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08
 とにかく矢野に会って欲しい。
 東にそう言われて、俺は迷った末に頷いた。間宮さんとのことは、あの写真が発端だと聞いたせいもあった。東は、俺が迷惑をかけたと思う必要はない、と言っていたが、少なくともそのせいで、間宮さんとの事を画策しなければならなかったと考えると、一度話しておいた方がいいと思った。それに、諦めるなと言われたことも大きかった。
 東とまた一緒にいようと思うなら、マネージャーである矢野さんを味方につけたほうがいい。
 言われた時間に事務所に行くと、矢野さんだけではなく槙社長もいた。そしてもう一人――。思わぬ人物が、俺を待っていた。
「兄ちゃん!」
 両手を広げて駆け寄ってきたのは、実だった。俺は困惑しながら、その少し大きくなった身体を全身で受け止める。下腹あたりに頭のてっぺんが来ていて、背が伸びた、と思った。
「実?おまえなんでここに……」
「スカウトしたのは本気だって、言いませんでしたか」
 俺が東と出会うきっかけとなった、そのスカウトの話は、もう一年以上前の話だった。
「いつから……?」
「最近です。ようやく、口説き落としたと言うか……。まだ一応、この夏休みだけレッスンを受けてみるという話なのですが」
 相変わらずの低姿勢の槙社長が、そう言いながら実の頭を撫でた。実は嬉しそうに、笑っている。人見知りが激しい実にしては珍しい。それほど頻繁に、槙社長は実に会っていたのだろうか、と思った。
「実くんが、楽しいと思って、続けたいと思ったら続ければいい。そう言う約束です」
 その言葉に、実は「楽しいよ!」と元気に言った。俺と会うときは、いつも悲しそうな顔をしていた実とは遠い。
「このまま実くんが事務所に所属してくれれば、あなたのことも誤魔化しやすくはなる」
 落ち着いた声が別の方向から聞こえてきた。俺は顔を上げると、ぺこりと頭を下げた。
「初めまして。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。名瀬イズルです」
 すっと姿勢よく、ぴしりとスーツを着こなしたその人が、矢野さんだろうと思った。眼鏡をかけたその顔は、東が「食えない人」と言ったのがわかるような、隙のない表情をしていた。俺に対しての感情が、見えない。
「こちらこそ、ウチの東がお世話になっているというのに、挨拶もせず、申し訳ありませんでした」
 どうぞ、と促されて、俺は近くのソファーに坐った。今回は話が話なだけに、きっちりとドアの閉まっている部屋に案内されていた。実は、まだレッスンがあるといって、出て行った。名残惜しそうだったが、帰りに会えると槙さんに言われて素直に頷いていた。
 矢野さんは、俺と自分にコーヒーを置いてから、自分の名刺もその隣に滑らせた。
 槙プロダクション社員、矢野永(やのひさし)。その下には、事務所の電話番号と、携帯電話の番号が書いてある。矢野さんはそれにすっと手を伸ばしてきてぺらりと裏返した。そこには、別の携帯電話の番号が記してあった。
「どちらにかけて貰っても構いません。裏の方が確実かもしれませんが。何かあったときには、遠慮なさらずにかけて来て下さい」
「あの……」
「東は今日、ここに来られないことを非常に残念がっていました。きちんと、紹介したかったのに、と」
 にっこりと笑われて、俺はどうしたらいいのかわからなかった。矢野さんは知っている、と東は言っていた。こんな風に、迎え入れられるとは思っていなかった。
 一瞬の沈黙が漂ったとき、ドアが開いて槙さんが入ってきた。わざわざ実を送ってきたのだろうか。
「なんだ?矢野、苛めるなよー。後で東に怒られるぞ」
 笑いながら、俺の前、矢野さんの隣に坐る。そのまま、ひょいっと矢野さんのコーヒーを持って、ごくりと飲んだ。
「社長……ご自分で淹れてきてくれませんか。すぐそこにあるんですから。それに、苛めてなどいません」
 呆れたようなため息を吐いている。俺は落ち着かない気分で、二人を見ていた。
「まあイズルくん、そう硬くならないで」
 どうぞ、と槙さんに勧められて、俺はコーヒーをもらった。苦味が頭をすっきりさせる。
「あの、写真の件では、ご迷惑をおかけしました」
 まずそれを言っておこう。そう思って俺が頭を下げると、二人は顔を見合わせた。
「いや。あれは東のほうが悪い。あいつの自覚が足りなかったんだ」
 矢野さんがそう言って、柔らかく微笑んだ。
「でも……」
「そもそも、東といるから君が撮られてしまったんだ。自分のところの人間くらい、きちんと躾ろと鷲見に言われたよ」
「鷲見さんに?」
「ああ。君はあいつにも可愛がられているようだ」
 槙さんはそう言って、くすくすと笑った。
「あの、反対、しないんですか」
