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ユーフォリア――euphoria―― 




12

 緩やかな関係を、七緒はどこかでほっとしながら望んでいた。
 緩やか過ぎる関係を、哲史はいつかきっと壊れるものとして、絶望に近い思いで見ていた。壊すとしたら、きっと自分だろうと言うこともわかっていた。
「伏見っ」
 聞きなれた声に哲史がはっとして顔を上げると、少しばかり髪を乱した七緒がいた。目の前の伏見が「やっと来たわね」と言いながら立ち上がる。
「どう言うことだよ」
 すぐ隣に七緒がいると言うのに、哲史は見ることが出来なかった。伏見の、小さいため息が聞こえる。
「そんなに血相変えなくても。哲史くんは被害者よ。顔を覚えられていたんでしょ、売人に捕まっちゃったのよ。それでちょっと揉めて、ね」
 そっと、伏見の手が肩に置かれて、哲史は唇を噛み締めた。
 自分がどれほど馬鹿なことをしていたのか、今日ほど思い知った日はなかった。さすがに夜は避けていたが、今日はどうしても読みたい本があって、大きな書店のあるあの街に行ったのだ。休日の今日なら、明るい昼間に行ける。でも、目当ての書店に行く前に、以前薬を買っていた売人に見つかった。お金がないときにはときどき抱かれてもいたから、余計始末の悪い相手だった。
 もうきっぱりやめた、と言って、通じる相手じゃない。それは、薬をやっているときからわかっていた。だから、自分を落ち着けて、やめたと言って逃げた。捕まったら最後だと思ったのだ。それが、相手を怒らせたのか、追いかけられて、路地裏に連れ込まれた。必死で抵抗しているうちに、巡回中の警察官に助けられたのは、運が良かったとしか言いようがない。
 これが、自分が今までしてきたことへの報いなのだ、とそのとき思い知った。
 そして、未成年である自分は、その責任を自分で取ることも許されない。
 親に連絡を、と言われて、どうしても自分ひとりで帰るわけにはいかないか、と言ったら、伏見が眉を潜めたのがわかった。あのひどいときから世話になっているのだ。家庭の事情など話さなくても知っている。でも、壊れた家族はそうそう簡単には直らないのだ。こんな爆弾を、落としたくはなかった。
 いくら被害者であっても、売人と接触したことは事実なのだ。買う気が、全くなかったとしても。
「……俺が身元を引き受けよう」
 少し考えてから、七緒がそう言ったのが聞こえて、哲史はようやく顔を上げた。それから、首を横に振る。
「哲史?」
「未成年で、子供だってわかっています。でも、僕が責任持つことはどうしても出来ないんですか」
 誰かの手を煩わすことでしか、報いを受けられないなんて。
「さっきから、ずっとこれ。ご両親のことは聞いても話してくれないし、ちょっとお茶でも飲んできなさいよ、あなたたち」
 伏見がそう言って、七緒の肩を叩いた。七緒に連絡を入れたのは、伏見ではない、来生だ。伏見は迷っていたのだが、これは来生が正解だったかもしれないと思う。
 簡単に、めでたしめでたし、と終わることではないことは伏見にもわかっていた。でも、ここに来て哲史が全てを引き受けるように思いつめているのは、決して良いことではない。そうならないように、七緒がいると思っていたのだが……。
 やっぱり世の中上手くいかない、と伏見はしみじみと思った。


