蜜と毒 |
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10 抱き合うたびに、これが最後かもしれないと思い出したのは、いつからだっただろう。 そんな思いを抱えながら、もう何度も抱き合っている。 互いの引き際の悪さに苦笑しながら、もう少しと、引き伸ばして、無視している。 その夜、外は雪が降っていた。 電気を消して闇にしても、外の雪明りに、互いの肌がぼんやりと浮かんでいた。もう春に近い頃の雪は水分を含んで、大きなぼたん雪になっていた。それが、音もなく降りつづいていた。 こうして二人は、こんな雪のように何もかもを隠してきたのだ。音もさせず、気配さえ見せずに、ゆっくりと、でも確実に。 それでもこの雪は、明日の春の陽光に溶かされるだろう。きらきらと輝く春の光は、柔らかくも、温かい。雪は、その光に抵抗すべき術を知らない。 ――時は、流れてしまう。 雪の下の花も草も、隠れているだけで、無くなってはいない。 「ユー……ッ」 突然に手を掴まれて、背中で縛られる。紐代わりにされたのは、さっきまで着ていた、京梧のシャツだった。京梧は一瞬のことに抵抗できず、されるままになった。最初の夜が、思い出された。でもあの時は、こんな荒くはなかった。 「そんな顔するなよ。挿れないよ」 裕貴が、おかしさを堪えられないと言ったように笑みをこぼしながら、京梧を見下ろしてそう言った。さらりと髪が落ちて、裕貴の表情を京梧から隠す。京梧の上にまたがって、そっとその胸に手を滑らせる。ゆっくりと、皮膚の下の骨まで確かめるように、余すところなく、触れていく。その指先は、微かな震えも逃さずに拾い上げて、裕貴を微笑ませる。 「ユーキっ。手、解けよ」 「そんな可愛くないこと言ってないで、喘いだら?じゃなかったら、口も塞いじゃうよ」 「なっ……」 抵抗しようとして身を捩ると、突然咥えられて、京梧は言葉を失った。生暖かい舌が絡みついて、裕貴の熱も知らせる。 「強情だなぁ……声、聞かせなよ」 執拗に責めても、微かに声を漏らすだけの京梧の耳元でそう囁きながら、裕貴は足を絡ませた。その感触に、京梧が思わず声を漏らす。互いの熱が、熱い。 静かすぎるほど静かな夜は、どんな音も響かせて、二人を少しずつ狂わせた。裕貴の手が京梧の肌の上を滑る、その音さえしているようで。 小さく、小さく囁かれる、京梧の名も。 それは、あまりの静けさに、こだましているようだった。 「ね、俺のもして」 裕貴はそう言うと、京梧の頭を掴んで、下にずらしていった。京梧は手を使わずに、裕貴の全身を丹念に愛撫した。 裕貴が泣けるほど優しく、執拗に。 きつく肌を吸い上げると、京梧の髪を裕貴が掴む。それでもその手は離されずに、京梧を促した。 結局、最後まで裕貴は京梧を自由にしなかった。自ら腰を落として、揺らしつづけた。 何度も、何度も。最後に意識を手放したのは、京梧だったはずだ。 そんな風にしか、出来ない。 最後まで、二人はそんな風にすることしか、出来なかった。 京梧がゆっくりと目を開くと、裕貴がベッドの縁に腰掛けて、煙草をふかしているのが見えた。手のシャツは解かれていて、うっすらと赤くなっていた。横になったままぼんやりとそれを眺めていると、裕貴が気づいて、視線を向けた。にやりと、笑う。 「痛かった?」 言いながら、目を細めて、くわえ煙草のまま手をそっとその跡に滑らせる。煙草の所為か、シャツ一枚でぼんやりとしていた所為か、その指は冷たく、火照った手首には、気持ちが良かった。 京梧は答えずに、自分の手首を撫でるその指を見ていた。チョークで少し荒れた手は、それでも形良く、きれいに切り揃えられた爪は、綺麗なピンク色をしていた。 「雪、止んだんだ」 「……あぁ、良かったな」 「でも、積もっただろ?」 「少し、な」 裕貴がまた背を向けて、煙草をふかす。