 恐る恐る聞くと、して欲しいのか?と訊かれた。俺はぶるぶると、首を横に振った。
「純粋に事務所の立場で言えば、確かに反対だ。君たちの関係は、リスクが多すぎる」
 槙さんはふうっと大きなため息を吐いた。
「だが、俺にも責任がある」
 え?と槙さんを見ると、穏やかな顔をして微かに笑っていた。
「最初に会った日のことを、君は覚えているかな?」
「はい。あのときは、実がお世話になって……」
「あのとき、君はこう言った。
 芸能界や芸能人を悪いとは思っていない。身一つで稼ぐなど、立派なことだ、と」
 そんな生意気なことを言ったのだろうか。俺は恥かしくなって身を縮ませた。
「驚いたよ。そんな風にさらりと言ってくれる若者がいることにね。そのときに、東が通っただろう?これはもしかしたら、と思ったんだ」
 俺は目を細めて僅かに首を傾げた。
「あの当時、東は結構ぎりぎりでね。現実の自分と作ってきた自分に挟まれて、苦しんでいた。それが仕事にも影響して、伸び悩んでもいた。その上それを誰にも相談しなかった」
 俺が矢野さんを見ると、苦笑していた。
「君と少しでも話をして、あわよくば良い友人にでもなってくれないかと思った」
「そんな……俺のこと、知らなかったのに……」
「これでも、人を見る目はあるつもりだ」
 友人以上とは考えなかったけれどね、と槙さんは笑う。
「あなたと出会ってから、東は少しずつ変わっていきました。余裕も出てきた。それが仕事にも好影響を与えた。それを考えると、私も簡単に反対だとは言えません。その上、東自身もあなたが必要なのだと言う」
 矢野さんは困ったようにそう言った。どこか、諦めたような顔だった。
「私の仕事は、藤原東を売ることです。いわば、藤原東は商品です。私は本人に向かってそう言うことも構わずにやってきました。ですから、商品として彼が良くなっていくのだったら――彼の私生活にまで口は出せません」
「リスクが、あっても?」
 俺は思わず口に出していた。矢野さんも槙さんも、少し驚いた顔をした。
「そのリスクと、彼の俳優としての成長を天秤にかけたら、私は成長を取る。そう言うことです」
 俺は唇を噛み締めてプラスチックのコーヒーカップの中で揺れる、黒いコーヒーを見ていた。そうだろうか。本当に、俺が傍にいていいのだろうか。
 それに、と矢野さんは言って、コーヒーを取りに立ち上がった。結局、彼のカップは槙さんに取られてしまったようだった。
「それに、そのリスクは減らすことが出来る。私と、東と、そしてあなたの協力があれば」
 コーヒーをいれた矢野さんが、振り返った。真っ直ぐな視線にぶつかった。
「あなたに今日訊きたかったのは、そのことです」
 矢野さんはすっとソファーに坐って、こくりとコーヒーを飲んだ。
「私たちに、協力する気があるのか」
「協力する……というのは?」
 俺は恐る恐る訊いた。矢野さんは笑ってまた、コーヒーを飲んだ。
「無理なことを言うつもりはありません。あなたと東の間で何かあったとき、必ず連絡していただきたい。あなたの周りで、何かおかしなことがあったときもです。例え、些細なことでも。必ず、ここに」
 トントン、と名刺を叩く。細く長い指だった。
「つまり、私を信用して欲しい、ということです」
「矢野、我々、だろう?」
 隣の槙さんが不満そうな声を上げたが、矢野さんはそれを無視して俺をじっと見ていた。
 覚悟をしろ、と言われているようだった。藤原東という芸能人と付き合うのだという、覚悟を。
 俺が何も言えないでいると、もちろん、と矢野さんは華やかに笑った。今までで、一番晴れやかな笑顔だった。
「もちろん、今回のように逃げていただいても構いません」
 俺ははっとして矢野さんを見た。
「東はしばらく使いものにならないかもしれませんが、時間が経てばあなたのことも忘れるでしょう。そのときにはまた、違う東が見られるかもしれない」
 俺はぎゅっと奥歯を噛み締めた。それから、いいえ、と首を振った。
「いいえ。逃げません」
 情けないことに声が震えた。それでも、思わず出たその言葉が、一番自分の気持ちに近いのだと思った。
 逃げたくないと思った。逃げられない、と思った。
 今だって、隣に東がいたら、手を伸ばしてしまったかもしれない。でも、東がいないから、俺は自分の両手を組んでぎゅっと握った。
「信頼して下さる、と思っていいのですね?」
 無意識に床ばかり見ていた顔を上げると、矢野さんは微かな笑みを浮かべていた。
「もちろん、要求だけをするつもりはありません。私も、あなたを信頼する」
 矢野さんの声は確信に満ちていた。絶対に、守ると言われているようだった。
「この信頼関係において、あなたからは色々なことをお知らせ願いたい。東に、言えないことも。あなたが不安に思うことも」
 相談でもいい、と矢野さんが言って、俺はようやく東が昨晩言っていたことを思い出した。
 ――誰にも相談できなかっただろ?
