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満ちてゆく月欠けてゆく月
10
レオーネと初めて肌を合わせて以来、ルカは他人と寝ることはなかった。だから、ルカの知識はあの夜のことだけで作られていた。切なく、痛い、熱い行為。
それが、どうしたことだろう。
痛みなど、なかった。熱さだけは半端じゃなかったが、気が狂いそうになるほど、気持ちがいい。
「あぁ……」
優しかった。レオーネは、最後まで優しく、丁寧にルカを抱いた。
―――誤解を、してしまうくらい。
もう何度果てたのかわからないルカは、意識が朦朧としていた。それでもその中心は衰えることがなく、ぱたぱたと雫を零していた。その貪欲な身体に夢中になりながら、レオーネはでも、胸が締め付けられるように痛かった。
こんな薬を飲ませたベール公に、怒りもある。
そして、そのルカに欲情している自分が、情けなくもあった。
身体は正直で、素直に反応して身悶えるルカに、レオーネ自身も衰えない。ルカのことばかりか、自分の快楽まで求めて、腰が大きく動く。それに、ルカが悲鳴をあげるというのに。
「ルカ……」
優しく口付けると、ルカの中が伸縮する。
「レ……オ……」
意識などほとんどなさそうなルカが紡ぐのは、それでもレオーネの名だ。まるで恋人同士のようなセックスに、誤解してしまいそうだとレオーネは思った。ルカが、自分を欲していると。
意識が戻ったとき、きっとルカは大きく恥じるだろう。そして、激しく後悔するだろう。
覚えていなくてもいい、とレオーネは思った。
全て忘れてもいい。
自分はもう、捕らえられてしまったけれど。
「ルカ……愛している」
大きく腰を動かした途端に跳ねたルカの耳元に、レオーネはそっと囁く。ルカは幸せそうに微笑むと、そのまま気を失ってしまった。
窓からすうっと入ってきた風に、ルカはふと窓を見上げた。風が少し、冷たくなってきている。木々の葉も、その風にはらはらと落ちていて、秋ももう終わるのだと知った。
フィレンチェより北に位置するミラノの冬はやはり早い、とルカは思った。トスカーナの豊潤な秋に比べて、ミラノは淋しい秋だった。
そんなことを思うのも、自分の気持ちのせいかも知れない。ルカは再び壁に向くと、下絵の点々と穴の開いた線に沿って、タンポンで木炭粉をすり込む。普通、工房ならば何人もの手で行うその下絵写しを、ルカは一人で行っていた。工房を構える気もなければ、誰かと仕事をしたいとも思わなかったからだ。
一人でいることを淋しいと思うこともある。でも、だからと言って誰でもいいから傍にいて欲しいわけではない。
キリストの緩くウエーブのかかった髪と顔を写し終えたルカは、ふっと息を吐き出すと、足場の上から降りずに、板の上に坐った。少し高い位置から、窓の外を見る。
あの狂ったような夜のことを、ルカはあまり覚えていない。最後の方は、ただその熱と快楽に翻弄されていただけだった。そして、いつの間にか気を失っていた。
目を覚ましたとき、レオーネはいなかった。あれほど激しく抱き合ったというのに、それが嘘のように身体はさっぱりしていた。ただ、腰のだるさと僅かな痛みが、それは夢ではなかったのだと、教えてくれるものだった。レオーネが、きっと身体を拭いてくれたのだろう。
あのときのことを考えると、ルカは恥ずかしくて仕方がない。浅ましく、レオーネを求めつづけた自分。でも、それが本心なのは紛れもない事実だ。だからこそ、恥ずかしくてたまらないのに、泣きたくもなる。
最後だと思った。
二度と、あの肌に触れられないと思った。
ルカは足場から降りて、新たな下絵を手にした。モルタルの塗られた壁に、それを止める。
思い出せば泣きたくなるほど、レオーネは優しかった。以前はあの痛みに、自分は罰を受けているのだと思ったが、あの快楽もまた、性質の悪い罰だと思う。
身体は恐ろしいほど喜んでいたのに、心は痛いから。
「まだやっているのか……少し休んだらどうだ?昼食も食べていないだろう」
無心に線に沿って木炭粉をすり込んでいたルカは、呆れたような声に顔を上げた。すらりとした背の高い青年が、ドアに凭れて苦笑している。
「ミケーレ……昼食もって、何時なんです?」
「シエスタも終わる時間さ」
そう言えば、日の傾きが朝とは逆になっている。どれほど集中していたのだろう。
「小さいくせに食事を抜かしていたら、そのうち倒れるぞ」
「小さい、は余計です。ご心配なさらなくても、体力にはわりと自信があるんです」
ルカはそう言いながら、最後の線を写すために丁寧にタンポンを穴に押し付けた。
