蜜と毒 |
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11 明里の相手がわかったのは、卒業式からしばらく経ってからだった。裕貴の同僚の数学教諭が、籍を入れたと校長に報告したことが瞬く間に広がり、新年度の始めはその話題で持ちきりだった。 「何も報告しなくても良かったんじゃないか?」 裕貴はそう言ったが、きちんとさせたかったんだと、新倉は照れたように笑った。 新倉は裕貴の一つ先輩で、真面目だが気さくで、職員会議などでもしっかりとした発言をしていた。裕貴も赴任当初は色々と世話になったのを覚えている。よく飲みにも行って、互いに愚痴っていたこともある。 新倉が相手と知って、裕貴はあまり驚かなかった。逆に、何故気づかなかったのか、不思議なくらいだった。それくらい、似合いの二人だった。 「明里が卒業するまでは、あいつが大変な思いをしないように、坂城に迷惑かけたけどなぁ……」 ベランダで二人で煙草をふかしていると、下から生徒が手を振った。まだ一年生だ。裕貴は手を振り返しながら、ふと、新倉は明里から自分と坂城のことを聞いているのかもしれないと思った。横目で新倉を見ると、笑って同じように手を振り返している。その笑顔のまま視線をよこされて、裕貴は、やはりそうだと確信した。 「遠い世代の感じなのにな」 「ん?あぁ、一年生はかわいいよな」 恋愛対象になど、ならない気がするのだ。社会人と学生と言うだけで、大きな隔たりがあるようで。 「でも、そう思ってると、やられるんだよ」 実感のこもった声で新倉が呟いて、裕貴はふっと笑った。子供だと思うと大人で、大人扱いすると子供らしさを見せたりして。振り回されるのは、こっちなのだ。 「聞いた?」 呟くようにそう言うと、新倉は紫煙を吐き出しながら、あぁ、と答えた。 「校長に報告した後、少しごちゃごちゃしただろ?あの時、お前が色々弁護したり味方になってくれたりしてさ、嬉しかったけど、どうしてそんなに必死になってくれるのか、分からなくってね」 明里に言ったら、「坂城と同じよ」と言ったそうだ。 「坂城が父親の身代わりになるのは、同じような恋をしているからだ」 そう聞かされていた新倉は、そのとき、その相手を知った。 裕貴は必死に新倉を弁護しながら、結局京梧と同じことをしていると、自分で自分を笑っていた。 「間違ったことはしていない。ただ、教師と生徒として出会っただけで」 そう言い切る新倉に、憧れるかのように。 「驚いた?」 「まぁ、最初はね」 でも、なんだか納得してさ、そのことに自分で驚いたよ。そう笑う新倉に、裕貴は曖昧な笑みを返した。 新学年が始まって、三ヶ月が経っていた。京梧が近場の大学に受かり、そこに通っていることも知っていた。 でも、もう二人は会っていなかった。 裕貴はあの部屋を引越し、新しい部屋に住んでいた。とても、あの部屋では過ごせなかった。二人で作り上げた空間は、容易には壊れなくて。 特別でもなんでもない、日曜の午後が、ふいに思い出されたりする。キッチンに立つ京梧の後ろ姿も、二人で寝転んでビデオを見たりしたことも、忘れるには難しい空間だった。 あんな虚構は、簡単に崩れると思ったのに。 裕貴は新しく煙草を咥えた。 「紺、お前良く煙草吸うようになったな」 それがいつを境にしてのことなのか、新倉は分かっていたが、言わなかった。そんなことは、裕貴自身が良く知っているだろう。 「……そうか?」 たとえ、そんなことを言っていても。 時の流れに身を任せることは、裕貴の得意とするところだった。嫌なことも、何もかも、流れる時と一緒に、遠く彼方へと行ってしまう。 幼いときから、そうだったのだ。 京梧のことも、そうやって、いつか遠くへ行ってしまうだろう。 まるで、この煙のように。 裕貴は、青い空に溶けるように消えていく煙草の紫煙を、飽きることなく眺めていた。 時々、部屋でこんな風に煙草をふかして過ごす。ぼんやりと、紫煙を辿る。 ベッドの縁に腰掛けて、日が暮れるのを待つのだ。呼吸の半分以上は煙草の煙で、長く長く、その紫煙を吐き出してみたり、勝手に口から出て行く紫煙を眺めてみたり。 煙草は、身に染み付いた思いも思い出も、その紫煙ともに吐き出させてくれると裕貴は思う。思い出したくもないのに浮かんでくる景色も何もかも、止めてくれる。 閉め切った部屋の中は、少しずつ紫煙に満たされて、霞んでくる。匂いも、空気も紫煙に溢れて、それに包まれると、裕貴はいやに安心するのだった。 