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□yugo09 http://recipe.electro.xx
「あ、ユーゴ!」
客先から帰ってきて、ブースから出てきたところで、ユーゴはタチバナに呼び止められた。おいでおいで、と指をひらひらされて、ユーゴはそこに向かう。テーブルには、ミヤコとその恋人であるサカエもいた。サカエは思い出担当だ。
「ユーゴ、久しぶりね」
日本人形みたいなミヤコににっこりと笑われると、ユーゴはいつもどぎまぎとしてしまう。その上、男前だが冷たい表情のサカエがいると、余計に緊張する。だからぎくしゃくとミヤコとサカエに挨拶して、ユーゴはタチバナの隣に坐った。
二人が、とてもいい人たちだと言うのはわかっているのだが。
「あ、あの、この間はスコーンありがとう。美味しかったよ」
ユーゴが慌てたようにそう言うと、ミヤコがまた、にっこりと笑った。
「ユーゴに合格点貰えるのが一番安心するわ。あれもユーゴのアドバイスのおかげなんだけれど」
あれから失敗しなくなったの、とミヤコは嬉しそうに話す。
「俺が美味いと言っても、信用されないしな」
サカエがうっすらとそう笑う。それにミヤコは、だってサカエは妥協してしまうんですもの、とむくれたような目をした。まるで子供のような目に、ユーゴは驚いた。ミヤコはいつも、もっとずっと厳しい目をしている。
「スコーンってなに?俺も食べたかったなあ……」
拗ねた調子で言ったのはタチバナで、ユーゴは今度作ってあげるよ、とそれに答えた。タチバナには、本当に感謝しているのだ。今この平安で幸福な毎日があるのは、彼のおかげだと言っても言いすぎじゃない。
「やったー!ってでも、それを幸野さんには言うなよ、ユーゴ」
「え?なんで?」
「なんででも!まったく、あの人の嫉妬深さには困るよ」
やれやれと首を振るタチバナに、ユーゴは目を見張る。幸野が嫉妬なんて……嬉しいかもしれない。
「そんな、スコーンくらいで」
「とにかく、ユーゴが自分以外の誰かに料理を作るって言うのが、本当は気に食わないんだよ、あの人は。それがユーゴの仕事で、好きなことだからって我慢してるけど。だから、仕事以外で、俺なんかに作ったって言ったら、俺何されるかわかんねーもん」
絶対意地悪されるんだ、とタチバナは嘆く。その意地悪がまた、仕事に絡めての能力試しみたいなものだから、負けると悔しくてたまらないのだとタチバナはぐっと手を握った。
そう言うところは、幸野らしい。本当は、幸野はタチバナのことをもの凄く買っていて、話をすることを楽しんでいる。そして、本人にはその気がなくとも、確実にタチバナの能力アップの手助けをしているはずだった。実際、タチバナは今は、インテリアのことだけではなく、そのコーディネート、流通のことにまで詳しくなってきている。
やはり幸野は、Sランクの客なのだろう。今でも、そんな人がなぜ自分を選んでくれたのか、ユーゴはわからない。でも、とても、とても誇らしいと思う。
「ユーゴ、幸せそうね」
ふいにミヤコに微笑まれて、ユーゴは頬を染めた。
幸せかと聞かれたら、幸せだと、きっぱり言うことができる。
どして自分なんか、とユーゴが思わず言ったとき、幸野は「こら」とユーゴの頬をむにっと引っ張った。それから、そっと、キスをしてくれた。
選ぶとか、選ばれたとかではなくて、お互いに惹かれたんじゃないのか、と幸野は言った。ユーゴは、俺の見る目を疑うわけ?と。
――誰かが君を大切に思っている。それなのに、君自身がそれを認めてあげないのは、かわいそうだって。
カナエのこの言葉の意味が、わかった気がした。自分が幸野を誇りに思うのと同じに、その幸野に思われている自分を、誇りに思うべきなのだ。そして、そう思うために、努力をすべきなのだ。自分が、自分を認められるように。
「うん」
ユーゴはそう微笑んだ。
うん、幸せだよ、と。
幸野は仕事がとても忙しい人だ。部屋に仕事を持ち帰るなんて、良くあることだ。だから毎日会えるわけではない。でも、ユーゴはその間、料理の勉強に精を出すことにした。世界各地の料理なんてまだまだユーゴは知らないし、現場経験がないユーゴは、ハマナたちにその現場のことを聞くのも勉強になった。大量に作るときと、少しだけ作るときと。決してそれは、分量を足し引きすればいいなんて単純な話ではない。それから、そう言ったレストランや料亭の話から、食事時のホストの役割にまで関心が行くようになった。どうもてなせば、招待した人は喜ぶのか。料理を出すタイミング、盛り付け。ユーゴの世界が、一気に広がった。
その日、ユーゴは幸野と約束をしていた。会うときは、いつもなるべくユーゴの勤務時間が終わる頃を選ぶ。そうすれば、勤務時間終了と共にユーゴはそれを連絡し、その後たっぷり十二時間は幸野と過ごすことができるからだ。もちろん、常に狙い通りに行くとは限らない。だが、それは暇なことが多い料理担当。タイミングが合わなくて会えなかった、ということは少なかった。
だが今晩は、食事をいっしょにしようと言われていた。ということは、勤務時間を数時間残して、幸野の下に行くことになる。それくらいのことは、頻繁でなければ咎められもしないのだが、ユーゴはどこか罪悪感があるような、でもドキドキしているような、不思議な心持でいた。
