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シュレーディンガーの猫
10
響貴が最後に姉と話したのは、いつのことだっただろう。
話した、と言う記憶はあまりない。ただ互いに奇妙なものを見るように、見詰め合っていた。庭にはないのに、何故か微かな梅の香が漂っていた気がするから、冬のことだっただろうか。あれは、自分は行くことのなかった中学の制服……記憶が曖昧で、わからない。遠くから見ることはあったから、記憶が混在しているかもしれない。
姉が何か言いかけて、すぐに呼ばれたために走っていってしまったことは覚えている。
あのとき、姉は一体、何を言おうとしていたのだろう?
その年初めての雪は、十二月に入ってすぐに降りてきた。でもそれは、薄っすらと街を白く化粧しただけで、すぐにも溶けてしまいそうな雪だった。
煙るような、細かい雪だった。
そうやって季節が過ぎていくことが、響貴には不思議でならなかった。毎日同じなのに、窓から眺める外の世界だけに時が流れている。
そうずっと、同じことの繰り返し。
都住か佐々原に抱かれ、食事をし、眠り、そんな毎日。決して出されはしない檻の中、ただ、そうやって生活している。
どうして、こんなにまでして生きていこうとするのだろう?
抱くことよりも、抱かれることに慣れたこの体で。
生きている証拠さえなく、都住か佐々原しか響貴の存在を知らない。――いや、ただ一人。
それが夢見がちな想像であることを、響貴はわかっていた。佐々原のことだ。徹底的に潰しただろう。それも残酷に。そうやって一人、息を引き取っていったのかもしれない。
それなのに何故、自分がここにいるのだろう。ここに生きているのだろう。
生きていこうと、ただ本能が命ずるままに?
――こんな本能なんて、いらない。
「何を見ているの」
ドアの開く音は聞こえた。でも、それは佐々原だろうと思っていて、響貴はいつものように床に座って、ぼんやりと窓から外を見ていた。
聞きなれない声に、視線だけ動かす。が、すぐにそれを逸らした。
見なかったことにしよう。
直感のようにそう思った。あまりに奇妙な、その顔。鏡で見ることを極力避けているのに、それを突きつけられたようだった。
あまりに、似ている。
「響貴……」
近寄られて、髪の毛に触れられたときには、響貴は震えていた。こんな風に、一つの空間に二人が存在することは、恐ろしくてたまらなくて。
間違っている。
間違っている。
こんなことは、間違っている。
「出ていけ」
低く、呟く声だけが目の前の響と自分が違うのだと教えてくれる。それにふと気付いて、響貴はもう一度、出ていけ、とはっきり言った。
それでもそれは、自分の声を録音して聞いたことのない響貴の、錯覚だ。変声期さえも無視して、響貴は成長したことを本人はしらない。男にしては高い、声。
残酷なほど、二人は似ている。
響貴がやっと、じっと睨むようにその自分そっくりな顔を見る。その自分と同じ顔に、真剣な目を見つけて、逃げようとしていたのをやめた。それは少し哀しみを帯びていて、響貴を途惑わせた。
「明日、出かけることになっているの。佐々原はそのときいないわ。ねぇ、逃げなさい」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。響貴が不思議そうな顔で自分を見るのに、響は柔らかく笑う。その笑顔に、自分と彼女は違うのだと、響貴は突然確信した。
「明日一時に、ここに来るわ」
「何?」
「入れ替わるの」
馬鹿なことを、と言いそうになって、響貴は開きかけた口を閉じる。あまりにもその目が、真剣で。
「もうすぐ、結婚するの。だから、これが最後なの」
結婚、と言う言葉に、響貴は眩暈がした。そうなったら、自分はどうするのだ。姉がいなくなったら、自分がここにいることは意味がない。本当に、ただ飼われているだけになるのか。
それとも――
殺されるのなら、その方がいい。
どう足掻いても男としての成長しか遂げないこの身体で、抱かれつづけたら。
――狂ってしまう。
今だって、狂っているのに。
「だから、逃げなさい。お願い。こんなこと、続けていてはいけない」
逃げなさい、と優しい声が言う。響貴はその声に、目に、彼女も被害者だったのだと分かった。彼女は、自分そっくりの顔をした男を抱く父親のことを知っていたのだろう。そのことに、苦しまなかったわけがない。そして、何よりも道具としてしか思われない自分。母親さえ、彼女を可愛がらなかったことは想像できる。響貴が生まれてから、母親はずっと響貴のそばにい続けていたのだから。早すぎる結婚も、彼女の意志などどこにもないのだろう。
「それで、いいの?」
響貴がそう聞くと、響はもう一度ゆっくりと微笑んだ。響貴がいることで取れている均衡がある。狂気に近いほどの、奇妙な関係。それが崩れたら――
「何も、出来ないのよ。私には何も出来ないの」
あなたを助けることさえ、出来なかった。そう、笑う。響貴は自分たちがあまりに哀れで、思わず手で目を覆った。
何が出来たというのだ。
この姉にも、自分にも。ずっと怯え、服従することしか教えられなかった自分たちに、何が。
響が、響貴の赤黒くなった手首をそっと撫でた。ずっと他人に触られることを嫌がっていたのに、響貴はされるままだった。
「あのとき、逃げてしまえばよかったと今でも思うわ」
それが、幼い頃の誘拐されたときの話だと、響貴にはわかった。そんな風に助けを求めるなんて、馬鹿だと思いながら。
自分も、同じ。
「誰も助けてくれないのよ。だから自分で、逃げなさい」
響はそれだけ言うと、ふらりと立ち上がって部屋を出ていった。響貴は手首を撫でながら、ぼんやりとその後ろ姿を見送った。
―――だから自分で、逃げなさい。
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