半夏生
11
「ここにした根拠は?半年前にクレームを出してるだろう?それの対応策はどうした?」
意気揚揚と見積もりを持って来た石村の顔が徐々に曇っていく。答える言葉はまだしどろもどろで、クレーム対応策についてははっきりと「すみません。聞いていません。すぐに調べます」といった。鴇田はその眼前に、見積書一式を突き返した。
抜けた市河からの引継ぎだから、半年前のクレームを知らなかったのだろう。だが、引継ぎだからこそ、きちんと遡って欲しかった。
フロアの人間は既に少なくなってきている。鴇田も石村の見積もりを承認すれば、今日の仕事から解放される。鴇田は一時間後、緊張した顔で再び書類を持ってきた石村に、もう一度同じことを聞き、前回よりはまともな答えに納得し、承認印を押した。あからさまにほっとした石村に、営業は向いていないよなあ、と思う。
「石村、飲みにでも行くか?」
市河の抜けた穴を実質的に埋めたのは石村だ。労いの意味もこめて誘うと、石村の顔がぱあっと明るくなった。
「ほんとですか?うわあ。課長と飲みなんて久しぶりだ」
その声に、少し離れたところから「私も混ぜてくださいよう」と声が上がった。田上だ。
「よし、早く終わりにしろ」
「あと一枚です」田上は手を動かしたまま叫んだ。石村も鴇田も帰りの支度を始めた。
田上はそれから十分ほどで入力を終えた。その田上の希望で、近くの無国籍料理屋に行くことになった。
「好きなもの頼めよ。今日は出すから」
田上も石村も、変な遠慮はしない。それが密かに鴇田の気に入っているところでもあった。夏目ではこうはいかない。彼なりのプライドがあるのか、割り勘にしないと途端に拗ねるのだ。
拗ねる。きっと誰も想像できないだろうが、夏目は確かに拗ねるのだ。鴇田にはそれがおかしい。
「あー。課長、何思い出し笑いしてんですか」
やらしいなあ、と石村がにやにやと笑う。ビールを一杯飲んだだけだが、もう顔が赤くなっていた。
「いや、おまえたちの遠慮のなさが好ましいと思ってな」
「またあ。遠慮なんてしてるじゃないですか!そんなこと言ったら、もっと頼んじゃいますよ?」
「そうですよ。それに、課長と飲めるなんて滅多にないし」
田上が言いながら、店員を手で呼び止める。それから、二人分のビールと自分のライチサワーを頼んだ。
「そうっすよね。夏目とは良く飲みに行ってるみたいなのに、どうして自分の部下は誘ってくれないんすか」
「え?そうなの?夏目君と良く飲みに行ってるの?いいなあ」
田上が隣の石村に掴みかからんばかりになり、石村は複雑な顔をした。どれほどかはわからないが、石村は田上に好意を寄せている。
「俺じゃないっすよ。課長が。俺もたまに行くけど」
ふーん、と鴇田は声に出さずに思った。石村が夏目に設計について教わっていることは知っていたが、飲みにも行っていたとは知らなかった。
「直属の部下じゃないからだよ。俺の部下にはアメとムチは使い分ける」
「夏目君にはアメだけ?」
「別に。夏目とは割り勘だ」
そうなんですか?と石村が意外だと言う声を上げた。家族がいなくて金の使い道がほとんどない鴇田は、部下と食べたりするときは、滅多に割り勘にしない。例え部下が出すときでも、鴇田は多めに出す。
鴇田は海老の唐揚げを噛みながら、頷いた。
「それに、あいつは寺井にとことん絞られているだろ」
「そうみたいっすねー。夏目は結構平気な顔で言うけど、聞いてると厳しいなあって思いますもん、寺井課長」
石村がうんうん、と頷いてビールを煽った。
「でも、どうして課長と夏目君?」
「なんか、課長、こちらに来る前って四国支社だったんすよね?」
鴇田がどう答えようかと思う前に、石村が聞いてきた。鴇田は頷いた。
「夏目って、四国出身なんですよ。それで、懐かしいとかって話になったって聞いたんすけど」
夏目がそう説明しているなら、鴇田も合わせればいい。もとより、完全な嘘でもない。鴇田は再び頷いた。
「飲んでみたら、結構話が合ったんだよ。お互い一人で、自炊もしない人間だから、ときどき夕飯を一緒に食ってる」
田上はふーん、と言ってサワーをこくりと飲んだ。二人とも自炊をしないのか、と呟かれて、明日には女子社員全員にそれが伝わっているのだろう、と鴇田は苦笑した。夏目の困ったような、嫌そうな顔が浮かぶ。一切の期待をさせないために、夏目は女子社員の誘いには乗らない、と言っていた。同期の飲み会だとか、大勢のときはときどき顔を出すらしいが、個人の誘いは絶対断るのだ。それは今までの学習の成果だと、夏目は言っていた。
自分が、その女の子達よりどれほど優れているのかと、鴇田は思う。比べるのも意味がないほど、夏目が焦がれる対象に自分がなるとは思えなかった。だが、それを言うと夏目があの泣きそうな子供の顔をする。鴇田はそれにとても弱くて、いつも何も言えなくなる。
「あのっ、田上さんは、夏目がいいんですか?」
三杯目のビールを飲みながら、石村がいった。大分酔っているらしい。石村は酒に弱かった。反対に、田上は強い。
「いいって?かっこいいと思うわよ。ほかの女子社員と同じように」
