椿古道具屋 第一話
懐中時計の神さま 10
史朗は客間を出て、台所横のトイレを見てみたが、電気が点いていなかった。きょろきょろと辺りを見回してみるが、あの長身は見当たらない。廊下を覗き、和室に入ってみたところで、雪見障子の下のガラス部分に、足が見えた。どうやら広縁にいるらしい。
和室から、広縁に出る。史朗は無言で、腕を組んで柱に寄りかかっている凪の隣に立った。満月ではないため、庭を照らす月明かりはごく僅かだった。それでも目が慣れてくるにつれ、木々の輪郭や池の水が見えてきた。
さすがに寒く、史朗は腕を摩った。超然としている凪は、さすがに鍛え方が違うのかもしれない。
「疲れた?」
「まあ、さすがに、あんな体験はしたことないからな。幻覚だって言っても、あの重さは腕にきた」
腕に疲れはないのだが、頭があれを覚えている気がする、と凪は何やら小難しいことを言う。
史朗はその右腕にそっと触れてみた。硬い、筋肉の固まりのような腕だった。
ふと、痛いほどの視線を感じて顔を上げると、凪は史朗をじっと見ていた。射抜くような視線とはこんな感じだろうか、と史朗は身を竦ませた。自然、腕に触れていた手も元の場所に戻る。
「あ、あのさ、なんか助けてくれた神様にお礼をするのに、宴会して、酒飲んだり飯食ったりするんだってさ。おまえも参加しないと駄目みたいだぞ。神様たちの宴会、結構すごいんだよ。多分遅くなるし、家に電話入れとけよ。なんなら、ここに泊まっていってもいいし。客用の布団あるし、そうだよ、そうすれば?」
史朗は一気に喋った。どこか息苦しい空気を、なんとかしなければと思ったのだ。だが、その雰囲気を作っている当の本人は、まだじっと、史朗を見ている。
「史朗、おまえ、誘ってるのか」
独り言かと思うほど小さな声だった。史朗が眉を潜めて首を傾げると、「そんなわけないよな」と首を振る。
「何?」
「いや、神様にはお礼があって、俺には何もないのか」
史朗は目をぱちりとさせて、わけがわからない、という顔をした。
「朝早くから、桐原のばあさんがいる病院を調べてきて、おまえを迎えに行って、病院行って、桐原の家に行ったら、わけわかんねー『神馴らし』なんてやらされて、あげく、明日でもいいはずの病院に、また戻って……。何か褒美を貰ってもいいと思うけどな、この働きを考えたら」
まったく、文句を言うときだけは口が滑らかだ、と史朗は内心舌を出したくなった。だが、確かに朝から凪は良い情報を持ってきてくれたし、神馴らしも上手くいった。それに、この無口で愛想のない男がねだる褒美が何なのか、少しばかり史朗の好奇心がうずいた。
「何なら、神様たちにおねだりしてみるか? おまえなら、喜々として褒美をくれるかもしれないぞ、あの神様たち」
何しろ、一律みんな、「凪さま」とこの男のことを呼ぶ。対して史朗は、この家の主であるにもかかわらず、呼び捨てられたりもする。待遇の差は明らかだった。
「いや、俺が欲しいのは神様からの褒美じゃない」
顔を上げて横を見たら、凪の顔が間近に迫っていて、史朗は驚いて悲鳴をあげるところだった。薄い月明かりが、その顔に濃い影を落としていた。
「凪……?」
すぐ隣の部屋の喧騒が、なぜか遠い。その黒い瞳に魅入られたかのように、史朗は動けずにいた。それでも、なんとか逃げるように後ろに下がる。だが、いつの間にか史朗の後ろには柱が迫っていた。背中がそこで止まってしまうと、史朗は今度はずるりと坐りこんだ。
「……我慢できねえ」
「え?」
凪の片手が柱の角を掴む。真っ直ぐで厳しささえ感じさせる視線が、史朗に注がれる。だがすぐに、目線を合わせるように凪も片膝をついた。目の前には、端正で意外なほど真剣な凪の顔、後ろは柱、左を見れば凪の腕、右には空間――広縁はそれほど高くないが、落ちたらそれなりに痛いだろう。史朗に逃げ場はなかった。
黒い瞳が、真っ直ぐに史朗を射抜く。
「心臓の位置に、手を突っ込んだだろ。あれも感触はあるんだ。腐って溶けかけた肉に触ってるようだった。指を動かすと、心臓なんだかわからないが、生の内臓を掴んだような気もした。あれから――あの感触を知ってから、おさまらないんだよ、欲求が」
何の、と訊くほどには史朗も馬鹿ではなかった。ずりっと後に逃げようとするが、もうこれ以上進まなかった。
「やりたくって仕方がない。史朗――」
からり、と史朗にとっては天の助けとばかりの音がしたのは、そのときだった。助けを求めるように音がした方を見ると、朱紫さまが和室の引き戸から、月を眺めていた。
