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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
09
五月に入ると、樹先輩は野菜を植えるのに忙しくなった。花ばかりか野菜まで植えているとは、俺は心底驚いた。トマトやナス、赤ピーマンなど夏野菜を植えるらしい。
俺は連休中、部活がないときには先輩を手伝っていた。日の下で土を触ることは俺のいい気分転換になったし、先輩が楽しそうに、色々と教えてくれるのも、俺には嬉しかった。植物たちの世話をする先輩は、本当に柔らかい笑顔で笑い、慈しむような目をする。少しばかり、それに嫉妬したくなるくらいに。
「へえ……トマトの苗ってトマトの匂いがする」
俺は植えるようにと渡されたトマトの苗に鼻を寄せて、驚いた。当たり前かもしれないが、あの赤い実がなっていないのにその匂いがするのは不思議だった。
「にんじんの種はにんじんの匂いがするぞ」
樹先輩はそう笑いながら、掌を差し出した。小さな、刺のある茶色い粒がその掌の上に見える。
「俺、にんじんの種なんて初めて見た」
そう言いながらその掌に鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、確かににんじんの匂いがした。
「これは?」
種や苗が入っている籠の中の茶色い袋をのぞくと、三角の、触ると痛いくらい刺のある種があった。にんじんの種よりずっと大きい。
「何だと思う?」
ざらざらと少し掌に出してみる。それから匂いを嗅いだのだが、土臭いような青臭いような匂いがしただけで、わからない。
「当たったら賞品をあげるよ」
先輩はそう言ってくすくすと笑っている。他の種の袋は絵柄がついているのに、どうしてこれはないんだろう。トマトやナス、きゅうりやピーマンではないのはわかる。それらは苗を植えるし、実の中の種を完全な形ではないにしても見たことがあるから、想像できる。にんじんはさっき見たし、豆類も違う。
「うーん……俺、夏野菜って言われてもわからないからなあ」
旬とかそんなことを気にして食べたことはない。料理をしないから余計だ。
「それは夏って言うより冬に食べることが多いかもしれない」
樹先輩はそう言いながら楽しそうに、挑むような視線を向けてくる。そう言う目をされると、俺はどきりとしてしまう。そしてその度に、好きになったことを確認させられる。
「賞品って、なんです?」
俺は時間稼ぎに質問をしてみた。何を植えると言っていたか、思い出そうと思った。
「おーい、カズっ」
先輩が口を開こうとしたところで、遠くから哲平が走ってきた。ビニールハウスは植物館の隣で、哲平はグラウンドをぐるりと回っている歩道にいた。その植え込みを乗り越えてくる気はないらしく、そこから叫ぶ。
「今日の飯どーするんだ?」
「予定ないけど。何?岡崎?」
わりと距離があるために、大声で叫ばなければならない。
「ああ。タイカレーだって」
おお久しぶりだ、と俺は思わず笑った。あの辛いが甘いカレーが好物なのだ。
「もちろん参加」
俺がそう叫ぶと、哲平は了解と手を挙げてまた走っていった。
「岡崎って……料理研究会の?」
先輩が少し鋭く目を細めた顔をして言った。その表情に、俺は少し首を傾げる。
「ええ。ときどき大量に飯を作るときは世話になってるんです」
俺がそういうと、ふーん、と走り去った哲平の背中を追うように顔を逸らした。
九重は全寮制なのに、休日の食事はない。その代わりミニキッチンがついているし、家庭科の授業もしている、と言うのだが、何しろこっちは男子高校生だ。みんなまともに料理などしない。
幸いなことに、俺は哲平と知り合って、料理研究会の会長の岡崎とも知り合った。おかげでときどき、休日でもこうしてまともな飯にありつける。
「やっぱり美味しいんだ?坂城、すごい嬉しそうな顔してたね」
少し固い声に、先輩も食べたいのだろうか、と俺は思ったが、こればかりは岡崎に許可を貰わなければならない。
「さすがに料理研究会なんてやってるだけありますよ。それに、タイカレー、好物なんですよ」
「辛いもの好き?」
「特に、ってわけでもないんですけど。でもこの間初めて食べて、嵌ったって言うか」
