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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
10
 それからは、競技会もあって少しも樹先輩を手伝うことは出来なかった。高居先輩も、あまりいい顔をしない。疲れた身体は、休ませなければならないからだ。
「11秒台は切ったが、90台が切れないな。それで県予選はなんとかなっても、関東には通用しない」
 トラックで足をマッサージしてくれている高居先輩が、ふと言った。俺はそれに何も言えなかった。
 俺のベストは、10秒90台を切っている。それから、少しも速くならないのだ。一時期のスランプのときは11秒が切れなかったのだから少しは復活したのだろうが、やはり自分の限界が見えた気がした。
「坂城、おまえ、何が足りないかわかってるか?」
 大きな掌で、丁寧に俺のふくらはぎをマッサージをしてる先輩は、その筋肉から目を離さなかった。
「足りないもの……?」
 実力、と真っ先に思い浮かんだ言葉は無視する。先輩が言っているのはそれではない。足りないもの。なんだろう。
「わからないんだろうな。だから、切れるはずの90台が切れない」
「切れるはず?」
「ああ。おまえはもっと速く走れるはずだ」
 もっとずっと速く。
 高居先輩の記録は10秒29だ。それだけ速く走れたら、どんな景色が見えるのだろう、といつも思っていた。そこに、近づけると?
 黙った俺を、先輩がちらりと見上げた。それから、ふいっと視線を逸らして、少し考え込むような目をした。珍しい。
「おまえ、少し深山と会うのはやめろ」
 最初、何を言われたのかわからなかった。脈絡がなかったからだ。
「高居先輩……?」
「深山にも言っておく。そうだな……コンマ85が切れてから会え」
 どう言う意味なのか、まったくわからなかった。高居先輩はいつも正しいことを言うが、言葉が少なすぎるのだ。納得いく説明が欲しかった。
 樹先輩は、いまや俺の精神安定剤だ。会えなかったら、走りに影響が出るかもしれない。高居先輩がそこまでわかっているとは思わないが、でも何かしら影響があると思っているのは違いない。それが何なのか、俺には少しもわからなかった。
「上半身も安定してきたし、おまえなら県予選は優勝を狙える」
 俺が問いただそうと思ったところで、先輩はそう言って立ち上がった。それからすたすたと歩いていく。
 これは質問しても、答えてくれないだろう。
 俺はどうしたらいいのかわからず、しばらくそこにだらりと足を投げ出して、坐っていた。


 高居先輩の言うことは絶対だ。少なくとも、俺の走りのことを思って言ってくれているのだと、俺にはわかっている。でも、樹先輩はプラスであってもマイナスではないと俺は思っていたから、悶々とした日々を過ごした。いつの間にか、疲れたりむしゃくしゃしたりしたときは、植物館に行ったり、樹先輩の部屋を訪れるようになっていたのをやめたから、苛々は募るし、ストレスも溜まる。それは、俺を癒してくれていたのは植物だけじゃないと改めて知らしめてくれた。
 先輩と一緒に植えた花や野菜を見ても、少しも穏やかな気持ちになどならないからだ。今やそれは、先輩を思い出させるものになってしまっている。
 同じ学校で、寮住まいにも関わらず、学年と寮が違うだけで、会わないとなったらとことん会わずに済んでしまうのだ、と俺は知った。ときどき、遠くからその姿を見ることが出来ても、あの声で俺の名を呼んでもくれないし、あの柔らかい微笑を俺に向けてもくれない。
 高居先輩は、樹先輩とどんな話をしたのだろう。
 もともと考えてみれば、樹先輩とは偶然会うことが多かったのだ。五月も半ばになって花壇の仕事がなくなったのなら、その辺りをうろついていることもない。
 つまり、俺がいつも会いに行っていたんだ、と今更ながら気付いた。
「おまえ、深山先輩となんかあったのか?」
 昼休み、食堂の二階からぼんやりと校庭を見ていた俺に、哲平が恐る恐るといった感じで話し掛けて来た。
「いや、別に」
 そう答えると、ため息が聞こえる。
「おまえ、ほんと表情がわからん。でも、少なくとも落ち込んでるよな?」
 変な日本語で喋る奴だ、と俺は校庭から視線を外さずに思った。五時限目に体育があるのだろう。三年の先輩達が出てきた。そこに樹先輩の姿を見つけて、俺はぼんやりとその姿を目で追った。
「カズ、おいこら。人を無視するんじゃない」
「落ち込んでるわけじゃないし、無視もしてないよ」
「落ち込んでるんじゃなかったらなんだよ」
 さあ、と俺が気のない返事を返すから、哲平がぐりぐりと頭を撫でてきた。
「俺は心配なの。余計なお世話と思われようがなんだろうが、せっかくおまえがこう、人らしくと言うか高校生らしくというか若者らしくなって来たって言うのにまたもとに戻りそうで」
 それなら俺は一体なんだったんだ、と思ったが吐息を一つ吐き出しただけで何も言わなかった。
 コンマ85が切れたら会ってもいいと先輩は言っていた。でも、90でさえ切れない俺に、85なんて切れるのだろうか。つまりは自己記録更新をしろ、と高居先輩は言うのだ。コンマゼロイチだって速く走るのが大変な世界なのに。
 大体、と俺はようやく視線をテーブルに戻した。大体、俺と樹先輩は、ただの先輩後輩じゃないか。走りを見てもらっている高居先輩にはもしかしたら俺の気持ちなどばれているのかも知れないが、自分自身に笑ってしまう。
「俺と先輩は、ただの先輩後輩ってだけなんだよ、哲平」
 まるで自分にいい聞かせるように呟いたら、哲平がやれやれと首を振っていた。
「いい加減諦めろよ。腹括れ」
「何に?」
 ふいっと目を見たら、逸らされた。
「だから表情の読めない奴は嫌いだよ。素直になれよな、カズ」
「俺は素直だぞ?」
 走っているときは。それは、多分高居先輩ぐらいしかわからないのかもしれないが。
 哲平はどこが、と呆れたような、非難がましい目をした。
 自分の気持ちなど、十分わかっている。でも、それだけではどうにもならないことだってあるじゃないか、と俺は思う。
 相手のいることなんだから、余計に。
 何かをすることで壊れてしまうなら、現状維持をするのが俺だ。
 でも、会いたいなあ、と俺はまた、眼下の校庭を眺めた。


