青空でさえ知っている
10
ついていると言えばついている。ついてないと言えば、ついてない。
安里は期末試験の最終日に、図書当番に当たっていた。後は夏休みになるのを待つばかり。終業式を含めてあと二日は学校があるが、半日で終わる試験の最終日には、下山して「打上げ」をする生徒も多い。安里は下山してカラオケに行きたいとは思わないが、封印していた読書を心ゆくまで楽しみたい、とは思っている。試験勉強をしたご褒美に、ケーキでも買って、ゆっくりと本の世界に浸るのだ。だが、当番が終わるまでケーキはお預けだし、ゆっくり読書、というわけにもいかない。
それでも安里は、カウンターの中の椅子に坐って、本を開いた。夏休み前の図書館は、閑散としている。前日までは試験勉強をしに来た生徒で溢れていたから、その落差は激しい。夏休み中に本を読む生徒もいるが、里帰りする生徒は荷物を増やせないし、残っている図書委員で図書館を開ける日もあるから、試験が終わったその日に、本を借りに来ようという生徒も少ない。
外は生憎、雨模様だった。ひっそりと降る雨が音を吸収し、いつにも増して、図書館は静かだった。おかげで返却業務も一段落した後、つい、安里は本に夢中になってしまった。
カウンターに人影があることに気付いたのは、ちょうど第一章を読み終えたところで、安里は慌てて本を閉じ、立ち上がった。ごめんなさい、と謝ろうとして、目を見開く。
「日尾……」
「返却したいんだけど」
カウンターに置かれた本に、安里は再び驚いた。それから、どことなく気恥ずかしくなって、俯き加減で返却処理を始める。
返却ってことは、日尾はこの本を読んだんだよな。なんか似合わないけど……。
それこそ「雑食」と図書委員たちに言われる安里が、似合う似合わないと言うのはおかしいが、恋愛小説、それも「片思い」を題材にしたオムニバスとなると、日尾が読んでいる姿を想像するのは難しかった。POPで薦めたのは自分であるにも関わらず。
学生証を返すと、日尾の手がそれを取ろうとしたところで止まった。
「俺は、こんな物分りのいい振りをした大人にはなりたくない。どうせなら、真っ直ぐに恋愛をしたい。例えば、新治と初江みたいな」
呟きのような声だった。だが、思わず顔を上げた先には、しっかりと自分を見つめる目があって、安里は息を詰めてその目を見ていた。
――新治と初江……三島の、「潮騒」?
安里がPOPで紹介した、もう一つの恋愛ものだ。
言われた言葉を、もう一度、頭の中で咀嚼する。日尾の言い方は、まるであのPOPを書いた人物に向かって喋っているようではないか――そう気付いたときには、日尾は図書館の外へ出たところだった。思わずカウンターから出て、ドアを見る。ガラス戸の向こうに、ぼやけた影が映っていた。
振り返ると、守谷がカウンターに入って、早く行けとばかりに手を振っていた。安里はごめんと手を合わせると、慌てて重いドアを両手で押し開いた。
「日尾っ」
渡り廊下を走り、購買横を抜け、安里が日尾を見つけたとき、彼は階段を登っているところだった。片足を一段高いところに掛けて、ゆっくりと振り向く。安里は既視感に、瞬きを繰り返した。だが今日は、強烈な西日はない。
「あの、さっきの――」
そこまで言って、何をどう訊くべきかわからなくなった安里は、口を閉じてしまった。日尾は何も言わずに、じっとその安里を見つめる。
突き刺すような視線が、怖かった。でも、その真っ直ぐな目に、憧れた。安里は勇気を振り絞って、その目を見つめ返した。
「日尾は、俺がどのPOPを書いたかわかってるんだね。宮森先生が、俺が推薦した本を必ず借りていく生徒がいるって言ってたけど、それが、日尾なんだね」
日尾は何も言わなかった。頷くことも、しなかった。
「どうして? どうしてわかるんだよ。筆跡も書き方も、違うのに……」
校舎の中は、静かだった。雨に濡れたしっとりとした空気が、ゆっくりと漂っていた。
日尾は「どうしてだろうな」と答えにならない答えを呟いた。沈黙が落ちる。
「中ノ瀬、図書当番は?」
ふいに日尾の声が響いた。安里は必要以上に身体を震わせ、それからそれを恥じるように、目を伏せた。
「守谷がいるから」