携帯が無機質な音を立てて、ユーゴはそれを掴んだ。「出ます」と答えて、ブースに向かいながら、思わず顔が綻ぶ。タチバナがそれを見ていて、素直だねえ、と呆れた声を出していたが、そんなことは気にならない。
「ん……」
まだ完全に全身が現れないうちに、ユーゴは抱き締められて口付けられていた。がっしりとした首に手を回すと、口付けは一層深くなる。
幸野のキスは、いつでもユーゴを蕩けさせる。だからいつも、こんな風に飛んできてすぐに口付けられると、まるで自分の実体がないかのように感じるときがあった。それも、背を撫でる大きい掌に消されるのだけれども。
でも今日は、いつも弄ってくるその手は大人しく、ユーゴはキスにぼうっとしながらも、問い掛けるように幸野の顔を見た。
「今日は、ベッドに行く前に腹ごしらえをしよう。夕食を一緒にしようと言っただろう?」
甘い声で言われて、そうだった、とユーゴは思い出した。すぐに夢中になる自分が浅ましくて嫌いだ。
「こんなユーゴを今すぐ食べないのは、もったいない気もするけれどね」
幸野はそう微笑んだ。幸野は、まるで心の中が読めるのかと思うほど、するりとユーゴの心が軽くなることを言ってくれる。
「あの、今日は何を作りま……」
どことなく恥かしくなって、ユーゴはするりと幸野の腕の中から抜け出すと、キッチンに向かおうとした。最近、時間があるときにはユーゴが料理をすることが多いのだ。幸野の部屋のキッチンは機能的で綺麗で、ユーゴのお気に入りだったし、幸野も外食ばかりの生活を改められるからと歓迎していた。時には、一緒に作るときもあった。
「幸野さん……これ……」
幸野の腕から抜け出たユーゴの目に飛び込んできたのは、ダイニングテーブルに綺麗に並べられた、料理の数々だった。ポテトサラダに鶏肉と卵の煮物、レンコンの挟み揚げに茄子の水晶煮。なめたけを使った、変わり冷奴もあった。
「まだまだ上手くいかないけれど、まあ、味は平気だと思う。何しろユーゴ直伝だから」
そう言いながら幸野が持ってきたお盆には、真っ白のご飯と、トマトと卵のスープがのっていた。
「幸野さん……」
ことり、と椀を置いた手には、いくつかの絆創膏が貼ってあった。あの、大きくて長い、綺麗な指。
「一度、作りたかったんだ。ユーゴ、言っただろう?一番美味しく作るコツは、食べて欲しい人のことを思いながら作ることだって」
ポテトサラダを作ったあの一番最初の時に、そう言った記憶はあった。ユーゴはいつも、初めてのお客様の時にそう言うのだ。自分にも、言い聞かせるように。
「うっ……」
ユーゴは溢れてきたものを留められずに、その目から零した。ポテトサラダも鶏の煮物も、レンコンの揚げ物も茄子の料理も、冷奴でさえ、全てユーゴが幸野に教えたものだった。
「いつもいつも、ユーゴに作ってもらっていたから、一度は自分で、と思っていたんだ。それに、せっかく教えてもらったのだからね」
泣き出したユーゴを、幸野はそっと抱き締めてくれた。
「いつも楽しそうな君の気持ちが、わかったよ。誰かのためを思って作るのは、すごく嬉しいことなんだ」
そんな風に、ユーゴに料理を作ってくれた人は、今までいない。シギの料理もとても温かかったが、彼はきっと、全ての人にあの温かい料理を作る。自分だけのものには出来ないものだった。
そっと、幸野の手を握る。痛々しいほどにたくさん、絆創膏が貼ってあった。不器用と言ったタチバナは、間違っていないのだ。ユーゴはそれに、そっと唇を寄せた。
「少しは包丁も使えるようになったと思ったけれど、まだまだだ。ユーゴの手は本当に魔法の手のようだよ」
幸野が照れ臭そうにそう言う。
そんなことはない、と思う。幸野の手だって、ユーゴを忽ち幸福にしてしまう、魔法の手だ。
さあ、冷めないうちに食べて欲しいな。
幸野がそう言って、ユーゴはこくりと頷いた。
その日の夕食は、今までで一番、温かくて幸福な、食事だった。よく見れば、ジャガイモもレンコンも結構豪快に切れていたし、茄子も崩れかけていた。でも、これほど美味しいものを、ユーゴは食べたことがなかった。
ともすれば、泣いてしまいそうだった。
美味しい、と何度も言うユーゴに、幸野は「本当に?」と何度も確認していた。本当に、とユーゴが言っても、とても心配そうな顔をしていた。疑う余地など、どこにもないのに。
――ああ、本当ですね。
ユーゴは、今はこの世にいないシギに、心の中でそう語りかけた。自分で言いながら、いつもそれが真実なのか、わからなかった。一番美味しいのは、その人のことを思って作られた食事だと、そう言いながら。なぜなら、そんな食事を、自分は食べたことはなかったからだ。
「本当に美味しい?俺は、やっぱりユーゴが作ってくれたものの方が美味しい」
もちろん、ユーゴと張り合おうって方が間違っている気がするけれどね。
幸野はそんなことを言っていたけれど。
当たり前だ、と思う。ユーゴだって、幸野に食事を作るときは、幸野のことをずっと考えて、美味しいと言って欲しくて、作っているのだから。
――食事は、幸福なものでなければ、ならないんだよ。
シギは、そう言っていた。その通りだと、ユーゴは思った。
それは、とても温かく幸福で、かけがえのないものなのだ。
トマトと卵のスープを飲んで、ユーゴがふいに顔を上げると、幸野が微笑んだ。ユーゴもそれに微笑み返して、美味しい、と再び呟いた。
了
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