中でいかにしてこいつを追い払おうか、と考えていたのだが、なかなか名案が浮かばない。そうこうしている内に、なぜか眠くなってきて、映はソファーにぐったりと身体を凭せ掛けた。このソファーは藤吾と二人で選んだもので、恥ずかしそうで、でも嬉しそうだった藤吾を思い出す。映も、そうやってこの部屋を二人の空間にしていくのだと思うと、嬉しくて堪らなかった。
 それも、藤吾が居なければ意味がない。はやく、藤吾が越してこないだろうかと思う。いつかはきっと、このソファーでも泣かせてやる、と不埒なことまで考えた。
 それにしても眠くて、映は疲れが出たのだろうかと思った。柔らかいソファーの上で、目の前の瀬戸口のことなど忘れていた。もともと、昔からの友人だ。酒を飲んでそのまま寝入ったことなど何度もあった。
 ああでも、酒など飲んでないのに。
 もうすぐ、藤吾が来るのに。
 映はそう思いながらも、あまりに強烈な睡魔に勝てずに、意識を手放していた。


 まだあまり―――と言うより一度も――ー使われていない鍵は、それでも他の鍵にぶつかって、少しばかり傷がつき始めていた。でも、今のアパートの鍵などから比べると、格段に輝いている。
 藤吾はその鍵をズボンのポケットの中で何度も触りながら、いざ使うときになって躊躇した。インターホンを鳴らして、到着を知らせるべきだろうか、と思ったのだ。マンションの玄関は自分の鍵で入ってきた。わざわざ鍵を開けさせるのも変かと思ったのだ。だが、部屋の前まで来て、ちょっと早いこの訪問で、驚かせてやりたいと思った藤吾の気持ちは少しばかり揺れた。すぐには越して来れないことを、藤吾は藤吾なりに申し訳ないと思っていたのだ。
 そう、でも、だから。
 自分は自分の鍵で、ここに入るべきなのだろう、と藤吾は考えた。まだ引っ越しては来ていないけれど、二人の部屋なのだから。
 そう思いながらも緊張した手で、藤吾は鍵を回した。馬鹿みたいにどきどきしている。何しろ、こんなことは初めてなのだ。自分が、誰かと住むようになるなんて。
 かちゃりと音がして開いたドアを、そっと引く。部屋の中は静かで、藤吾は少し首を傾げた。映は、いないのだろうか。
 そこでふと、あまり広くない玄関に、見知らぬ靴があることに気付いた。この大きさは、映のものではない。磨かれた高級そうな革靴だった。
 ふっと顔を上げたと同時に、何か物音がした。やはり映はいるのだ。客でも来ているのだろうか。そう思ったが、ダイニングキッチンには扉があって、中は見えない。だが、そのドアがうっすらと開いていた。
 藤吾は靴を脱いで上がると、とりあえず自分が着いたことを知らせようと、そのドアに手を掛けた。
 ―――え?
 白い、背中が見えた。藤吾はあまりじっと見たことはないが、知らない背中ではない。その背中にさらりと掛かった茶色い髪は、その手触りまで知っている。
 その背中を抱えて、男は映に口付けていた。映の鼻に掛かるような声が、洩れた。それに満足したように、男はその唇を離すと、ふいに顔を上げてにやりと笑った。藤吾の、知らない男だった。
 投げ出された、映の白い脚。
 男に跨って、抱きかかえられている、映の―――。
 藤吾の手から、荷物がどさりと落ちた。泊まれ泊まれと映に執拗に言われて、仕方ないと言いながらも嬉々として詰めてきた、一泊分の服と、本やCD。少しずつ、自分の荷物を置いて、ここが自分の帰るところになるのだと、じんわりと幸せに浸ろうと思って。
 ああやっぱり、と藤吾は思った。
 みんな、夢だったのだ。
 ザングで映に会ったのも。
 その映に好きだと言われたのも、抱かれたのも。
 これからはずっと一緒だと、まるで子供のような約束を交わしたのも。
 みんな、幻だったのだ。
 藤吾はくるりとその部屋に背を向けて、玄関で靴を履いて、閉めた部屋の鍵を開けて、その部屋を出た。藤吾が乗ってきたままだったエレベータに乗って、階下に降りる。それからマンションを出て、元来た道を歩いた。陽射しが暑かった。道路は蜃気楼のように、ゆらゆらと揺れていた。
 駅まで行って、切符を買う。同じ色の電車に乗って、部屋に帰る。
 そこまでだった。
 藤吾が自分を保てたのはそこまでで、部屋に入った途端、藤吾はぎゅっと目を閉じた。そのきつくきつく閉じられた目から、それでも涙は零れ落ちた。
 まるで全力疾走をした後のように、呼吸が荒くなる。苦しくてたまらないのに、藤吾は泣き止むことができなかった。
 みんな、夢だなんて。
 映のあの甘い顔も声も視線も、何もかも夢だったなんて。
 優しく辿った手も、力強く貫いたものも、幻だったなんて。
 そんな残酷なことがあるだろうか。
 わかっていたのに。
 幸せには終わりがあると、藤吾は知っていたのに。
 映が抱かれたくないと言ったのは、藤吾に合わせてくれたのだろう。本当は、きっと、あんな風なかっこいい男に抱かれたかったに違いない。
 愛されたかったに、違いない。
 セックスのとき、藤吾はどうしても受身にしかなれない。受け入れるのだから当然だとは、藤吾は思わなかった。愛し、愛されることこそ、当然のはずで、抱かれる側だとしても、愛することは可能のはずだった。
 でも、いつもいつも、蕩けるように愛されるのは自分ばかりで。
 映はそれを可愛いだの嬉しいだのと言っていたが、やはりそれだけでは駄目なのだ。
 口付けをされて、洩れ出た映の声。
 あんな風に喘ぐのはいつも自分で、藤吾の耳から、その映の小さな声が離れなかった。
 赤い革のソファーは、部屋のアクセントにと買ったものだった。普段の藤吾だったら絶対に買わないが、映と住むあの部屋には、似合う気がした。映も藤吾も、あまりものを持たない。シンプルになるだろう部屋に、きっと似合うだろうと。
 藤吾はずるずると、靴もまだ履いたまま、玄関先に座り込んだ。堪えても堪えても出てくる涙と嗚咽に、頭が痛くなってくる。
 二人で選んだ、あのソファー。
 一度くらい、座りたかったと、藤吾は思った。


