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la vison 第二話
10
「周、引っ越したのか?」
外村に社員名簿の住所欄の変更を頼んでいると、指月がコーヒーを手に持ちながらその紙をひょいと覗き込んだ。
翌月になっても、外村は辞めずにネイキッドに残った。見たところ、指月と外村のスタンスは変わっていないが、指月が店を外村に任せて定期的に休むようになった。表情も、穏やかになった、と周は思う。
「ええ。今のところを完全に引き払うのは年明けになると思いますけど」
周はさらりと言ったが、その住所を見て指月が面白くなさそうな顔をする。
「同棲かよ」
「羨ましいです?」
周は馴れてくると口が減らない。可愛くない、と指月が言う。
「今まで違った、って方が俺には不思議だったんだけど」
隣で柔らかく笑いながら外村が言った。どうして?と控え目にその目が問い掛ける。
「俺の意地、ですかね。でも、もう背伸びしなくてもいいかな、って」
「背伸びなんかしてたのか」
指月がくつくつと笑う。こういうところが、穂積に似ている、と周は思う。
「背中ばかりを見ている気がしてて」
「今は?」
嫌味な口調でも意地悪な口調でもなく、外村は聞いた。周は、それに微かに笑った。
「手を、伸ばせば良いんだって気付いたんです。そうしたら、絶対向こうも手を伸ばしてくれる。ときどきは振り返って、向こうから手を伸ばしてくることだってある」
だからもう、必死で追いかけることはやめたのだ。何かを無くしながら、わけもわからないまま追いかける必要はないのだと。もっとゆっくり、周りを見物しながら、立ち止まりたいときは立ち止まって。
「それで同棲、ね」
指月がやれやれとわざとらしくため息をついた。
同棲、という言葉を嫌に強調するあたり、指月も結構可愛い、と周は内心で笑っていた。事実、そんなようなもので、穂積も尋由相手にそれをわざとらしく言っていたから、周もここは甘んじてその言葉を受け入れることにした。
「なんかさあ、俺ちょっとわかったんだけど」
指月が、冷めかかったコーヒーをごくりと飲んで、呟いた。
「何が面白くなかったかって、穂積がすごーくだらしないくらい、幸せな顔をしてるのが面白くなかったのかもな」
「指月……おまえはガキか」
「本当ですよねえ。お気に入りの友達が取られるのが嫌でちょっかい出されたこっちの身にもなって欲しい」
そんなことを言う周の言葉に、とんだとばちりだよな、と外村も笑う。
「おまえら……」
「ほらほら、店が混んで来たみたいだよ?サボってないで行け」
「周は?」
「俺は休憩時間」
にっこりとそう笑った周に、書類も書いちゃって、と外村が言う。指月はため息をつきつつ、諦めたように表に出て行った。前からそれほど遠慮がなかったが、あれから外村は周と一緒に自分を苛める。それは多分、外村なりの照れ隠しというか嬉しいのを隠していると言うか……指月は勝手にそう決めて、仕方ないと自分を納得させていた。
「残ることに、決めたんですね」
指月の背中を二人で見ながら、周がぽつりと言った。それに外村が視線を動かす。
「穂積さんか周か……いや、どちらも焚きつけてくれた、ってところか?」
「焚きつけたと言うか。俺、外村さんのセレクト好きなんです」
それはありがとう、とにっこりと笑える外村の自信を、周は正直に羨ましく思う。穂積の言うとおり、実力だけのことを言ったら、彼は独立する気になればいつでも出来るはずだった。
あーあ、と突然肩を落とした周を、外村が不思議そうに見た。
「追いかける背中が増えてしまった……」
俺?と外村が自分を指さす。こくりと頷くと、柔らかく笑われた。
「どうせ一つにしか手を伸ばさないくせに」
欲張りだね、と笑われて。
ああそうか、と周は思った。
自分は欲張りで、でも、そうして欲張れるのは、幸せなことなのだ。
周、と呼ばれて振り返ろうとしたら、そのまま背中から抱きつかれて、首筋に噛みつかれた。思わず、つるりとその手から本が落ちる。
「ちょっ……」
「おまえ、尻尾を振りすぎだ」
「尻尾?」
軽く何度か首筋を噛まれて、周は身体を震わせた。掴むところがどこにもなくて、自分を支えるのに精一杯になる。
きっと崩れ落ちる前に、穂積が抱きとめてくれるだろうとわかっているけれど。
「外村が嬉しそうにおまえの話をしてた」
吹き込まれるような囁きに、周はふうっと息を吐きながら笑った。
「いつ話したんだ?」
「この間、ふらりと来てね」
シャツのボタンが簡単に外されていく。寝室に行こうと誘ってみたが、そのままソファーに押し倒された。
「外村さんにまで妬く?」
ゆっくりと口付けをしながら、合間に周が艶やかに笑った。こういう表情は、やはり誰にも見せたくないと穂積は思う。
「いや……あれは男となら抱かれる身体だろう」
穂積の言い様に、周がふっと身を起こして目の前の鎖骨に、シャツ越しに噛み付いた。
「ふらりと来たって……そういうこと」
「違うよ。本当に周と指月の話をちょっとしただけだ」
言いながらも、穂積は周の好きにさせていた。最近、こうして自分に対する執着を隠さずに見せる周が、愛しい。
過去のことを、周に詰られたことはない。かなり遊んでいたのだと言われても、周はいつも苦笑するだけだ。仕方ないと、わかっているのだろう。
でも、時にはそれを責めて欲しいと、身勝手に思う。
「本当は、離れていて不安だったのは俺だったんだ」
腰を浮かせる体勢に疲れた周が、そっと穂積に仰向けになるよう促した。穂積は何も言わずに、身体を入れ替える。
「でも、縛り付けちゃいけないってわかってたから。自由を奪うのを怖がったのは、俺だよ」
じっと降り注ぐ視線に、穂積は手を伸ばしてその頬を撫でた。それに引かれるように唇が重なる。馬鹿だな、と穂積が離れた唇の隙間から零した。
「おまえが捕らえてるわけじゃない。俺が囚われてるだけだ」
にやりとそう笑う。
「お互いにね」
そう、お互いに。
くすりと笑った周の眉根が悩ましく寄った。するりと背中を大きな掌で撫でられたのだ。そうやって、背骨を確かめるように撫でられるのが周は弱い。
「おまえがさっさと始めないから。こういうのも嫌いじゃないけどな」
出来れば、周に包まれているときが良い。
非難するような視線に、そう言った穂積を周は一瞬呆れたように見た。でもそれから、それではご要望に答えて、と唇を寄せる。
絡み合う吐息と舌につられるように、指が絡んだ。
大丈夫。
手を伸ばすのは、周だけではない。
そして、伸ばされた手を、二人はきっと間違わずに、取ることが出来る。
この先の未来にも、きっと。
おわり
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