日尾が体の向きを変え、上げていた片足を降ろして、安里と向き合った。水色のビニールのサンダルが目に入る。まだ一学期が終わるところなのに、日尾のそれはだいぶ汚れていた。ふいに、イベントの度にあちこち走り回っていた日尾を思い出す。
「中ノ瀬の片思いの相手は、守谷?」
「え?」
あまりに思いがけないことを言われ、安里は困惑した顔を上げた。日尾は真剣で、どことなく切ない目をしていた。
「さっきの答え、『好きだから』だと思う。だからわかるんだ。――お互い、相手に大切な人がいるっていうのは、辛いよな」
日尾は言うだけ言うと、くるりと身体の向きを変え、階段を駆け上がった。
「え? ちょっと待って」
安里も慌てて追いかける。何かとんでもない誤解をされている。安里は必死になって、日尾を引きとめようと手を伸ばした。
「俺が片思いしてるのは、日尾だよ!」
叫びながら、腕を掴もうとしたのだが、掴んだのはわき腹辺りのシャツだった。幸い踊り場で、かなり強く引っ張ったが、日尾がバランスを崩して落ちてくると言う事態は免れた。
日尾が驚いた顔で、ゆっくりと振り向いた。安里はぎゅっと、シャツを掴む。
「中ノ瀬……?」
「片思いの相手は、守谷じゃない。日尾だよ」
もう一つの手も、シャツを掴む。その伸ばした腕に顔を埋めて、安里は目を閉じて、荒い息を吐いた。
ふわりと、温かい感触が頭を覆う。ああ、あの手だ。そう思ったら、安里の口から安堵の溜息が漏れた。
「中ノ瀬、それは片思いじゃない。両思いって言うんだ」
頭を撫でる手が気持ちがいい。その手に促されて顔を上げると、照れたような、困ったような顔の日尾がいた。
「とりあえず、手を離してくれないか」
抱き締めたいのに、できない。そう言われて、安里は顔を真っ赤にした。するりと、手からシャツが抜ける。だが、その手はすぐに日尾に捉えられ、引っ張られた。
「日……尾……」
ぱふりとその胸に抱きこまれて、安里は訳がわからず、目を瞬かせた。さっきの言葉が、ぐるぐると頭の中を巡る。両思い。日尾は、そう言わなかったか?
かあっと顔に血が昇ったのがわかる。耳が熱い。軽いパニックになりかけたところで、人の話し声が耳に入り、安里は思い切り、勢い良く日尾から離れた。「あ……」と残念そうな日尾の声が階段に響いた。
「理ー! おまえ遅いよ。早くしないとバス出るぞ」
「あれ? 安里もいる。やっぱり一緒に行けるの?」
騒がしく階段を下りてきたのは、二年J組のイベント実行委員メンバーだった。
安里は赤いだろう耳を反射的に両手で覆うと、質問をしてきた路に首を振った。打上げに行こう、と誘われてはいたのだが、図書当番があると断っていたのだ。
「ざんねーん。って、なんで耳隠してんの。てか、顔赤くない?」
近寄られて、思わず後ずさる。二葉や綿内は、安里と日尾を交互に見ていた。
「理、おまえ何やらかしたんだよ」
二葉がにやにや笑っている。日尾は肩を竦めて、「まだ何も」と言った。
「まだ! まだ、だって。どういうことだよそれは」
「うるせーよ。俺も打上げはパスな。ほら、早く行かないとバス乗り遅れるぞ」
日尾は三人を追い払うように、手をひらひらとさせた。二葉は笑みを崩さず、後でゆっくり話を聞かせろよー、と去っていった。綿内はなぜか安里の肩を励ますようにぽんっと叩き、「えー、二人とも来ないなんて許せん!」と喚く路を引っ張っていった。
つられるように三人の背中を見送った後、安里が顔を戻すと、日尾と目が合った。
「あ、俺、当番あるからっ」
唐突に、逃げなくては、と思った安里が階段を下りかける。だが、今度は安里が、日尾に捕まえられた。二の腕を掴む掌は、とても熱かった。
「当番、何時まで?」
「え、あ、三時……」
「じゃあ、三時に迎えに行く」
待ってて、と言われて、安里は思わず、頷いた。
図書館に戻った安里を出迎えたのは、守谷のにやにやとした顔だった。安里は照れ臭くて、不機嫌な顔になる。それでも、小さく「ありがと」と言うと、守谷はにっこりと笑った。
「戻ってこないかと思った」
そんなことを言う。安里はじろりと、隣に立つその横顔を見た。あいにく棚に返却する本もないらしい。仕方なく、椅子に坐って本の続きを読むことにした。もちろん、先刻のことばかりが頭を巡り、内容がなかなか入ってこなかったのだが。
