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風の匂い

10
 飲みに行こう、と誘われて、さすがに親父の会社の人間ではまずいだろうと断った。それならご飯を食べよう、という話になって、俺は他のアルバイトの同僚達と一緒に、夕食を食べて帰ることになった。
 俺たちがしているのは、いわゆる読者からのはがきの整理だった。アンケート懸賞だったり、意見のはがきだったり、読者欄のはがきだったり。自分がやりたいこととは遠い気がしたが、やっているうちに、読者の声が直接聞こえる場所はここだけなのだとわかった。読者が居るのだと、それを忘れてはいけない。
 一ヶ月のバイトだということもあっただろう。でも、親父はやはり何かしら、俺に感じ取って欲しいものがあったのだろうと思った。
「へえ。じゃあ不破くん九重生なんだ」
 俺以外のアルバイターはみんな大学生だった。小遣い稼ぎのバイトをしている人もいれば、俺のように新聞社に興味がある人間もいるが、概して気のいい人たちばかりだった。
 社から駅に向かう途中のお好み焼き屋で、俺たちはテーブルを囲んでいた。ビールを勧められたが、俺は大人しくウーロン茶を頼んだ。親父はあれで、結構怖いのだ。家ではあまりうるさくないが、他人に迷惑を掛けることだけはしてはならない。
「全寮制だったよな、あそこ。それも山奥でさ。つまらなくないのか?」
 アルバイトの中でも一番の古株の三瀬さんがお好み焼きをひっくり返す。世話焼きなのだ。
「結構変な奴もいるんで。楽しいですよ。三瀬さん、詳しいですね」
「別に詳しかねーよ。でも、結構スポーツが盛んだろ?」
「あ、バスケ部全国優勝しました!」
 俺がまるで自分のことのように自慢げに胸を逸らすと、皆が笑った。
「ああ、この間のインハイね。テレビで見た。あのキャプテン、かっこいいよね」
 希美子さんがにっこりと笑う。さばさばした美人だ。
「ああ、希美子さん目が高い」
 俺がそう言うと、ふふっと希美子さんが声を出して笑った。何か含む感じに、俺は首を傾げた。
「そんなにカッコイイの、そいつ?鉄壁のガード、高嶺の花って言われてる希美子さんがよろめくほど?」
「誰がよろめいたって言った?まあ、でもいい男よ」
 あれ、ともう一度思った。希美子さんの口調は、海田を知っている感じだった。周りは気付いていないが、希美子さんは楽しそうに俺を見ていた。
「鉄壁に高嶺の花ですか……厳しい道のりですね、三瀬さん」
「おうよ。俺、人生相談に一回投書してみようかと思ったからな」
「憧れの彼女を落とすにはどうしたらいいかって?そんなの没だろー」
 みんなが笑う。見てみれば、みんな食べるのも飲むのも早かった。すっかり出来上がり始めた輩までいる。
 俺は飲めないために食い物に走り、思う存分食べ尽くした。


 希美子さんが同じ方向だから送れといったとき、三瀬さんに恨みがましく見られたが、さっきの海田のことが気になっていた俺は、素直に頷いた。希美子さんの住むアパートは、会社から二駅。俺の家は、それからまた三十分近く電車に揺られなければならない。
「希美子さん、海田のこと知ってるんですか?」
 希美子さんは女子大生で、仕事のできる人だった。頭の回転も早く、到底俺が駆け引きなどできる相手ではない。だから俺は、素直に聞くことにした。
 家に行く前に、酔い覚ましをしたい、と希美子さんが言って、降りた駅の前のガードレールに寄りかかって、二人で缶コーヒーを飲んだ。なぜか甘いものが飲みたくて、珍しく砂糖もミルクも入ったコーヒーを口に含む。
「広くん?」
 にっこりと笑う。そう来るとは思っていなくて、俺は一瞬言葉に詰まった。