「ふーん。それにしては、ベッドの上ではすぐにばてるじゃないか」
ミケーレの揶揄を含んだ声に、ルカはきっとその笑った目を睨んだ。
「それは、体力とは別の問題だと思いますが」
とりあえず壁に留めた下絵を写し終えたルカは、床に散乱していた紙を集めて、台帳にそっと挟んだ。今日は、この辺りで終わりにするつもりだった。どうせ、ミケーレが離さないだろう。
「別って?」
「……食事を頂きます」
ルカはすっとミケーレの横を通って、台所に向かおうとした。その腕をすっと掴まれる。
いつも、決して強い力ではない。それなのに、何故いつも、自分はその力に抗えないのだろう、とルカは思う。
「俺も小腹が減ったから一緒に食べるよ。その後は、腹ごなしに運動しよう」
耳元で熱く囁かれて、ルカは小さく頷いた。
ミケーレは、現ミラノ公の叔父、ロドヴィコの息子だった。好奇心でルカの製作風景を見たいと言って、見学に来たのが始まりで、自分とさして年も変わらないだろうルカが、大きな絵を描いていることに、魅せられたのだという。その、柔らかい絵にもまた。
何度か通ううちに、ミケーレはルカ自身に惹かれていった。触れれば切られんばかりの冷たい雰囲気を出しながら、優しい絵を描く。ときどき、本当に稀に見える微笑には、見惚れてしまうことを止められなかった。
少し強引に抱いたとき、ルカがあまり抵抗しなかったことに驚いた。自分と同じ気持ちなのかと一瞬歓喜に叫びそうになったが、そうではないのだとすぐに知った。
ルカの中には、誰かがいる。
どれだけ愛を囁いてみても、優しく肌を重ねてみても、ルカは誰かを思っている。その誰かのために、眠りながら泣いているときもある。
それが誰なのか、ミケーレは聞いたことがない。それは、話題にしてはいけないのだと直感していたからだ。そこに触れたら最後、ルカは自分を切り捨てるだろう。
ごめんなさい、とルカが呟いたことがある。散々抱き合った後の明け方のことで、ミケーレは眠っていると思ったのだろう。だが、そのとき、本当は起きていたのだ。
謝られたくなど、なかった。
自分は望まれていないのだと、誰かの代わりなのだと、わかりたくなどなかった。
その生まれから、ミケーレは欲しいものは大概手に入れてきた。だから今度も、そのつもりだった。
でも。
どうしたらいいのか、わからないでいる。どれだけ愛しているのだと言ってみたところで、ルカは自分を見ないのだ。誰も、受け入れようとはしていないのだ。
抱かれている、そのときでさえ。
「ミケーレの小腹って、大きいんですね」
くすり、とルカが笑った。ルカがフレスコ画を描いている、館に附属した教会から台所に移動した二人は、全く同じ食事を貰ってきたのだ。
「まあね。これから、体力を消耗するわけだし」
本当は、抱かなければ良かったのかもしれない、と思うときもある。
台所の隣の小さな食堂で、二人は温かいスープとパンの食事をした。
「……ミケーレはそればっかり」
儚く、ルカが微笑む。罪悪感を抱えたその笑みは、ミケーレが見たくないものだ。
ルカは何故、自分がミケーレに答えたのかわからなかった。絵の制作の見学も、ロドヴィコに強引に頼まれて一度ならと了承したくらいで、その後何度も許すことになるとは、予想外だった。
少しだけ、雰囲気が似ている。
背の高いところ、自分に自信があるところが似ている。でも、ミケーレはレオーネではない。そんなことは、ルカはわかりきっている。
あの優しく激しい、甘い夜が、身体を蝕んだのだと思う。
ときどき、堪らなくあの熱が欲しくなる。柔らかく辿った、指や、抱きしめられた腕が、恋しくなる。
二度と、ないとわかっていても。
「そりゃあ、そのときしかルカは俺を求めないから」
いや、そのときでさえ、ルカは自分を求めているわけではない。
ミケーレは情けなさに自嘲の笑みを洩らした。
「ミケーレ……」
「俺のほうは準備万端、いつでも来いって感じなんだけどなあ。俺が必要なら、いつでも、ね」
ミケーレの言葉に、ルカは微笑んだような顔で、何も答えなかった。
いつものことだ。ミケーレが気持ちを伝えるときはいつも、ルカは何も言わない。受け入れもしなければ、拒絶もしない。それはひどく残酷だとミケーレは思うが、そもそも、気持ちの話をするまえに、自分がルカを強引に抱いたのが悪いとわかっているから、ミケーレもそれ以上は何も言えないのだった。
抱かなければ良かったのかもしれないと、だから思ってしまうのだ。
そしてルカもまた、抱かれた自分と、今も拒めない自分を、責めていた。
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