俺の話に、先輩はまた目を細めてどこかを睨むような顔をした。
「樹先輩も食べたいですか?岡崎に聞いてみましょうか?」
俺がそう言うと、先輩はにっこり笑って、
「そうだね、また今度」
と言った。
結局、俺は何の種だか当てられず、賞品も貰えなかった。種はほうれん草の種だそうで、そう言えばほうれん草ってちょっと尖った葉をしていたっけ、と思い出した。和種だから、ぎざぎざの葉のほうれん草が出来るはずだそうだ。洋種は、もっと丸みを帯びているらしい。
賞品は、「まあ、コーヒーとかジュースとかそんなもんだったんだけど」と言っていた。ただなんとなく、面白くなさそうな顔をしていた先輩は、あの後俺を目一杯こき使ってくれた。その上、なぜか苗字ではなく名前で呼び捨てられるようになった。
「なあ、やばかった?」
夜になって、いつもの南寮の岡崎の部屋でみんなでカレーを食べていると、哲平がこっそりと聞いてきた。俺は辛さに水をごくりと飲みながら、何が?と声に出さずに聞いた。
ピーマンと竹の子のスライスと鶏肉という、およそカレーというには不思議な組み合わせのそのタイカレーは、でもすごく美味しい。
「いや、深山先輩」
「先輩が何?」
俺が目を眇めると、そう言えば寮長が懐いてんだって?と隣でサッカー部の西沢がにやりと笑った。このメンバーの中で、西沢だけが東寮だ。
「懐いてるってやめろよな。どうしてそんな話になったんだ?」
「いや、どう考えたってそうだろって」
おまえ名前で呼んでるんだろー、と西沢はにやにやしたまま言う。
「げ……知れちゃってんのか」
「いや、まだ何とか広まってないけどな。まあ、でもここのところ一緒にいるだろ?嫌でも広まるかもな」
別に俺は東を敵に回したいわけではない。それどころか、平和で穏便な生活をしたいのだ。
「いっそうのこと、さっさとくっついちゃえばいいんだよな」
隣で哲平が無責任なことを言う。人の気も知らないで。
「そういうんじゃないよ。忙しいからこき使われてるだけだって」
「おまえ、マジでそう思ってんの?」
西沢までそんなことを言う。
それはもちろん、期待しそうになるときもある。自分の気持ちを自覚してから、妙に意識したりする分、余計に。でも、先輩はそういう類のことは一切匂わせたことがないと思う。
「深山寮長って言えば、誰にでも優しいけど、本当に気を許すのは植物だけって有名だったんだぜ?」
西沢がカレーのおかわりをしながらそう言う。
「別に気なんて許されてないし」
俺も、と皿を差し出すと、西沢は俺に自分の皿を差し出して、俺の皿と交換する。
「あのな、こき使うって時点で、気を許されてるんだと思うけど」
「なんで?」
「今まで手伝うって言っても、手伝わせてくれないことが多かったから。ほんとに人手がいるときは自分で声を掛けるんだけどさ」
「同じだろ」
「一度に何人も、だよ?それも一日か二日のことだ。暇になったら手伝え、なんて今までなかったんだよ」
テーブルに皿を置いて床に坐りながら、俺はうーん、と唸った。
「植物館に出入りを許された奴も少ない。俺の知ってる限りじゃ重藤先輩ぐらいかな。それにおまえ、サボテン貰ったんだって?」
にやりと引き締まらない顔の哲平に、俺は曖昧に頷いた。あれはなんとなく、秘密にしておきたいと言うか。鼎と同室だから、それは無理だとわかっていても。
「それが決定打。よっぽど気に入った奴にしか、植物はやらない」
「そうなのか?」
そうなんだよ、と哲平が笑った。
それは、期待をしてもいいということだろうか。
でも、と俺はぱくりとカレーを食べながら思う。
それで違ったら、俺はきっとしばらく落ち込んで、走りに影響が出るだろう。あまり表情に気持ちが出ないのに、走りには覿面に現れるのが俺だ。あのサボテンだって、手伝ったお礼だって言われたし。
例えば樹先輩から手を伸ばしてくれたら。きっとその手を取るのに。
「逃げられないうちに、捕まえた方がいいぜ?相手はもう三年なんだから」
哲平は、そんなことを言う。
「それか、捕まっちゃうか」
西沢はそう笑う。俺は、曖昧な顔をするしかなかった。
おまえも案外臆病だな、と言った哲平の言葉に、頷きそうになった。
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