史朗が助けの声を上げ遅れたのは、いくら神様といえども、ここで女性に助けを求めていいものだろうか、と思ったからだ。無駄なプライドだけはある、と史朗自身も思う。
だが、朱紫さまは艶やかに微笑んで、二人の方に身体を向けた。
「凪さま。このようなところでご無体を働くのは、いささか賛成いたしかねます。まずは一献、いかがでしょうか」
朱紫さまが現われたことで、凪の熱も少しは冷めたようだ。しばらくその鯉の化身を睨んでいたが、やがて諦めたのか、小さな舌打ちをして立ち上がった。史朗はその下で、ほっと息をはく。
なんだったんだ、今のは。
心臓がばくばくいっている。すらりと立った凪のように、すぐには立ち上がれない。
「腰が抜けてしまっているようですよ?」
凪が横を通ったとき、朱紫さまがそうくすりと笑ったが、凪は今だ座り込んだままの史朗を一瞥して、「知らねーよ」と中に入っていってしまった。
残された史朗は、ただ呆然と、その後姿の余韻を追うしかなかった。
もうこうなったら飲むしかない。
史朗は決して品行方正ではなく、煙草も酒も好奇心で手をだしたことがある。中学校三年生の頃だった。どちらも美味しいものだとは思わなかったので、それ以降、自らは手にしていない。正し、小学生のときからずっと、正月のお屠蘇は必ず飲まされた。と言っても、史朗にすればまるで不味い薬を飲まされているのと同じだった。色々な味のあるチューハイならまだ飲めるが、それだって、ジュースの方が美味しいと思っている。
だが、禊だなんだと神様に言われ、史朗は日本酒を飲まなければならなかった。悔しいのは、まずいと顔を顰めながら、慣れない枡に、零れてもいいかと思いながら飲んでいる史朗とは反対に、凪は枡を粋に傾けていることだ。先刻のことなどまるで何もなかったかのように、神様たちが次々と出してくる料理に舌鼓を打ち、すいっと旨そうに酒を飲む。その姿はいっぱしの大人のようで、史朗は口惜しい。さらには、凪には唯一その姿が見える朱紫さまを隣に侍らせ、酒を注がせているのだ。赤い内掛けの朱紫さまは、どこか艶かしい。
それなのに、史朗の隣に坐ったのは、弟の方のそば猪口様だった。男くさく、屈強な野武士のような市松様は、どかりと乱暴に腰をおろし、既に酒臭い息を吐いた。
「よお史朗、もっと飲め」
ぐいっと一升瓶を差し出される。どうやら市松様は、それを右手に、どんぶりを左手に持って、酒を飲んでいるらしい。
「いらない」
ようやく飲んだのに、とばかりに枡に手で蓋をすると、市松様の右の眉が跳ね上がった。
「けっ、坊やは酒はまだ飲めないってか」
「そもそも、日本じゃ二十歳前の飲酒は禁止されてるんだって」
宴が始まる前に、なんとか日本酒を飲まないですむようにと思って繰り返した言葉を再び言う。だがもちろん、神様に「日本の法律」なんてものが有効なはずがなかった。市松様の隣では、便利水様たちもお酒を飲んではしゃいでいる。まあ、見かけは子供でも、本当に子供なのかは怪しいところなのだが。
「神馴らしの野郎は飲んでるぜ? ちっ、朱紫さまとかんざしを侍らせて、いい気なもんだ」
凪には見えていないが、朱紫さまの反対側、左隣にはあの珊瑚のかんざし様が足を投げ出して身を寄せているのだった。
「おや、史朗さまは日本酒がお嫌いかい」
二人の会話を聞いて声を掛けてきたのは、糸巻き様だった。それから、ふくよかなわりに軽い身のこなしで立ち上がり、台所から何やら瓶を持ってきた。もう一歩の手には、小さな柄杓とコップが握られている。
「これならどうだい? 甘くて美味しいよ」
瓶の中に入っていたのは、琥珀色をした梅酒だった。いつの間に漬けていたのかと思うが、神様たちは、これで働き者なのである。
確かに梅酒は美味しかった。とろりとした甘さに、梅の芳香がアルコール独特の苦さを消していて、史朗はついつい何杯も飲んでしまった。美味しいと連呼する史朗に気を良くして、糸巻き様は他にも果実酒を持ってくる。レモン、杏、桃、林檎、夏みかん、枇杷……一体何種類の酒を飲んだだろう。史朗にはもう判別がつかなくなってきた。だが、どうやらなかなかに酒に強いらしい。身体は熱いし、ふわふわしてとても気持ちがいいが、訳がわからないほどではない。立ってトイレに行くときも、まだ真っ直ぐに歩けた。
トイレから帰ってくると、凪がいなくなっていた。風呂に入りに行ったのだという。まったく至れり尽せりだ。
