home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 1113

シュレーディンガーの猫

12
 逃げられるはずがなく。
 そして、何もかもなくした。

 雪は降り止むことがなく、夜半過ぎまでふわりふわりと街を覆い尽くそうとしていた。響貴は飽きることなく、その雪の落ちる様を窓ガラス越しに見ていた。
 この雪に触れることさえ許されない日々。そんな日々を過ごしてきた響貴は、だから、その雪に触れようと手を伸ばすことを忘れてしまっていた。諦めよりも強く、忘れようと。
 あの日も、雪だった。ただ、夜半過ぎには雨に変わり、その雨は一晩で雪を溶かしてしまった。
 ―― 一年前。
 ずっと言われるままに育て上げられた姉と弟が、たった一度、初めてきちんと言葉を交わし、計画した、逃亡劇。
 それがあっさりと阻まれたのは、姉の行動を不審に思った佐々原が、その日の予定を取りやめて、姉の行動を密かに見張っていたからだ。そして、二人が入れ替わることを知った佐々原は、姉の真意さえわかっていた。ろくに言葉を交わしたことのない弟よりも、ずっと響のことを知っていたのだ。
 あの日――
 佐々原が連れてきたマンションは、まだ引っ越したばかりだったのか、あまりものが揃っていなかった。それが坂倉の部屋を突然思い出させて、響貴は入った途端に、顔を歪めた。
 忘れることなど、簡単だと思ったのに。
 佐々原は何も言わずに、そこに響貴を放り出した。ただし、外に出ることは許されはしなかった。佐々原はやがて電話に呼び出されて家を出たが、数時間で帰ってきた。その後も、二人は言葉を交わすことはなかった。その佐々原がやっと口を開いたのは、テレビで各局がニュースを流そうと言う夜になってからのことだった。
「ご覧になりませんか」
 そう言って、佐々原はテレビを点けた。奇妙な静寂の支配していた部屋に、突然場違いなほどの音が流れてくる。響貴は眺めていた外から目を逸らさなかった。
 でも、その耳に、都住と言う言葉が聞こえて、思わず顔を上げた。テレビからの声は、淡々と告げる。
「今日未明、東京都港区にお住まいの都住商事社長、都住孝治さんのお宅から火の手が上がり、都住さんのお宅はほぼ全焼、中から都住孝治さんと思われる焼死体が発見されました。なお、警察は都住さんの自殺の可能性が高いと見て…」
 響貴は思わず立ち上がり、テレビの前に走り寄った。でもそのときにはもう、ニュースは次の話題に移っていた。その前に、響貴は呆然と立ち尽くした。
 どう言うことだ?
 理解できないことが一時に襲ったようで、響貴は混乱した。傍らでゆったりとソファーに座る佐々原を、思わず見る。
「これで、都住ひびきは一人になりました。明日からは、都住家の当主として振舞っていただきます」
「どう言うことだ?テレビでは都住の焼死体のことしか言ってなかっただろう?」
「本当に自殺したのは、都住ひびきなのですよ。でも、最初から存在しないはずの死体があっては、困るでしょう?ですから、そちらは丁重に片付けました」
 変わらぬ、佐々原の声が、部屋に響いた。テレビからは、賑やかな笑い声がした。
 姉が、死んだというのか?
 あの、姉が――?
 そして、存在しなかったはずの都住ひびきがもういないと言う。でも、自分はここにいる。
 ここに、いる……
「お前が――お前がやったのかっ」
 立ったままの響貴が、そう佐々原を睨むように見下しても、佐々原はちらりと響貴を見て、緩慢そうに足を組んだだけだ。
「申し上げたはずです。自殺したのは、響様だと」
 そう言えば、と佐々原は胸ポケットから小さな封筒を取り出した。それを響貴へ差し出す。響貴はそれを受け取ると、中身を取り出した。
 頭が、倒れそうなぐらいがんがんとなっていた。
『響貴へ
 無事に自由になれていることを祈ります。こんな手紙は危ないと思いながら、それでも、二人の繋がりがあったことを残したくて、書いています。運転手が不審がらずに渡してくれればいいのだけど。