「ふふふ。心配しないで。まあ、あんまり高校生に推奨できる関係ではなかったけどね」
 どう言う意味だろう、と思いながら、俺はコーヒーを飲んだ。一口で甘さに飽きてしまった。
「それって……」
「ご想像にお任せします。と言うか、どうやら不破くん、独自の広くん像があるみたいだから、壊さないでおくわ」
 それだけ言われれば、二人の関係などわかったも同然だ。ただ、希美子さんの言う「俺の独自の海田像」とやらは、それほど聖人君子なわけじゃない。どうにもならない気持ちを持て余して、海田がときどき誰かに身を委ねるように、女を抱いていることは知っていた。
「そうか、希美子さんと……」
 駅前の街灯に照らされた希美子さんの横顔は、少しだけ淋しそうだった。
「好きだった?」
 思わず、聞いていた。海田がどんな男か知っているから余計だったのかも知れない。自分の心に棲みつく人物がいる上で、割り切れない関係を持つような男じゃない。でも、希美子さんはきっとそれより上手だったと、俺は思う。
「恋愛感情か、と聞かれたら違うと言うと思うわ。ただ、気に入ってはいたけどね」
 不器用で馬鹿な恋愛をする人間は大好きなのよ、と笑う。
「未練があって不破くんに気付かせたわけじゃないの。ただね、長年の想い人と上手くいった、って電話くれてから、一度も連絡寄越さないのよ?是非とも紹介してねって言ったのに」
 片足をぶらぶらとさせながら憤慨している希美子さんは、本当に未練などなさそうだった。ただ、楽しんでいるのだ。
「紹介、ですか」
 それはしずらいかも知れない、と俺は内心苦笑した。セックスフレンドだったとしても、肌を合わせたことのある女の人相手に「彼氏」を紹介するのは、俺だって気が引ける。
「そうよ。可愛いんでしょ?」
「え……?」
 俺が知っていると確信しているような声に、希美子さんを凝視してしまった。俺は海田と仲が良いと言ったわけでもない。
「知らない……?ああ、ごめん。同じ学校だからつい」
 珍しく口篭もった希美子さんに、俺は希美子さんは相手が男だと、それも同じ学校の生徒だと知っていると直感した。
「いえ、知ってます。でも、希美子さん、知ってたんだ」
 変な日本語を話しているとわかりながら、ため息を吐いてしまった。
 希美子さんがそんな俺の様子に、ふわりと微笑んだ。
「広くん、最初から言ってたもの。びっくりしたけど、なんだかあんまりにも思い詰めてる感じで。放っておけなくなっちゃったのよ」
 海田は、これに関しては浮き沈みが激しかった。それを表に出さない辺りが俺の尊敬するところだったのだが。
 何度も諦めようとして。
 何度も、諦められないと思い知る。その繰り返しだ、と苦しげに呟いたことがある。
 その気持ちは、簡単に放り投げられる。でも、それよりもっと自然に、湧き出てしまうのだ、と。
 あのとき、俺はどう言って慰めたらいいのか、どんな言葉を投げかけたらいいのか、わからなかった。今でも、わからない。でも、少なくとも、その気持ちはわかった。
 その、辛さが。
「あらあら。不破くんも、広くんと同じような顔してる。そんな相手がいるの?」
 女の人の勘というのは怖い。ふふふ、と笑う希美子さんから、俺は顔を逸らした。
 言われてみれば。
 幼馴染という点は、あいつらと同じなんだな、と思った。
「気持ち悪いとか、ないんですか?」
 純粋な好奇心と、僅かな恐れで聞いた。ここは下界だ。あの、山奥とは違う。
 そうねえ、と希美子さんがパンプスをつま先に引っ掛けて、ぷらぷらと揺らした。
「例えばね、自分の身に同じことが降りかかったら、正直否定するかもしれない。自分が、そう言う目で誰かを見るようになっても、見られるようになっても、どっちでもね。でも、広くんのは、その悲壮さと深さに、先に胸を衝かれちゃったのよ。そんなに思い詰めてる感じなのに、自分の思いにはもう開き直ってる風だったし」
