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コレガ僕ラノ進ム道
13
「あああ、泣くなよ藤吾……」
ぼろぼろ、と音がしそうなほどの涙がそのつぶらな瞳から落ちてきて、橋野は弱りきった声を出した。何しろ、藤吾の涙には弱いのだ。
「ああ、いや、我慢しなくてもいい」
言われて、今度は藤吾がぎゅっと噛み切れそうなほどの勢いで唇を噛んだのを見て、橋野は慌ててぽんぽんっとその頭を叩いた。ふぇ、とでも聞こえそうな勢いで、藤吾が上目遣いでその橋野を見て、また涙を零した。
―――あーあ。佐谷の兄さん、いいのかいこれ。こんなの、放っておいて。
自分だったら、きっと誰にも見せたくない。生憎橋野はそう言う趣味がないから、純粋に可愛い弟分の藤吾、としか見えないからいい。
こんなのがあの社長の目に入ったら……そう思っていた橋野は、部屋に鍵を掛けていないことを急に思い出した。やばい、と瞬時に立ち上がったが、遅かった。
「おや橋野。おまえも隅に置けないなあ」
いつからいたのか。梶原がにやりと人の悪い笑みを浮かべて、開けたドアに寄りかかっていた。
「何言ってんですか。ところで社長は、朝からサボりですか?」
「まさか。可愛い俺の社員の心のケアも仕事のうち。橋野、おまえは仕事に戻りな」
ゆったりと、そう藤吾に近寄る梶原に、橋野がため息をつく。
「あなたじゃ傷を深く抉りかねませんから、社長こそ、仕事に戻って下さい」
「ずいぶんな言い様じゃないか。一体、こんなに泣かせたのは誰だ?」
「少なくても、私じゃないですよ」
それに、藤吾も「あの」と小さく声を上げた。
「橋野さんは、ただ、俺を心配してくれて……な、泣いたのは、その、俺の勝手で」
「それなら、一体誰だ?藤吾を泣かせたのは?」
梶原が、言いながら藤吾の隣に坐って、その涙の後を長い指で拭った。藤吾は、いや、あの、ともごもご繰り返すだけで、答えられない。
「あの、威勢のいい綺麗な兄さんか?」
それに、藤吾の目がまた潤む。あーあ、だから、と橋野は逃げ出したい気分になっていた。そう言う顔は、この節操なしの社長の好物なのだ。藤吾が今まで無事でいられたのは、一重に現場でいっしょに働く者たちのおかげだった。社長と同じ趣味の人間はいないのだが、素直な藤吾は確かに、現場のオアシスだ。だからこそ、なるべく社長には会わせないように、まして二人などにはさせないように、と周りが常に気を配っていたのだ。
「社長……朝から良い物見ましたね」
ここで藤吾を守れなかったら、皆に何を言われるかわかったものじゃないな、と橋野は嘆息する。
「ふん?おまえ、いつから宗旨変えしたんだ?」
「してませんよ。さあ、もう仕事に戻って下さい。今日はここまでです」
「なんだそれは。今日はってことは明日もあるのか」
「社長ともあろう人が、何を言ってるんです?次もあると思ってます?」
次はないと思えよ、とか、今度あったらただじゃおかない、とか、さんざん口にしてきた二人だ。これだから橋野は嫌だよ、と梶原は肩を竦めた。
「おまえも男の色気ってもんに気付いたと思ったのになあ」
「それを即、ベッドにまで繋げるあなたの心理がわからないだけですよ。私だって元やくざもんの端くれとして、男の色気ぐらい感じます。まあ、藤吾の泣き顔はそれとは違う気もしますけどね」
変な庇護欲がそそられる辺り、それもまた問題な気もするのだが、橋野はそんなことは言わないで置いた。
藤吾が、はっとしたように、顔を伏せた。落ち込んでいっている。
「ほら、やっぱりおまえじゃないか、泣かせたのは」
「藤吾……どうして今の会話で落ち込むんだ。それともなんだ?色気でも欲しいのか?」
藤吾はただ、すみませんと謝った。橋野の言葉には何も答えていないのだが、迷惑を掛けていることはわかっていた。
ふーん、と梶原が笑う。それから、傍らの藤吾の顔を覗き込むようにした。
「身体の相性でも合わないか?なんだ?溜まってるなら俺が相手にしてやるぞ?」
「社長……」
「あいつより、よっぽど上手く抱いてやる。自信はある」
そんなことを、社員相手に胸を張って言って欲しくはない。
橋野が頭を抱えだしたところで、どうして、と藤吾の小さな声がした。
「どうして、そう思うんです?あの、変でしょう?」
「何がだ?」
「あの、だって……俺じゃなくって佐谷さんがその」
「ああ、おまえがネコで向こうがタチってことか?」
薄っすらと赤くなって、藤吾は頷いた。もともと、ゲイの世界での性の役割分担として、体格がものを言うわけではない。どちらがどちらかなどわからないカップルはたくさんいるし、そもそも両方の人も多い。だが、やはり、自分たちの対格差を考えると、違和感はないのだろうか、と藤吾は思うのだ。
「変、とは思わないけどな。逆の方が変だろ」
「え?」
「初めて見たときに、おまえは絶対ネコだと思ったし、あの兄さんを見たときは、タチだと思ったからな」
「な、なんで……?」
「そんなの、橋野だってわかっただろ?」
梶原の問いかけに、橋野は苦笑しつつ頷いた。
「気性の問題、ですかね?少なくとも、藤吾が積極的にするのも考えられないし、あの気性の激しそうな兄さんが大人しく受けてまわるのもまあ、あんまり想像できない」