 初めて私そっくりになったあなたを見たとき、本当に驚きました。でも、あなたのことは誰にも知られていなくて、父と佐々原しか知らなかった。父に問い掛けても、何も教えてくれず、口外しないようにとまで言われて、私は自分であなたのことを調べました。
 何もなくて、苦労しました。
 何もなさ過ぎて、ひどく哀しかった。でもあなたが弟だとわかったとき、とても嬉しかった。本当は一度だけ、赤ちゃんだったあなたに触れたことがあるのです。でも、そのときには弟とも言われず、誰か使用人の子供だと言われたのを覚えています。
 でもあれはきっと、あなただった。
 ずっと、部屋の中で生活していると知ったのは、中学生の頃でした。あなたがときどき、私の代わりに外に出ている以外は。その頃から、外出も多くなってきていた私は、その半分ほどをあなたに代わりにしてもらおうと思いました。
 父に我侭を言って。
 あなたに、逃げて欲しかったのかもしれません。ただ外の空気を、吸って欲しかったのかもしれません。
 あなたが父に犯されていることを知ったのは、その頃です。一度、あなたの部屋をこっそり訪れてみようと思ったのです。それで夜中に、あなたの部屋へ行こうとして、見てしまったのです。
 怖かった。
 父の犯している罪の深さが、怖くてたまらなかった。そして、あなたの傷の深さを思うと、哀しくてたまらなかった。
 みんな、知っていたのです。私は全てを知っていたのに、何も出来なかった。
 あなたが誘拐されたとき、不謹慎にもそのまま帰ってこなければ……と思いました。あなたには、そのほうが幸せかもしれないと。でも、父は罪を重ねることしかしなかった。
 そして、私自身も父の欲のままに、今度結婚します。でも、それはどうしても許せなかった。私には好きな人がいます。そして、あなたには私しかいなかった。うぬぼれかもしれないけれど、私が結婚したら、あなたはとても苦しむだろうと思ったのです。
 もう、疲れてしまった、と言うのは簡単だけれど、それだけではなく、私には父を連れて地獄へ行くという大きな仕事がある気がしました。
 私ができる、唯一のこと。
 響貴、どうか生きてね。
 全てを火に包んで、私が持っていくから』
 ――もう会えないだろうけれど
 そう言った、姉の顔を響貴は思い出す。そのときには、もう確信をもっていたのだ。それほどの、覚悟をしていたのだ。
 それなのに。
 姉はどこかでひっそり、眠っている。都住響という自分の名も与えられず、どこか一人で。

 どうにもならない虚無感と、絶望に似た感情の中で、響貴はじっと時が過ぎるのを待っていた。ただ一つ、生きてね、と言う姉の言葉だけは守ろうと必至だった。
 都住が死んでから後のことは、佐々原が一人でそつなくこなした。響貴を響に仕立てあげ、役職に名を連ねさせた。ショックで口が聞けないと言うもっともらしい理由をつけて、人に会わせる事も少ない。もちろん、婚約も破棄となった。
 そして、響貴を飼っていた。
 響貴のボディーガードとしての職を失わずに、佐々原は響貴を自由にしていた。乱暴に抱くよりも、優しく、快楽を導き出されることの方が、響貴には辛いと分かっていて、佐々原は淫らな響貴を作り上げていった。
 抵抗したのは、ほんの半月。あとは、されるがままだった。
 また、坂倉がさらってくれたら――
 そんな夢みたいなことを思ったこともある。その度に、自分でどうにかしなくては、と思い直した。生きているかも分からないのだ。もう、誰もいないのだ。そんなことを思いながら、一年が過ぎた。

 逃げられない。
 この檻からは逃げられない。
 誰か。
 誰か、もう一度、逃げなさいと言って。
 逃げろと、言って。


home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 1113