朝の光に、紫煙が照らされて、流れていく。 「萩に言われたよ。馬鹿なことをしてるって」 やっぱりばれてたな、と裕貴が呟いた。京梧は小さく、あいつは余計なことしか言わない、と笑った。 「違うだろ。お前の周りは、みんなおせっかいで、正しいことばかり言うんだよ……」 尚登も、明里も。 尚登に馬鹿なことをしている、と言われたとき、裕貴はそのあまりもの正しさに、笑った。 「傷つけあって、終わりに向かっていく関係なんて、意味がない」 珍しく尚登が苦々しくそう言って、ごみ箱に空き缶を投げつけるように捨てた。二人をどうしても理解できなくて、拗ねているように。 その通りだと、裕貴は思った。意味などない。始めから。 でも、正しいことばかりを追いかけていることも出来ない。そうやってだけ、生きていくことなど、出来ない。 萩にも、いつかそれがわかる日が来るだろう。裕貴は煙草をふかしながら、そう思った。 「正しいことばかりなんて、それだけじゃないだろ?生きてくことは」 もっとぎりぎりの気持ちだって、あるはずだから。京梧がそう言うのに、裕貴は微かに笑って、指で京梧を呼んだ。京梧がゆっくり起き上がると、裕貴が煙草を思い切り吸い込んで、京梧に口付けた。 生暖かい煙が、ゆっくりと京梧の口に移ってくる。 「……さよならだ」 紫煙が、二人の唇の間から、ゆっくりと立ち昇った。 今日は、卒業式だった。 春を別れの季節にしたのは、一体誰だったのだろう。 春の孤独は、一層痛いのに。 京梧は一連の式辞を聞きながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。 「これはみなさんの栄えある第一歩でもあり……」 誰かが、そんなことまで言う。 斜め右前に見える裕貴は、きっちりとスーツを着こなしていて、数時間前まで乱れていた風には、とても見えない。 こんな風に、戻ってくる場所がないと、裕貴はあんな行為は出来ないのだろう。 二人のことを、罪だと言う裕貴には。 そんな関係のほうが、確かに強く、たとえ壊れてとしても、傷つくことは少ないかもしれない。京梧にも、それはわかっていて、裕貴のそんな弱さを、笑うことは出来なかった。 だから、嫌だと、裕貴を引き寄せることが出来なかった。 追いかけることに、なんとか縛ろうとすることに、疲れたのかもしれない。京梧が望んだのは、そんなことではなかったから。 裕貴もきっと同じなのに、甘く穏やかな関係を怖がっていた。それが脆く、傷つきやすいものだと、分かっているから。 あれが最後だと、京梧は抱き合っているときから分かっていた。手を縛ったあの時、裕貴は自分がどれだけ思い詰めた顔をしていたか、分かっていないだろう。まるでそれが義務であるかのように、京梧を犯さなければ別れることが出来なくて。 優しく抱いたら、きっと泣いていただろう。 そして、また別れられなかったのだろう。 ひどくしろと言われれば、そうやって抱いたかもしれない。でも、それで傷つくのは京梧だった。そうして別れたら、後悔するのは京梧に決まっている。京梧はそんな自分が幼いと思う。でも、それは本当のことだ。 春といっても、まだ冷たい空気が式場を満たしていた。座っている椅子からも、立ち上がったときの床からも、その冷たさがゆっくりと体に染み付くように、感じられる。 泣きたいと、京梧は思った。 きっと自分は泣きはしない。最後まで、まるで無関係の人間のようにこの式を見つめているだろう。 でも、泣いてしまえたらいいのに、と思う。 壇上で、尚登が答辞を読んでいる。こういう役目はいつも、尚登だった。 何もかもが、終わってしまう。 ――馬鹿なことをしている。 その通りだと、京梧はその尚登に向かって、声に出さずに呟いた。 |
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