橋野たちの人間観察は実にするどい。守衛室じゃあ暇だから、と先輩方は言うが、前の職業も十分関係しているのだろう。
「なんだ藤吾、そんなことで悩んでるのか?」
「だ、だって、俺、絶対無理……」
「あの兄さんに抱いて欲しいと言われたのか?」
それは意外だとでも言うような口調の梶原に、藤吾は赤くなりつつ首を振った。そうではない。そうではないのだが……。
「あれはあんまり、抱かれる感じじゃなかったけどなあ。まあ、藤吾が心配なら、協力してやるけど」
協力?と藤吾は首を傾げた。橋野は、苦りきった顔をしている。
「社長……そういうことに首を突っ込むのはどうかと思いますがね」
「別に大したことはしないさ。藤吾が安心できるように、ちょっと知恵と力を貸してやるだけだ」
それが、余計なことだというのだ。その上、この人はやることが大げさで、後の尻拭いが大変なのだ。
橋野は何度も首を振る。藤吾もそれを真似て、否定の意味も込めて弱々しく首を振ってみたが、梶原がそんなことに気を留めるはずがなかった。
「そんなところに知恵と力を使わずに、どうか仕事に精を出してください」
橋野の言葉に、梶原はとりあえず頷いた。
それがとりあえずなのだと言うことは、わかり切っていたのだが。
出社はしたのだから、とにかく仕事をするという藤吾に、橋野は無理はするなと声を掛けて、放っておいてくれた。社長と橋野のおかげで、少し気分は浮上した気がする。
本当は、何か力仕事が良かったのだが、あまり得意じゃない書類仕事で頭を一杯にしてしまうのも良いだろうと、藤吾は報告書や提案書の作成に取り掛かった。本来現場勤めなのだから、現場で報告書を書いて終わりなのだが、社長の梶原の方針で、ここでは現場も書類に目を通す。会議に掛かった議題から、最近の事故まで、それらに目を通して、何か意見でも疑問でもあれば書いて出す。藤吾はまだ目を通すだけだが、先輩達はあれやこれや議論をしたりして、最新の防衛設備についての意見書なども出しているようだった。なかなか、勉強熱心なのだ。
藤吾が必死でそれらの書類を読んだり、勉強したりしていると、橋野と多治見が昼食に誘ってきた。出社したのがそれほど早くなかったのだが、せっかくだからと藤吾は着いていった。何より、橋野や多治見は優しい。話していると、疲れが取れたり、気分が良くなったりする。
近くの蕎麦屋に入って、橋野がザル蕎麦、多治見は月見蕎麦、藤吾は天ぷら蕎麦を食べていると、橋野の携帯がなった。藤吾は、今日は携帯の電源を切っている。
怖かったのだ。映から、電話が掛かってくるのも、来ないのも。
「は?ああ、一緒に飯食ってますけど……はあ?また何で昼間っからそんなとこに。え?社長?はいはい。わかりましたよ。今変わりますから」
社長からだとわかった多治見が、怪訝そうに眉根を寄せている。橋野は少し呆然としつつ、それを藤吾に突き出した。
「え?俺、ですか?」
「ああ。おまえ、携帯の電源切ってんのか」
「あ、はい、あの……」
ああいいから出ろ、と橋野が携帯をずっと出す。藤吾は頭をひょこりと下げて、それを受け取った。
「はい、変わりました。え?」
藤吾の目が、大きく見開いた。きっとろくなことではないと悟っていた橋野が、多治見に早く食べるように促す。
「ええ!?あの、どうして……確かめるって、何を……あ、あのっ」
切られたらしい。呆然としている藤吾に、橋野が同情の眼差しを寄せた。何しろ今朝、社長に会ってしまったのが悪かったのだ。
「なんだって?あの人は」
「え、あの、映とホテルにいるって……」
ええ、ホテル?!と藤吾が立ち上がった。橋野はすっかり食べ終わって、自分も立ち上がると、落ち着けとその肩を叩いた。
「ほら、車出してやるから。どこのホテルだって?」
藤吾が言ったホテルは、梶原が経営しているラブホテルの一つだった。単純な梶原の考えらしいと、橋野がため息をつく。多治見も良くはわからないながらも、またあの社長が何かお節介でもして一人楽しんでいるのだろうと、ため息を吐いた。こちらも、さっさと蕎麦だけは片付けていた。
パニックになっている藤吾を引き連れて、二人は車に乗る。ホテルの場所は、確認しなくても多治見が知っていた。よく、色々な面倒ごとや遊びに社長が使うのだと言う。
「何やってんだ、あの人は」
「まあ、こっちとしても知らないところでやられるより良いですけどね」
何でも、常にリザーブしている部屋があるのだと言う。そんなものは、きちんとしたホテルにして欲しいと橋野などは思う。それだけの地位も金もあるのだから。
「どうしよう……ホテルって、それも、ラブホテル……」
藤吾が真っ青になっている。何を想像しているのやら、と多治見と橋野は視線を合わせて、深いため息を吐いた。
社長の好みからすれば、藤吾の方がよほど好みだった。きっと、そう波風を立てるつもりもないのだろう、と自分たちの無邪気な長を思う。
「あの人、ときどきどっかで間違えるからな」
洩れた橋野の呟きに、多治見は運転しながら、何度も頷いた。
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