「本当は、おまえさんが先に入っておくべきなんだろうがねえ」
糸巻き様が赤い頬を指で押さえて嘆息する。史朗と一緒になって、果実酒を飲んでいたのだ。
「どうして? 一番風呂の方がいいんじゃないの?」
史朗はコップの酒をごくりと飲んだ。これは、林檎だろうか。
「禊をして待つのが本当だろう。お供えの方が待たせるなんて、聞いたことがないよ」
糸巻き様はゆるゆると首を振った。史朗はわけがわからず、緩慢な動作で首をかしげた。
「お供え? 俺がお供えなの?」
おうよ、と言いながら肩を組んできたのは、上機嫌の市松様だ。彼の背後には、一升瓶がごろごろしていた。
「なんでも、あの野郎がおまえを所望したそうじゃねえか。ま、酒、肴とくりゃあ、後は女だ」
「俺は女じゃない!」
「そうだけどよ。あの野郎がおまえがいいって言ったんだろ?」
そんなことは言われていない。ただ、やらせろと迫られただけだ。
だけ、と軽くあしらうことの出来るものではないが、市松様の言うこととは違う。たぶん、他にいなかったからだ。
「ともかく、おまえは捧げもんってことだ」
先刻助けてくれた朱紫さまを見ると、困ったように微笑まれた。
「先ほどの凪さまの話を聞いていると、どうやら御魂は鎮まっていないよう。お神酒と、ご神饌で、と思いましたが、足りなかったようでございます」
「まあ、神馴らしってのは喧嘩みたいなもんだ。血肉が沸き踊って、興奮するのはわかるぜ」
市松様は無責任に頷いている。史朗の顔が僅かに、蒼白になった。
「心配いらねえよ。何も命を取って食おうってんじゃないんだからさ。ようは、いいことすんだろ?」
野郎が上手いとは限らねえがな、と笑う市松様の目は、好色な色を宿していた。
「男女の閨のことなら、この俺様がちったあお助けできるが、男ばっかりはなあ……」
それならわたくしにお任せください、と膝をすすめて史朗の前に出てきたのは、箱枕様だった。黒い漆塗りの、小さな木箱だ。
「枕、なの?」
史朗がつい零すと、神様たちの白い目に晒された。もの知らずな、と無言で責められる。
「確かに枕でございますよ。ですから、閨のことならお任せくださいと申し上げたのです。男女のことはもちろん、男同士のことについても、見聞きしたことはお話できます。何しろ、私の目の前で繰り広げられたことばかりですから」
そして箱枕様は史朗に、延々男同士はどうやって抱き合うのか――枕様は「まぐわう」と古めかしく言ったので、史朗が理解できずに、どう言い換えたらいいのかちょっとした議論になった――、解説してくれたのだった。だが、やたら熱心に聞いていたのは、史朗ではなく他の神様たちだった。「へー」とか「ほー」と言いながら、身を乗り出して聞いている。
史朗は目を白黒させるしかなかった。男同士でもセックスができることは知っていた。だが、その具体的な方法まで考えたことがなかったのだ。
あんなところに挿れるのか――。
史朗は頭を抱えたくなった。
箱枕様は、どのような準備を施すべきかまで、詳細に述べてくれた。さらには、自分が目撃した男同士のセックスの様子まで、身振り手振りで熱演してくれたのだった。
「ですからね、良い気持ちになれるもののようですよ。下になる人物は、最初はなかなか辛いものがあるようですが、慣れれば、下手をすれば上のもの以上だといいますからねえ……」
慣れるほどやるつもりは、毛頭ない。それどころか、史朗はどうやって逃げるか、必死に考えていた。
しかし、名案は浮かばなかった。凪をなんとか説得する、などという、無駄に思われる案しか思いつかなかった。そうこうしているうちに、凪が風呂から上がってきてしまった。今度は史朗の番だと、神様たちに風呂場へ押し込められる。これを出たら、怖い夜が待っている――そう思うと、史朗はなかなか湯船から出られず、のぼせるところだった。だが、のぼせて倒れる前に、便利水の五つ子様が、心配だと覗きに来てくれた。
とにかくもう、出て行くしかなかった。脱衣所には、どこから持ってきたのか浴衣が置いてあった。史朗は脱いだものを探したが、持っていかれてしまったようだ。神様たちが世話焼きなのは、ここ最近わかってきたことだ。明日返してもらえば良いか、と半ば投げやりな気持ちの史朗は、浴衣を手に取った。下着もないが、仕方がない。着方のわからない史朗は適当に羽織って、帯を締める。ぎゅっと固く締めて、史朗は覚悟をした――わけではなかった。臆病な史朗は、もちろん、どれだけ時間をかけても、覚悟などできるはずがなかった。