「そうっすよねー。夏目ってかっこいいっすよねー。どうせねー」石村はため息をついてテーブルに顔をぺたりとつけた。
鴇田はのんびりとビールを飲みながら、二人の様子を見ていた。田上の言葉を正確に捉えていない石村に、幸せな未来は遠いようだ。
それから石村は自棄になったように飲み、三人が店を出るときは、真っ直ぐ歩けないほどになっていた。田上は呆れた顔をして、鴇田に石村を押し付けて帰っていった。鴇田は仕方なく石村とタクシーに乗り、部屋まで送って、放り込んだ。週明けに、青い顔をして平謝りするだろう石村が想像できる。
方角的には同じだからと、鴇田はそのままタクシーで自分の部屋まで帰った。部屋に入ったところで、思い出して携帯を見た。
留守番電話のメッセージが一件。鞄を放り投げ、上着を脱ぎながら再生する。
――夏目です。お疲れさまでした。
それだけだ。メールでもいい内容を、夏目は必ずメッセージとして残す。メールが嫌いなのだ。
鴇田は着替えてコーヒーを淹れてから、夏目に電話をした。夏目はいつも、要求しない。鴇田から電話をして、誘わない限り、泊まりに来たいともいわない。留守番電話にメッセージが残っているということだけが、夏目の小さな主張だった。
「お疲れさまです」
すぐ近くに置いてあったのか、夏目は二回のコールで携帯に出た。
「ああ。とりあえず今月もなんとかなりそうだよ。もう遅いが、来るか?」
時計は十時を回っていた。だが、夏目はいつものように、はい、と答えた。それから三十分ほどで、夏目は鴇田の部屋に来た。その間に、鴇田はシャワーを浴びた。
インターフォンが鳴って、ドアを開けると、夏目が「こんばんは」と礼儀よく頭を下げた。鴇田は「よう」と返し、リビングに向かう。夏目はドアの鍵を閉め、靴を脱いで「お邪魔します」と小さくいって鴇田の後を追う。
「ビール飲むか?」
「一杯だけ貰えませんか」
鴇田はふっと笑って、グラスを出した。これは夏目が鴇田に「付き合って」飲むということだ。そして、鴇田の過ぎる酒量を減らす手伝いもしている。
二人はそれからテレビを見たり、その間に仕事の話をしたりする。何も話さない事も多い。だが、鴇田はそれを息苦しくも思わなかったし、夏目も気まずい思いをしているわけではなさそうだった。隣でごくりとビールを飲む夏目は、ひどくリラックスしている風に見える。最初の頃に、誤解される、プレッシャーだ、と言った言葉は決して完全な嘘ではなく、確かに多少のストレスはあるようだった。
夏目が飲み終わったグラスを洗いに立ち上がる。それを合図のようにして、鴇田はテレビを消して寝室に向かった。グラスを洗った夏目が、後から入ってきてドアを閉める。
今夜は月明かりが部屋の中を照らしていて、鴇田は電気を付けなかった。カーテンを閉めるのは嫌いだ。
振り返って、ベッドの上に坐った夏目の眼鏡を外す。普段はコンタクトだが、眼鏡にすると、幼かった頃の彼を思い出せる気がした。鴇田がそれを言ったとき、夏目は「覚えていたんですか」と驚いていた。
ナイトテーブルに眼鏡を置こうと手を伸ばしている最中に、夏目は鴇田に唇を重ねる。そのままその手を捕まれ、鴇田はベッドに転がった。夏目は一瞬、鴇田を真っ直ぐに見て、すぐにまた噛み付くようにキスをした。
無言のままベッドの上で縺れ合う。荒い息が薄明かりの中に溶け込んで、鴇田はゆっくりと目を開いた。
夏目の精悍な顔が、迫る快楽に歪んでいる。自分の中で弾けそうになっている夏目を感じて、鴇田は夏目から目を離せずにいた。耐える様子が、ひどく艶かしい。
ぐっと奥を突かれて、鴇田は夏目のいくところを見たいという欲求を諦めるしかなかった。自分も切羽詰ってきている。夏目の鴇田を扱く手が速まった。目を閉じてぐっと夏目の片腕を掴むと、引き上げられるような快楽が襲ってきて、夏目が中で弾けたのがわかった。それにうめいて、鴇田も身体を震わせて欲望を吐き出した。
二人の荒い息だけが闇に響く。夏目が額を鴇田の鎖骨に押し付けて、息を整えようと何度も呼吸をした。鴇田はその髪を、くしゃりと撫でた。
息が整ったところで、夏目がゆっくりと顔を上げた。黒い瞳が、まだ欲望に濡れたようになっていた。
「明日、仕事は……」
ない、と答えて、鴇田は夏目の顔を引き寄せた。自分が夏目の年だった頃、もっと自分本位なセックスをしていた。夢中だった、とも言える。
熱い舌を絡ませながら、鴇田は目を閉じた。自分の方が、いつかの夏目のように、泣きそうな目をしているような気がした。
夏目は何も要求しない。
もっと、求めたらいい。望んだらいい、と鴇田は思う。
鴇田はいくらでも、それに応えるつもりだ。夏目の、望むまま。例えそれが、罪悪感を紛らわすための、自己満足だとしても。
夏目が求める限り、望む限り、鴇田はどんなものも与え、どんなことにも応える。
夏目がいつか、鴇田をいらなくなるまで。
――ずっと。
追い詰められて、快楽の波に呑み込まれながら、鴇田は夏目の手首をぐっと握った。天井が揺れていた。あやふやなその視界を振り切るように、鴇田は、目を閉じた。
(了)