 約束を守らなかったからと言って、高居先輩がどうこうするわけではないことはわかっていた。あれは、ヒントなのだ。俺がわからない、コンマ90の壁をぶち破るための。
 だから余計、俺は何も考えずに樹先輩に会うことが出来なくなってしまっていた。そんなときに、貰ったサボテンが元気をなくして、俺はそれを持って、とうとう樹先輩の部屋に向かった。会わなかったのはたかだか一週間ほどだったのに、なんだか緊張した自分がおかしい。
「和高……」
 一瞬驚いたような顔をした先輩は、それからにやりと笑って、お許しが出たのか、と言った。あまりに似合わないその意地悪そうな顔に、俺は怯んだ。そのまま俯いて、いえ、と小さく呟く。
「でも、サボテンの元気がなくて」
 言い訳がましく言うと、くしゃりと髪を撫でられた。恐る恐る顔を上げると、樹先輩が満面の笑みを浮かべていた。
 ああ、この笑顔に俺は弱い。
「ああ良かった。このまま高居の言うこと聞いて会いに来なかったら、殴りに行こうかと思ってたんだ」
 柔らかい笑みをしながら、物騒なことを言う。俺は呆気に取られてその顔を見つめてしまった。
「おまえの走りのためだってわかってても、腹立つだろ?高居に言われたからって俺に会いに来ないなんてなあ」
 言いながら、俺の手からサボテンを取り上げる。それから中に入るように促した。
 相変わらず緑の気持ちいい部屋で、俺はどっと疲れが出たようにその中に坐った。漣だってばかりの心が落ち着く。
「高居先輩、なんて?」
「おまえの走りの邪魔になるからしばらく会うなって」
「そんなこと!」
 俺が思わず叫ぶと、樹先輩はにこにこと笑った。
「高居の口の下手さはわかってるから言葉は別にいいんだ。気に食わなかったのは、和高だよ」
 ふっと笑顔を引っ込めて、目を眇める。普段が優しい顔をしているから、余分に怖い。
「高居の言うこと馬鹿真面目に聞いて会いに来ないし。だからって少しもタイムは上がってない見たいだし」
 痛いところを突かれて、俺は言葉に詰まって逃げるように隣の鉢植えの大きな木を見上げた。つやつやと、綺麗な葉肉だ。
「そんなこと言われても……」
 切れるなら、コンマ90だって切りたい。でも、後一歩で及ばないその悔しさはきっと走らない人間にはわからない。
「和高はさ、走ってるときって何見てるんだ?」
 先輩方というのは、どうしてこう唐突な質問をするんだろう、と俺は思いながら、ゴールですかね、とつまらない答えを返した。
「だろう?そのゴールに、だ。俺がいるって言うのに、どうしてタイムが上がらないんだよ」
 はあ?と俺が顔を上げたら、樹先輩は少し耳の先を赤くして俺を睨んでいた。
 それはあまりにもあんまりなんじゃないだろうか。
 そんな顔をするのは。
「先輩……」
「サボテンは水のやりすぎ。ここに入院な。おまえはさっさと自己記録を更新しろ。あの高居なんかに口出させるなよ」
 怒っているのはわかるのだが、どうにもその耳の先から目を離せない。よくよくみると目元もうっすら赤い気がしてきた。
「85、切ったら褒美をやる。俺は結構気が短いんだから、待たせるなよ」
 頭がだんだん混乱してきた。でもその混乱を解決するために、ここで先輩に質問をしていいものなのか、わからない。
 怒っているのだ。ものすごく。機嫌が悪いことがわかることなど滅多にない人なのに、今ははっきりとわかる。
 でも。
 呆然と見つめるように立っている俺を、先輩は押し出すように部屋から出した。
 ご褒美とは何なのか、それだけでも聞いて置けばよかったと思ったのは、自分の部屋に辿り着いてからだった。



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