 署の裏手の喫茶店の窓際の席は、冬の暖かい日差しに溢れていた。何かひどく場違いなところにいるようで、哲史は居心地が悪かった。その髪が、日に当たってきらきらと光る。
 何飲む?と聞かれて、コーヒーと答えると、七緒がウエイトレスにコーヒーを二つ頼むのが聞こえた。哲史はその間もずっと、外を見ていて七緒の方を見ようとはしなかった。ライターの火を点す音が聞こえて、七緒が煙草を吸うのがわかる。
「ごめんなさい。仕事中だったんでしょう?」
 コーヒーが来て、ウエイトレスが去ってから、哲史はようやく七緒の方を向いて頭を下げた。ただし、視線は合わされない。
 七緒はゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら、その他人行儀な哲史を眺めた。あの突然家に泊まっていった日から、もう一ヶ月近く経っていた。忙しい七緒が時間が取れないのは仕方がないが、電話も掛かってこないことが、気にはなっていた。だからと言って自分から電話をかけるのは躊躇われて、七緒も結局連絡していなかった。少しまた、線が細くなっているかもしれない。日に当たって、少しは顔色も良く見えるが、伏目がちな目のまつげの影が、どこか疲れたように揺れた。
「仕事っていっても、ちょうど歩き回って疲れてた頃だったからな。俺としては助かった」
 笑った七緒の顔をちらりとみて、哲史はまたすぐに視線を逸らした。
 逃げられないだろうか、と哲史は考えた。ここからすぐに、逃げてしまいたい。そうじゃなかったら、七緒にまた甘えてしまうだろう。そうして、また傷を抉るのだ。一ヶ月、毎日のように携帯を眺めていた。掛かっては来ない電話を待ちつづけて、馬鹿なことをしている、と自嘲した。求めているのは自分であって、七緒が自分を求めているわけではないのだ。
「哲史、ちゃんと食べてるか?」
「食べてるよ」
 なんだか、いつもそんな心配ばかりさせている、と哲史は思った。
「哲史」
 呼ばれて、それでも哲史は顔を上げなかった。七緒が、じっと見ているのがわかる。居たたまれなくて、哲史は誤魔化すようにコーヒーを飲んだ。
 一ヶ月考えて、甘えることはやめようと思った。それなのに、こうして姿を見たら、泣いて縋りそうだった。七緒はきっと、優しく受け止めてくれるだろう。まるで、弟のように。でも、自分が望んでいるのは、そんな優しさじゃない。だから、甘えるのをやめるのだ。そして、一人できちんと立って、七緒と一緒に歩いていけたら……。でも、そんなことが出来るのか、哲史にはわからなかった。今も立つのが精一杯で、すぐにでも倒れそうなのに。
 それでも、薬をやっていたときの二の舞は嫌だった。頼り切って、迷惑をかけ続けたあの日々と同じ事を、繰り返したくなかった。
 小さなため息の後に、七緒が立ち上がった。それから、目の前に手が差し伸べられて、哲史は思わず顔を上げた。
「おいで」
 にっこりと、七緒が笑う。それに哲史は泣きそうになって、慌てて俯いた。
 きゅっと、唇を噛んだのを七緒は見た。それから、哲史の頭がふるふると横に振られた。
「……ない」
「哲史?」
「行か……ない。迷惑かけて、ごめんなさい」
「哲史、ゆっくり家で話そう。落ち着くまで待つから」
 辛抱強く、七緒がそう言う。でも、哲史はぐっと目を閉じて、もう一度頭を横に振った。
 もう、甘えない。
 今この手を取ったら、この場で泣き出してしまうことなんて分りきっていた。
 哲史はがたんっと音を立てて立ち上がると、そのまま七緒のことは見ずに、出口へと駆け出していた。
 残された七緒は、ただ呆然と、その後姿を見詰めていた。


「振られたわね」
 署に戻ると、伏見のにやりと笑った顔に出迎えられた七緒は、片眉を上げて不機嫌な顔をして見せた。
「おまえだって振られた方だろ?大体俺は管轄外」
 そう言いながら煙草を取り出す七緒を、伏見は睨んだ。
「まさかそんなこと、あの子に言ったんじゃないでしょうね」
 あんなに慌ててきた人が何を言うの、と伏見は思う。七緒が哲史の気持ちに戸惑って、自分の気持ちからは目を逸らしているのはわかる。たぶん、七緒がもう少し素直なら、もっと上手くことは運ぶのだ。
「言わないよ」
 言うわけがないだろ、という七緒に、伏見はため息をついた。それから、応接セットのほうに来るように促した。
「最初に言っとくけど、あの子は本気だし、とってもまっすぐで誤魔化しなんてきかないわよ」
 ソファーにどさりと座りながら、伏見が言う。人の課に来てこの態度は、さすがは伏見だ、と今更ながら七緒は感心した。
「やっぱりわかってたのか。だったら焚きつけるな」
「焚きつけてなんかないわよ」
 焚きつけるならあんたの方よ、と言いたいのを伏見はぐっと堪えた。これだけは、七緒に自分で自覚してもらわないことには始まらないのだ。
「よく言うよ。携帯の番号は渡すわ、鍵は渡すわ」
「鍵は私じゃないでしょ?」
「どうせおまえが言い出したんだろ」
「違うわよ」
 失礼ね、とでも言うように吐き出した伏見に、七緒が眉根を寄せた。まさか朝井が言い出したとでも言うのだろうか。
「あのとき、哲史くん様子がおかしかったでしょ?どうしても七緒に話したいことがあるって言ってて、あまりに思いつめた感じだったし、署で待ったら?って言ったら、何時ごろ家に帰るか聞いてきたから、朝井さんが鍵を出してきたのよ。放っておいたら、外でずっと待ってるんじゃないかと私も思った」
 七緒は伏見の言葉に、あの日の哲史を思い出していた。確かに、少しだけおかしかったが、とくにこれといった話はしなかった。それを言うと、伏見が呆れたように七緒を見た。
「責めんなよ」
 そうは言ってみたものの、七緒は自分で自分を責めていた。あのとき、もう少し突っ込んで聞くべきだったのだろう。
「じゃあ、知らないのね……さっきも、ちゃんと話してないんでしょ」
「知らないって、何を?」
「どうやって振られてきたの?」
 伏見は七緒の質問には答えずに、セリフに似合わない真剣な口調できいた。
「家に行って落ち着いて話をしようって言ったら、行かないって言われた。それでそのまま、逃げられた」
 こういうときの伏見は言うまで先を教えてくれない。だから七緒も、簡単に先刻の喫茶店のことを話した。
 伏見はそれを聞きながら、少し何か考えていた。


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