 翌日は、正確に言えば藤吾は休日と言うわけではなかった。夜勤が続いていて、昨夜が休みだったのだ。藤吾はその夜は泣いて疲れきったまま眠って過ごし、朝目が醒めると、とにかく朝食を食べ洗濯をし、掃除をし、それも午前中で終わってしまうと、そのまま職場に向かった。立ち止まって考えることを、頭が拒否していた。こんな風に、動いていなければ、たちどころに泣いてしまいそうだった。
 そう言うときは、とことん動いているに限るのだ。そして、なるべく身体を酷使して、夜はその疲れで眠るようにする。そういうことを、藤吾は以前経験していた。家族から離れた、あのときに。
 夜からの勤務のはずなのに出社した藤吾を、橋野が見つけて寄って来た。一週間に一度しか来ない本社ビルは、勤務地でありながら慣れない。藤吾は知った顔を見て、ほっとした。出社したら出社したで、書類仕事などはあるにはあるのだが。
「なんだ藤吾、おまえ夜勤じゃ……」
 そこまで言って、橋野はぐぐぐっと眉根を寄せた。怒っているようなその顔に、藤吾は小さくなる。
「ひでえ面してんぞ、おまえ。なんだ?何があった?」
 橋野が藤吾の腕を取って引っ張る。少し目が腫れて、ちょっと生気がない顔色をしているのは藤吾もわかっていたが、こんな一目で、ひでえ面、といわれるほどではないと思っていた藤吾は、戸惑って大人しく腕を引かれていた。
 連れて行かれたのはいつも藤吾が出社する部屋の一階上の部屋で、個人のオフィスのようなところだった。
「ほら、坐って」
 藤吾は物珍しさにちらちらと周りを見る。豪華な革張りの応接セットに、高級そうなデスク。まさか社長室じゃあるまいと、藤吾はびくびくしていた。
「ああ、緊張するなよ。ここは俺の部屋だから」
 橋野の苦笑した声に、藤吾はびっくりして顔を上げた。
「橋野さんの……?」
「そう。いらないってのに、社長が勝手に作っちまって……。ようはあれだ。自分の逃げる場所が欲しかったんだろ」
 ついでに、何かあるとここに来て橋野に無理難題を押し付けたりする。橋野にして見れば、いい迷惑だった。
 呆然としているところに、ほら、とミルクのたっぷり入ったコーヒーを渡される。甘党の藤吾の好みを熟知している橋野は、もちろん砂糖もきっちり入れていた。
 藤吾は小さくお礼を言って、それをこくりと飲んだ。甘さと温かさに、緊張が解けていく。
「で?どうしたんだ?」
「え?あ……いえ、あの、ちょっと、書類の仕事、片付けようかなあって思って」
 そう言うことを聞いてるんじゃない、と橋野は思わずため息をついたが、それに藤吾がびくりとして、ため息は苦笑に変わった。
「会社に来たことを聞いてるんじゃない。そっちの、ひでえ面のことを聞いてるんだ、俺は」
「ひ、酷いですか?」
「ああ、最悪って面だな」
 橋野はそう言って、藤吾に断ってから煙草に火をつけた。ふうっと、煙が横に流れる。藤吾は何かあると、いつだって放って置けないような顔になる。もういい大人だとわかっていても―――つい、頭を撫でてやりたくなる。
「あの、その、別に……」
 根が正直で素直な藤吾は、嘘も作り話も出来はしない。だから、そんな風に誤魔化すのがようやくだった。もちろんそれは、橋野たちから見れば、誤魔化しのうちにも入っていない。
「あの、兄ちゃんか?」
 最近のことで、仕事以外に考えられるのはそれだけだ。だから橋野はそう言ったのだが、言った途端、後悔した。
 藤吾の顔が、今にも泣きそうに、頼りなさそうに、歪んだからだ。


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