 東はそう言っていた。そう、心配してくれた。だから矢野さんを紹介してくれたのだ。
 矢野さんの目は、俺を試すようだった。でも、俺はこの人なら大丈夫だと思っていた。きっと、東を守ってくれる。この人なら、俺より東を優先する。
 俺が、望むのと同じように。
 そう思ったら、ひどくほっとした。だから俺は、頷いた。
 よろしくお願いします、と言うと、矢野さんも頷いてくれた。
 槙さんは、どこか楽しそうな顔をして、俺たちを見ていた。


 矢野さんはどこまでも食えない、と言ったのは東だった。どうやら槙さんから事の顛末を聞いての言葉らしい。
 上手く丸め込みやがって、と槙さんは言ったそうだ。
「丸め込まれた覚えないけど……そうなのか?」
「いや、うーん。俺は最初から相談相手になってやって欲しい、って言ったんだけど」
 そう言う話じゃなかったのか?と訊かれて、俺は「うん、そうだった」と少し嘘をついた。最終的にはそういう話になったが、それがメインの話ではなかった。ただ矢野さんは、最初にそう言っても、俺が頷かないと思ったのかもしれない。
 東がソファーの肘掛に足を投げ出して、上半身を俺に預けてきた。東の部屋にあるソファーは、かなり大きい。俺は重たいとは言いながら、それを押し返す気はなかった。
 テレビは洋画のエンディングを流していた。俺たちは既にもう見てしまった映画だったが、東が吹き替えに興味があって見ていたのだ。やってみたいのか訊いたら、まあ機会があればってくらいだけど、と言っていた。
「俺が全部を受け止められないのは悔しいけど。俺だから駄目なことも、あるんだよな」
 俺もなんとなく東のほうに体重をかける。東の手が動いて、俺の膝を撫でた。
「俺だから駄目なことだってあるだろ?」
 それも矢野さんが受け止めるのか。二人分じゃ大変じゃないのかと言うと、東は俺の膝を軽く叩いて笑った。
「矢野は自分の立場をはっきりさせてるから大丈夫。それに、イズルのことで本当に悩んだとしたら、多分俺は矢野には相談しない」
「誰にするんだよ。鷲見さん?」
「まさか。鷲見さんはどっちかというとライバルだろう」
 ふいに東が身を起こして、テーブルの上に手を伸ばした。あ、と思ったが遅かった。リモコンのボタンが押されて、テレビが消える。
「……消すなよ」
「本人が目の前にいるだろ?」
 そう口付けられる。東はあの新しいコマーシャルが恥かしいらしい。ひどく格好をつけたデジタルカメラの宣伝で、俺は素直にカッコイイと思うんだけど。
「で?誰に相談するんだ?」
「問題は、簡単には捕まらないことかなあ。でも、適任だと思う」
 嫌な予感がした。一番、話して欲しくない相手と言うか。
「適任だろう?」
 俺の嫌そうな顔を見て、東が笑う。俺は今度は東を押し退けて立ち上がった。くるりとソファーの後ろに回って、どこに行くべきか悩む。
「イズルー」
 ソファーの背凭れに腕をのせて、後ろ向きで東がひらひらと手招きする。
「親父はやめろよ」
「でも、他に思いつかない」
 腕に頭をのせて、東は微笑んでいた。
 確かに、そうだろう。俺のことを一番よくわかっているのは、親父だろう。だからこそ、東と話されるのは恥かしくて堪らなかった。でも。
 俺に矢野さんを紹介してくれたように、東にも誰か必要だ。それはわかる。
「イズル?」
 いつまでも立ったままの俺を東がまた手招きする。俺はため息をついて、ドアに向かって歩いていった。東がまた、俺の名前を呼ぶ。
 俺はドアを開けてから、笑いながら振り向いた。
「シャワー、浴びてくる」
 時計の針は十時に近い。今夜は泊まりに決定だ。東は目をぱちりとさせてから、ものすごく嬉しそうに笑った。




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