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la vision

12
ステラ・マリスからふらふらと歩きながら、途中の自販機で適当にお酒を買って、周は、会社で一人で飲んでいた。
ステラ・マリスから会社まで、たいした距離じゃない。部屋で飲むのがどうしても嫌で、最近になって渡された鍵を思い出した。
月明りと、小さなコンピューターの明りに、ほっと息をつく。落ち着ける気が、した。人の気配のない、この空間が。夏だから動かしたままにしてある空調の音に、ぼんやりと耳を澄ます。不規則に、一定温度になると止まったりついたりする空調の音は、飽きが来なかった。
「電気もつけずに何をやってる」
闇の中突然聞こえた声に、周はゆっくりと顔を上げた。酔っている所為で、動作が緩慢になっていた。驚いてもいいのに、感覚が麻痺していたのかもしれない。ぼんやりと、誰かがいることを確認しただけだった。声の主が近づいてきて、周の傍らに転がっている空き缶を見て、呆れたようにため息をついた。
「穂積さんこそ、なんで会社に戻ってきたんです?」
窓を開け放って、その桟に腰掛けて片足を上げていた周は、外を見ながら呟くように聞いた。夏の絡みつくような空気が、ねっとりと周の周りを覆う。
「展覧会の後の方が社長業は忙しいんだ」
常にいくつかの展覧会やパフォーマンスをどう動かすかを考えている穂積は、一つが終われば次を動かす時期が来たことになる。
終わったスタッフの、誰をどのように動かすかも考えなければならない。
「ずっとここにいたのか」
周はその問いには、外を眺めたまま答えない。何が言いたいのか、わからなかった。ため息が聞こえてきて、穂積が明りをつけにいく。
「彼、気をつけろよ」
「…誰ですか?」
「槻上氏だよ」
明りが点けられて、周はのろのろと立ちあがった。蛍光灯の明りは、今の周にはうるさいだけだ。他を探さなければ、ならない。
「この業界には俺みたいなのが多いから。乱暴な奴もいる」
空になった缶を周がビニールの袋に入れる音が、響く。
「いい人ですよ」
うっすらと、周が笑う。ふと穂積を見るが、ふいっとその視線は外されて、また外に向けられる。
「君がそう言うなら構わないが…。ここに引っ張り込んだのは俺だからな。君の後…彼も帰ったよ」
その声に、周は穂積にまた視線を戻した。
それからゆっくり、口が笑う。くくっと言う、周の笑い声が漏れる。
「抱かれたとでも?」
「周…」
呼ばれて、焦点の合っていなかった視線が、合う。その穂積の顔を見て、周の口だけが、笑った。酔って据わった目は、光りを宿していない。
「おもちゃを取られたような顔してるよ、あんた」
そう言って、堪えきれなくなったように、周は声を上げて笑った。喉の奥で搾り出すようなその笑い声は、静かなオフィスに無気味に響いた。穂積が、近づいてくるのが分かる。
穂積は、何の感情も示さない顔で、周を見ていた。強いていえば、それは、社長の顔だと周は思う。自分の部下を心配する、でも見守ると決めた時の、顔。
その顔をされると、仕事に対して意欲が湧くのだと誰かが言っていた。
「…帰る」
肩を掴まれそうになって、周は身を翻した。ふらりとした足を、プライドで支える。
「周、」
「お仕事、がんばってください」
振り向いてそう笑った周に、穂積は言葉を失った。
あまりにも冷たい、その笑顔に。

オフィス街の、静かな道を、周はふらりふらりと歩いていた。意識を穂積から離すために、歌を歌ってみたりする。
酔って低く、掠れた声は、周の孤独を一層深めた。
強がろうと、ポケットに手を突っ込む。くしゃりと音がして、周は手に触れたそれを、握って取り出した。
槻上から、メモをもらっていたことをぼんやり思い出す。
それから、穂積の声が蘇って、周はその紙を丸めて投げ捨てようとした。
でも、ふと槻上のあの太陽のような笑顔が浮かんで、振りかざした手を止めて、その手のひらの中の丸まった紙を開く。
「君がそう言うなら、構わないが…。君の後…彼も帰ったよ」
そう言っていた、穂積の冷めた声を思い出す。
急いで書かれたそのメモは、走り書きではあったが、几帳面な字が並んでいた。
しばらく立ち止まってその紙を見ていたが、周は携帯を取り出して、そこに書かれた番号を押した。
「はい」
仕事で話していた時とは違う、少し低めの声がする。
「周です…」
そう言うと、槻上が微笑んだ気がした。電話越しに、暖かさがにじみ出る。
「気分はどう?ちゃんと帰れた?」
「帰って…ないんです」
呟くような周の声に、槻上が一瞬沈黙する。
「どこにいるの?」
それから聞こえてきた、穂積とは違う、あからさまに好意を滲ませた声。
周はそれに、縋りつくように答えた。

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