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サイレント・ノイズ 第三話  
――柔ラカイ光――

02

 そこは、細々と自給自足に近い生活を営んでいる山間の小さな町だった。人工的な雨もほとんど降らない、忘れられた町。でも、そんなところだからこそ、そこには外国人たちが住み着いていた。日本国中にいくつかある、不便な外国人居留地の一つだった。
 そこのことは、あまり覚えていない。雨が降らないわりに深い緑と、人々の暗い目を覚えているくらいで。
 両親の顔も、覚えていない。ぐいっと押し出されて、離された手の冷たさしか、記憶に残っていない。そんな、いらないような記憶。姉のことは、ほとんど覚えていなかった。ただ、同じ車に乗って、どこかへ連れて行かれたあの少女は、姉だったのだろうか。しっかりと、痛いくらいにきつく握られたその少女の手が、途中で誰かに引き離されたのははっきりと覚えている。そのとき初めて、不安になったから。
 ウォンはベッドから起き上がって、何も身につけていないその身体を、月明かりの鏡の前に晒した。ウォンは見たことのない、雪に例えられたその白い肌に、うっすらと赤黒い跡がある。
 この跡が消えたら、全てを忘れられるだろうか。
 そう思ってみて、自分のそのばかげた思いに笑う。忘れるわけがない。身体はきっと、覚えている。そして、この心さえ。
 肌がこれほどまでに白いのは、汚れを必至に隠すためか――
 ウォンは再びベッドに潜り込むと、眠れない夜が明けるのをじっと待った。
 煌びやかなネオン。
 あの街に、眠れる夜などなかった。
 まだやっと、字を書いたり読んだりできる年になって連れて行かれた、夜の街。ウォンはそこで生きていくことを、余儀なくされた。
 何も分からないままに、開かれた身体。
 痛みを感じたのも、恐怖を覚えたのも、最初だけだった。あとはただ、ひたすら夜が明けるのを待った。夜さえ明ければ、眠ることができるのだ。そしてウォンは、疲れ果て、ぼろぼろになったその身体を隠すように、眠るのだった。  金髪碧眼のその男は、ウォンのその日五人目の客だった。身体が持たなくなれば、薬さえ使うその店の方針を嫌と言うほど知っていたから、ウォンはだるい身体をおしてその男の前に立った。それから、ゆっくりとその男に愛撫を施す。そうやっている間だけは、自分の身体を休めることが出来た。だからウォンは、相手が嫌がらなければいつも自分から相手に仕える。
 でも、その男はそっとその手を止めると、ウォンにベッドに腰掛けるように言った。これでまた、すぐに行為が始まるのだと、ウォンは半ば諦めて大人しくその指示に従った。
 それなのに、男は、一向に自分に触れてこようとしない。ベッドにあったシーツをばさりとウォンにかけると、部屋に備え付けられた冷蔵庫の扉を開けて、中を覗き込んだ。
「何か飲むか?それとも温かいものがいいか?」
 のんびりと、そんなことを聞く。ウォンはどう対応したら良いのか分からなくて、何も答えなかった。咥えろとか舐めろとか、そんな言葉の方が、簡単に理解できた。
 男は何も言わないウォンを気にもせず、中から甘そうなジュースを取り出した。それを一本ウォンの方に放り投げると、自分もその蓋を開けた。
 綺麗な金髪だった。欧米人と呼ばれる彼らのような客を何人か相手にしたことはあったが、こんな若くて綺麗な客は、初めてだった。大概はでっぷりと太った、脂のたぎった中年ばかりだったのだ。
 何もしない客を、ウォンは不思議に思ったが、身体を休められるのはありがたいと、そのままぼんやりとしていた。遠く、街の音がする。部屋は据えた匂いが充満しているが、ウォンにはもう、慣れてしまってわからなくなっていた。ぼんやりとオレンジ色の明かりが、男の金髪をきらめかせる。夜は、まだ明けないのだと、ウォンは微かなため息をついた。
「何人目だ」
 人工的にひどく甘いジュースに顔をしかめさせながら、男がそう聞いた。ウォンは最初、何のことだか分からなかったが、すぐに思い当たって、頭を巡らせる。
「四人……五人……目」
 毎日、毎日、同じことの繰り返しだ。もう、一日の観念さえなくしていたウォンに、今日の客の数などわからなかった。
 男はその答えに、少し遠い目をした。何故か少し、怒っているようだった。
「世の中ってのは、ひどいもんだな」
 男はそう呟いた。ウォンには、その意味がわからなかった。外の世界を何も知らない籠の中の鳥たちは、そこで鳴くこと以外の生きる道を考えたことなどない。
 おいで、と言われた。さし伸ばされた手を、訳もわからずに握った。そう言う風に、言われていたからだ。客の言うことは、聞くこと。逆らわないこと。
 男は、ジェイクと名乗った。
 そして何も知らない小鳥に、外の世界を見せてくれるのだと言った。  ウォンが遠慮がちに扉を叩くと、それは音もなく開いた。ジェイクのプライベートルームのようになっているそこは、あっけないほど閑散としている。置かれているのは、仮眠用のソファーベッドと、コンピュータだけだ。
「お昼、まだでしょう?カプセルばかりではあまり身体によくないですよ」
 ウォンのその言葉に、返答はない。真剣にコンピュータの画面を見詰めていて、ちらりとも視線を寄越さない。ここ三日ほど、ジェイクはここに篭り続けている。
 画面に映っているのは、特殊な暗号か何かのようで、ウォンには何なのか全く分からない。ジェイクにはそれを説明する気は、無論ない。
 ウォンは諦めたように持っていたトレイを近くの机に置くと、そっとそのそばを離れた。こうしてこの部屋に入れてくれるようになっただけでも、良しとするべきなのかもしれない。と言っても、こんな風にウォンには何も分からないときだけなのだが。
 そっと出ていこうとすると、後ろで呟くような声が聞こえた。
「ありがとう」
 意識のまるでないような声だったが、ウォンはそれに、胸を詰まらせた。
 いっそもっと、突き放してくれたら。
 何度もよぎる、その思い。
 ウォンは、メイの弟であることを、初めて呪った。
 そのために、ジェイクと出会った。
 だから、今ここにいることが出来る。
 あの暗く陰惨な籠から解き放たれて、驚くほどの外の世界を、知ることが出来た。
 でも今は……
 それ故のジェイクの優しさが、あまりに切なかった。
 部屋を出るとまた、扉が音もなく閉まる。その扉を開けることは、出来ない。自分の手で開けることは、できない。
 
 
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