守谷の「にやにや笑い」が最高潮になったのは、図書館を閉めようと準備を始めた頃だった。閉館前には図書委員の二人以外、誰もいなくなっていて、守谷は早々に二階の戸締りを確認しに行った。図書館には、守谷の密やかなサンダルの音と、安里の手元で動くマウスの音がしていただけだった。先刻の告白劇が何か嘘だったのではないかと思えるほど、静かな午後だった。
しばらくして、ドアを開ける音が響いた。三時にはまだ五分早い。
「本日の貸し出し業務は終了しました。ちなみに、うちの図書委員は貸し出し不可だから」
入ってきた人物を見て、守谷が言う。安里が顔をあげると、守谷は階段を下りてくるところだった。それから首を横に巡らせると、背の高い影が見えた。
「中ノ瀬は、イベント実行委員でもあるんだけど?」
日尾は意に介してないかのように、カウンターの安里を一直線に目指して歩きながら、にっこりと笑った。
「そもそも、『貸し出し』なんてしてもらおうと思ってない。貸してもらったら、返さないとなんないだろ」
中ノ瀬を返すつもりはないよ。日尾はカウンターに両腕をついて、笑っている。一階の戸締りを確認していた守谷は、ぴしゃりと窓を閉めて、呆れたような顔をした。
「中ノ瀬が俺のものだったことなんてないけどな。だいたい、おまえの所為で、図書委員会は一つ企画がつぶれてんだよ」
「俺の所為?」
「そう。月イチのPOP書くだろ。あれ、誰の推薦か当てるクイズをしようかって話があったんだよ。でも、おまえが中ノ瀬のPOPは絶対はずさないから、どうしようかって話しになって、そのまま流れた」
そんな話は、安里も初耳だった。委員会で出た話ではないのかもしれない。それよりも――。
「みんな知ってたってこと?」
「何が?」
「俺のPOPを当ててるのが、日尾だってこと」
守谷は笑って「知ってたよ」と事も無げに言った。
「知らぬは本人ばかりなり、ってな。ちょっと気にすれば、わかったことだよ。一時期、俺たち二年の間で話題になったし」
教えてくれれば良かったのに、との安里の呟きには、肩を竦めた。
「教えちゃったらつまらないだろ。本人が気付かないとさ。まあ、日尾は中ノ瀬が当番のときには避けてたみたいだから、本人が気付くのは難しかったかもしれないけどな」
目の前の日尾は、目を逸らしていた。そのまま小さな溜息をついて、「やっぱり恥かしいだろ」と言う。
「誰が書いているのかわからなかったら、恥かしくなんかないけどな」
言いながら、戸締りを終えた守谷が、カウンターに近づいてくる。安里もいつもより時間を掛けて、パソコンの終業処理を終わらせた。日尾が近くで見ているから、緊張して、集中できなかったのだ。
「POP当て、なんだったら協力するよ。実行委員数人を集めてもいい。自分が絡んだら、当てる方には参加できないし」
少し考えていた日尾が、突然そんなことを言い出した。守谷は片眉を上げて、いい案だな、と頷く。
「もちろん、どれが中ノ瀬のPOPなのか、言うことはしない。ヒントもやらない。見分け方を教えることもしない」
「したくない、の間違いだろ。でも興味あるな。なんでわかるの?」
安里は思い切り立ち上がった。キャスター付きの椅子が、ごろごろと転がり、後ろの壁にぶつかった。日尾はそれを面白そうに眺めて――くくっと笑った。
「色々あるけど、しいて言えば――」
安里の耳は、もう熱い。その口を塞ぐべきか……悩んだのが間違いだった。すぐに実行すべきだったのだ。
「好きだから、だろ。単純なことだ」
にっこりと微笑む日尾を直視できず、安里は俯いた。もちろん、守谷の顔を見るのも耐え難い。だが、やれやれと、盛大な溜息が洩れたのはわかった。
「愛は筆跡を越える」
なんてね、と守谷の笑い声が響く。安里が泣きたいような気分になって顔を上げると、日尾の楽しそうな顔があった。カウンター越しに手が伸びてきて、ほら行こう、と肩を押される。
嬉しいのか、恥かしいのか、居たたまれないのか、わからない気分の中、それでもその手にほっとしている自分に、安里は苦笑するしかなかった。