サイレント・ノイズ 第三話
――柔ラカイ光――
05
「行こう」
ふいにウォンが言って、ジェイクの手を引いた。ジェイクは、訳がわからずに、眉根を寄せる。
「どこに行くつもりだ?お前は帰って寝ろ」
「子供だから?」
「あ?」
「……子供じゃないよ」
夜が深まるにつれて、街は活気付いてきた。地下ゆえにこもる、独特の匂いが、その闇とともに濃くなっていく。
ウォンは黙って、またジェイクの手を引いた。ジェイクが抵抗して動かずにいると、その手をするりと撫で上げて、下から見上げるようにジェイクの顔を覗き込んだ。
ぞくりとするほど、艶やかな表情だ。
「ねぇ……」
そう言って口元を、誘うように舐め上げる。白い肌に、その赤い唇が艶かしく光る。
欲情している。
ふちを赤く染めた瞳は、先刻までの色のなさが嘘のように、妖しく光っている。
「何を考えてる」
ジェイクがそう言うと、ウォンは小首を傾げた。わからない?とでも言うように。
一つ一つの動作が、表情が、ぞっとするほど色っぽい。
ジェイクは唇を軽く噛むと、ウォンの手を引いて歩き出した。それから裏通りの手近なホテルに入って、ひとつ部屋を取る。
部屋に入ると、ウォンが我慢できないと言うように、身体を擦り付けてきた。ジェイクはそれを受け止めながら、ウォンにゆっくりと口付ける。
恍惚とした表情をしてその口付けを受けていたウォンは、やがてゆっくりと、その身をずるりと床に沈めた。そして、その口から穏やかな寝息を立て始めた。
ウォンが窓からの光の眩しさに目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。ひどく簡素なつくりのその部屋が、安宿の部屋だとわかったのは、階下に降りてからだった。
「代金はお連れさんが払いましたよ」
そう言われて、ウォンは痛い頭で記憶を探る。
自分は一体、誰とここに入ったのだ?
朝の街は静かで明るく、でも、夜毎の騒ぎの残りをあちらこちらに留めていた。夜の街は、朝の光の中で見るようには出来ていない。道端に落ちているごみも、店の壁の卑猥な落書きも、闇には紛れるのだろう。
ふらふらと歩きながら、ウォンは自分が何をしにここに来たのか、思い出していた。そして、目的地に着く前に気分が悪くなって、バーに入ったこと、そこで男と会ったことを思い出した。
それからふと、ウォンは自分の唇に手を当てた。
ジェイク……
そうだ。ジェイクがいた。なぜ、彼はそこにいたのだろう?
唇は、生暖かい感触を、覚えていた。
夢を見たのだと、ウォンは思った。その夢があまりに切なくて、ウォンは知らずに、泣いていた。
ジェイクは変わらず、ウォンを邪険に扱った。あの夜のことには一切触れなかった。だからウォンは、あれは本当に夢だったのだと思うことにした。
ジェイクはずっと、忙しそうに何かを調べていた。ウォンには、一切何も言わない。だからウォンは、カイのことと平行に、ジェイクの今抱えている仕事についても、調べてみることにした。
携帯端末から、ジェイクの端末の軌跡を探る。直接本人の端末に忍び込むには、ウォンの腕が足りない。すぐにジェイクに見つかってしまうだろう。
でも、ジェイクは用心深く情報を探っていた。別の端末機でカモフラージュをしているのか、ある一定のところまでで、ジェイクの端末の軌跡が消えてしまうのだ。それ以上は、今のウォンではどうにもならない。
わかったのは、ジェイクがどうやら調べているらしい男の顔だけだ。
ジュリアーノ、三十五歳。二流銀行に勤めるサラリーマンだ。弱々しい顔をしているが、こういう人物の方が怖いことがあることを、ウォンは知っている。客でも、ひ弱に見える男の方が、力の誇示に執着して、ひどいことをすることが多かった。
この男の何を調べているのか、肝心なところはわからなかった。
諦めてカイのことを探ろうと、国の管理コンピューターに忍び込んだウォンは、カイの情報を引き出す一歩手前で、何者かに邪魔をされた。調べると、その端末の識別番号コードは、ジェイクが使っている偽造識別コードだった。
「ウォン」
いつの間に開けられたのか、部屋のドアに寄りかかって、ジェイクがいた。
「……なぜ、邪魔をしたんです?」
ジェイクのことだ。ウォンがジェイクの偽造識別コードを調べたのは、知っているだろう。梅花の中にいれば、それはさほど難しいことではない。
「死にたくなかったら、これ以上手を出すな」
ジェイクはそれだけ言うと、出て行こうとする。
「なぜ?」
カイのことを調べられるのが、それほど嫌なのだろうか?ウォンは子供じみた考えでそう思うと、唇を噛み締めた。
「それほど、大事なんですか?」
「何を言っている?」
ジェイクが、呆れたようにため息をつくのが部屋に響く。
「なぜ梅花は、彼の情報をたったあれだけしか持っていないのです?他の情報屋のことは、何ページにも渡って調べてあるのに」
そしてなぜ、邪魔をしたのか。
「とにかく、カイのことを調べるのは諦めろ」
ジェイクは冷たく、それだけ言う。ウォンの問いに答える気などないのだ。
「そんなに、僕は邪魔ですか」
「ウォン」
「それならどうして、僕を探し出したりしたんです?!」
そう言って、ウォンは初めて顔を上げた。その顔が、怒っていると言うより悲しそうなことに、ジェイクは唇を噛み締めた。
何も知らない、籠の中の小鳥に、外の世界を見せてあげようと言ったのは、確かに自分だった。
それが、どうしたことだろう。
ウォンは今、哀しそうな瞳をしている。
まるで、何も知らなかったほうが、幸せだったとでも言うように。
「メイに、パートナーを変えてもらうように言うよ」
ジェイクはそれだけ呟くと、部屋を出ていった。
ウォンは一人残されて、何も言えずに、ドアが閉まるのを見つめていた。
届かないのだ。
どうしたって、あの背中に手を伸ばすことは出来ないのだと思うと、ウォンは暗い部屋の中で一人、ただ立ち尽くすしかなかった。