まるで機械であるかのように、裕貴は煙草を吸いつづける。 新しく引っ越した部屋の近くには公園があって、緑も多く、休日の午後には子供たちの声も聞こえる。 それが、自分にこんな風に煙草を吸わせるのだと、裕貴は思っていた。美しく、穏やかな午後を思い出させて。 窓の外の音は、離れているためか、作り物のような気がしてくる。そうやってまた、虚構が作り出されることを、裕貴は煙草を吸うことで阻止していた。 煙に満たされる空間が出来てくると、その外の音さえも遮断してくれる。 夜になって、やっと窓を開けると、全ては元に戻ってしまう。でももう、子供のはしゃぐ声は聞こえない。 木々のざわめきや、車の音や、新鮮な空気に、裕貴はまた日々を過ごす決心をする。時は確実に流れている。止めてはならない。そう、呟くように言って。 そんな日曜の午後を、裕貴は時々、過ごしていた。 大学に入った京梧は、時々遠くを見るような眼をする。その顔は、胸を痛くすると、明里は思う。 「なんだか、一人で大人になちゃったみたいね」 そう笑う明里に、母親になった人が何を言うのか、と京梧は言う。すやすやと寝息をたてて眠る明里の子供は、まあるく、愛らしい顔をしていた。開いた小さな手のひらに指をのせると、きゅっと握り返すのが可愛くて堪らない。 紺先生と同じ事をしてる、と明里は声に出さずに呟いた。 裕貴もそうやって、何度も何度も、目を細めて手のひらに触れる。「ちっちゃいなぁ」そう、言いながら。 「家、出たんだって?」 「うん。近いけど、ちょっと自立してみたくて」 家から充分通える距離の大学を選んだのに、京梧は一人暮らしをしていた。生活費は、バイトをして稼いでいると言う。 「働き詰だって、萩が心配してた」 非難する風でもなく明里がそう言って、京梧は眠る萌(もえ)に笑いかけた。 働いて、勉強をして、生活をする。それだけで精一杯の毎日を、京梧は送っていた。ほとんど、強制的に。 疲れて、何も考えずに眠る夜がないと、京梧は眠れない。 「お前の周りは、おせっかいで……」 そう言った、裕貴の声が思い出されて、京梧は唇を噛み締めた。 時々、穏やかな日の光に、気が狂いそうになる。生温い温かさに部屋が満たされると、京梧はもう、何も出来なくなる。暖かな日の光に当たると、そうして、すぐ傍に温もりがあったことを、思い出す。 明里の家からの帰り道、京梧は道々に様々な思い出が転がっているのを見る。 裕貴の家に行くときは、こうして角を曲がると、コンビニがあった。時々二人で買い物に行ったりもした。裕貴はコンビニに行くと、必ずといっていいほどアイスを買って、――それが冬でも――溶けないうちに帰ろうと、京梧を引っ張るのだった。 裕貴の部屋のあるアパートに、大学に入ってから一度だけ、行ったことがある。ゆるい坂道の上にあるそのアパートは、クリーム色の概観が、夕陽を受けてオレンジ色に染まっていた。 いつもそうしていたように、坂を登ってきたところでその窓を見上げると、貸家の張り紙が、きれいに張られていた。 引っ越すだろうことは、京梧にも分かっていた。それを、確かめに行ったようなものだった。むしろそのアパートが本当にあったことのほうが、不思議なくらいだった。 何も、なかったかのように。出会いなど、なかったかのように。 裕貴と過ごしたあの虚構の日は、京梧の今まで生きてきた中の、ほんの数日のことのはずだった。 多分、簡単に、他の日々に取って代わるほどの―― 新倉と明里の結婚式が行われたのは、明里の卒業から二年ほど経ってからのことだった。子供も大きくなり、落ち着いてきたところで、内輪だけの小さな式を挙げることになったのだ。 「届いた?」 昼休みに新倉がそう聞いてきて、裕貴は届いたよ、と笑った。裕貴は何度か子供の顔を見に行ってもいたし、明里の母親ぶりも見ていたが、かしこまった感じに二人の名前が並んでいるのを見ると、なんだかおかしかった。 「来いよ」 「……あぁ」 「新郎側の同僚一人もなしじゃさすがになぁ……だから、絶対来いよ」 そんなこと、気にする二人でもないだろうに。裕貴はそう思いながら、それでも、「行くよ」ともう一度返事をした。 年が明けて、新しい一年が始まろうとしていた。 そしてすぐに、春が来る。 また、あの痛い、孤独な季節が来る。 痛みの原因を忘れたとしても、この痛みは消えないのではないかと、裕貴は思っていた。 |
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