 その気持ちは、どうにもならないのだと。
 確かに海田は自分の思いの頑固さに、苦笑さえしているようだった。
 それを、俺は強いと思ったのだったか。
「どうにもならないことって、あるわよねえ」
 独り言のように言って、希美子さんはどこか遠くを見ていた。海田が彼女に拠り所を求めたように、彼女もどこかにそんな場所が欲しかったのかもしれない。
 今度、紹介してって言っておいてね?と希美子さんは言って寄りかかっていたガードレールからとんっと身体を離した。ふらりと揺れて、思わず腕を掴む。
「……酔ってますね」
「ちょっとね」
 にっこりと首を傾げながら笑う。酔っ払いと素面の境目が見えにくい人というのは厄介だ。
 帰る、と歩き出した希美子さんに引っ張られながら、同じように歩き出した俺は、視界に入ったものに立ち止まった。
「不破くん?」
 腕を掴んでいたことを忘れていた。なんだか、それどころじゃなかった。
「あれ?春日。何やってんの、こんなところで」
 試さなかったか、と言われれば、否定は仕切れない。相手だって、こっちの気持ちを試すかのように、知らない男に肩を預けていたのだから。
「俺はバイトの帰り。真己こそどうしたんだ?」
 バイト?と首を傾げたところを見ると、ものすごく酔っているわけでもないらしい。新聞社に一番近い駅はここではないとわかっている。
「いや、久しぶりに飲んでたらさ、急に酔っ払うから。真己、知り合い?」
 真己は困ったように笑っている男のことなど気にもせず、俺を見ていた。正確には、たぶん、希美子さんを掴んでいる、その手を。
 真己も俺も何も答えなかったからか、希美子さんが俺を見上げた。
「不破くん、お知り合い?」
「ああ、うん。ウチのお隣さん」
 俺の言葉にいち早く反応したのは、見知らぬ男だった。
「本当?ねえ、今から帰るところだったりする?」
 心底助かった、という顔をした男の肩から、真己がするりと身を外した。
「あ、こら真己。あのさ、もし良かったらこいつ送ってもらっていいかな」
 理不尽とわかりながら、その言い方に俺は嫉妬を覚えた。馬鹿馬鹿しい。本当に、自分が馬鹿に思えてくる。
「一人で帰れるって言ってるだろ」
 真己がふらふらと駅に向かって歩く。確かに、かなり怪しい足取りだった。
「まともに真っ直ぐ歩けない奴が何言ってんだよ。ね、どうかな」
 俺は全く逆方向なんだ、とその男が言った。真己はふらふらながら、どんどん歩いていっている。
 俺は困って、思わず希美子さんを見た。真己も心配だし、希美子さんも心配だ。なにしろ女の人だし。
「私?大丈夫よ。家はすぐそこだから」
 希美子さんはすぐ近くのマンションを指差した。大きくて綺麗なマンションだ。女子大生が住むには高級すぎるんじゃないだろうか、と思った。全く希美子さんは計り知れない。
「でも……」
「なんだったら俺が送る。そうだな。真己を押し付けて申し訳ないし」
 男は自分が帰る駅名を挙げた。確かに、真己を送って帰ったら、一時間半は掛かることになる。だからと言ってタクシーを使ったら、痛い出費だろう。
 押し付ける……。
 すっと掴んでいた手を外された。俺は今にも駅に消えていきそうな真己の後姿を追っていて、伸ばされた手に気付きもしなかった。
「じゃあすみません。五分ぐらいなんですけど、送ってもらえますか?」
 希美子さんは勝手に話を進めていた。それから、ほら早くしないと置いてかれるよ?と俺の背中を押した。
 俺は小さく頭を下げて、駅に向かって走っていった。
 

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