サイレント・ノイズ 第三話
――柔ラカイ光――
06
哀しいほどに、淫靡な姿だった。
後ろで静かにドアが閉まる気配を感じながら、ジェイクは小さな、長いため息をつきながら、天井を見上げた。数日前のウォンの姿が、その白い天井に淡く浮かぶ。
男を餌にする目をしていた。どうすれば、喰らいついてくるか、分かりきっているとでも言うような。口付けたときに、即効性の睡眠薬を飲ませなかったら、あのままジェイクに喰らいついてきただろう。それでもなお阻止できたか、ジェイクにはわからない。
ジェイクはもう一度ため息をつきながら、カツカツと音をさせて廊下を進んだ。梅花の情報屋のほとんどが梅花の組織の中で住んでいることが多いが、ジェイクは一人、違う地区に部屋を借りている。でも、その部屋に帰る気は、起きなかった。
「メイ?」
「どうぞー」
ジェイクが控えめにドアを叩くと、メイの少し嬉しそうな声が返ってきた。また、若い男とどこかへ行く約束でもしたのだろうか、と思って苦笑しながら、ジェイクがドアを開けると、予想に反せず、メイは自分を飾り立てることに夢中になっていた。
「お邪魔でしたか」
部屋に満ちる香水の匂いに、ジェイクは苦笑を強くした。高いオリジナルの香水を、惜しみなくはたいているのだ。
「ねぇジェイク、この青のストールと赤のストール、どっちがいいと思う?」
メイは銀色のぴったりとした丈の長いドレスに身を包んでいた。太ももまで入ったスリットが、シンプルなドレスに艶かしい花を添えている。
「青、かな」
そのスリットからのぞく足も、覆われていない肩や首筋、胸元まで、まるで十代のような肌をしている。これでまた今晩も、誰かが騙されるのだろう。
気の毒に、とジェイクは心の中だけで思う。
「時間はあるわよ。ちょっと待たせるぐらいがいいのよ」
全身が映る鏡に自分の姿を映しながら、メイが言う。ジェイクが何も言わずに立っていると、鏡越しにジェイクににっこりと笑いかけた。
「ウォンのことでしょう?」
敵わないな、とジェイクは思う。メイには隠し事はできないのだ。どうぞ、とソファーを指されて、ジェイクはゆっくりとそこに身を沈めた。
「シャンパン?」
「喜んで」
ジェイクは組織の財産についてはよくわからない。が、メイの部屋に来ると、それが膨大だと言うことだけはわかる。そうでなければ、どうやってシャンパンなんて手に入れるのだ。本物を愛すメイが、化学混合物の偽シャンパンを飲むわけがない。
「あまりウォンをいじめないでね、ジェイク」
薄くばら色のついたシャンパンを細いグラスに注ぎながら、メイが笑いながらそう言う。
「いじめてなんていませんよ。でも」
「コンビを解消したい?」
長く綺麗に磨かれた爪がぶつからないようにしながら、メイはグラスを持ち上げる。
「……」
「わかっているなら、どうしてコンビを組ませたのかって?」
「……」
「飲まないの?」
「……いただきます」
いじめているのはそっちじゃないか、とジェイクは思いながら、絹のような口当たりのシャンパンに目を見開いた。
「ウォンがそうしたいって言うから。大事な弟のわがままはねぇ、つい聞いちゃうのよね」
シャンパンになのか、弟の話をしているからなのか、甘く瞳を細めて、メイが言う。
「大事なら……大切なら、どうして情報屋になることを許したんです?」
メイの弟と言うだけで、ウォンは危険を背負っている。だからこそ、メイはウォンが弟だと言うことも、弟がいるということさえ、隠しているのだろう。
「あのねぇ、ジェイク……」
メイはグラスをテーブルに置きながら、今度はジェイクのことを可愛い弟とでも言うような目で見つめた。
「籠の中に閉じ込めるように、誰の目にも触れさせずに可愛がることが大切にするってことじゃないでしょう?自由を保障してあげること、そのために守ること、それが私のできることだわ」
メイがもう一度、にっこりと笑う。
「自由を保障すること、それを守ること……」
ジェイクがそう呟いた。
「どうしてパートナーを欲しくないのか、もう一度よーく考えてね」
メイのその言葉に、ジェイクは何も答えることができなかった。
わかっているのだ。
自分が何を、怖がっているのか。
何を、恐れているのか。
「ジェイクに聞いてみたらいいよ」
自分たちがいることが嫌にしっくり来るファーストフードの店内で、カイはそう言った。赤い髪に緑色の目。カイのそれは天然だが、まわりには青も緑も黄色も紫も、色とりどりの髪の色をした若者がごちゃごちゃといる。
もちろん、ウォンのような黒髪の若者もたくさんいた。とにかく、ごちゃごちゃという以外ないほどの、混みようだった。ウォンはそのことに落ち着かない。
「何を?」
携帯端末にカイから連絡が入ったのが、つい先刻のことだった。会って、話をしようよ、というのがその内容で、ウォンは自分がカイのことを調べているのがばれたのだと思って、どきどきしながらこのうるさい店内に入ったのだ。
でも、カイはそれについてはたいして怒ってもいなかった。別件で身辺に気をつけているからわかったんだ、と笑った。その潜り込みを阻止したのが、ジェイクだと言うことも、カイは知っていた。
「なんで、パートナーを作らないか」
これだけの人がいても、カイはウォンがすぐにわかった。それだけ、目立つのだ。白い肌に、黒い髪。すらりとした手足に、華奢な身体。ジェイクが良く手を出さない、と不思議なほど、ウォンは男の目を惹きつける。本人はあまりわかっていないようだが、そのほうがいいとカイは思った。
「それはっ……カイをパートナーにしたいからだろう」
最後の方を早口で、小さく言ったウォンを、カイは、可愛いなぁ……と思いながら眺めた。少し拗ねたような顔がまた、思わず笑みをこぼさせる。
「なんだよ」
拗ねたままの口元で、ウォンが笑っているカイを咎めるように呟く。
初めは警戒するようだったウォンも、少し話したらすぐに、昔からの友人のような口調になった。それは、カイの努力の成果でもあったし、二人の相性のよさでもあった。
「いや……別に」
可愛いなんていったら、また拗ねるだろう。それはそれで楽しそうだが、カイはここに、ウォンをいじめる気で来たわけではない。
「ジェイクはなぁ……別に俺をパートナーにしたいわけじゃないんだよ」
「でも、そうずっと言ってるんだろ?」
「ずっと、ね……。それがジェイクの狙いなんだよなぁ」
ウォンが分からない顔をすると、カイが苦笑した顔を見せた。それは、少し淋しそうだ。
「ジェイクは、俺は絶対組織に入らない、自分のパートナーにはならないって、確信してるんだよ。実際、その通りだけどね」
だから、ジェイクはカイをパートナーに、と言ってはばからないのだ。
「そうかな……」
「そうだって。大体、俺とあいつは「ライバル」って言うのが一番面白いと思ってるんだから」
それはそれで、羨ましい気がする、とウォンは思いながら、ジュースを啜った。
「じゃぁ、なんでパートナーを作りたがらないんだよ」
「だから、それをジェイクに聞いてみなって」
笑うカイは、きっと知っているに違いない。この緑色の瞳の中に、何もかもが詰まっている気がする。例えば、自分のことも。
「なぁカイ」
「ん?」
「もしかして、僕が誰かって言うのも知ってる……?」
カイはその問いに、にっこりと笑っただけで、答えなかった。