home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 * 14
ユーフォリア――euphoria――
13
何も言わない伏見に七緒が焦れ始めた頃、ようやく伏見は口を開いた。
「ご両親のことがどうしても気になって、さっき自助グループで哲史くんを担当していたスタッフに電話してみたの」
伏見はそう言って、いったん言葉を切った。
「あのとき、ご両親も一緒にカウンセリングを受けていたでしょう?それで、そのスタッフにも聞いてみたんだけど……。たぶん、ご両親のほうは何も問題は解決してないかもしれませんねって」
「どう言うことだ。一緒に面会に来たり、迎えにだってきたんだろう?」
「そう、今までのことが嘘みたいに仲良くね。でもその後、どうやら多額の寄付金が入ったらしいのよ」
「寄付金?」
「別名、口止め料」
その言葉に、七緒は一瞬言葉を失って、それからゆっくり息を吐くと、ソファーの背もたれにどさりとその身体を預けた。
「ようは、世間体、か」
一緒に子供のことを心配して見せたのも、迎えに来たのも。根本的なところでは、何も変わりはしなかったのだ。
「根深すぎるのよ。なんでも、結婚自体政略結婚で、その深海氏は来月には院長選を控えてるらしいわ。それに、これはかなり内密って事で教えてもらったんだけど……」
伏見が珍しく言い淀んで、七緒はソファーから背を起こした。
「以前にちょっとご両親のことを調べたときに出てきたらしいんだけど。どうやら哲史くんは、人工授精で生まれたらしいのよね」
「おい……」
「それも、代理母でね。まあこれは、噂と言うか憶測の域を出ないらしいけど」
伏見はそう言って、疲れたようにため息を吐いた。
「役目……」
「なに?」
「前に、哲史が言ってたことがあるんだよ。役目さえ間違わなければ大丈夫だって」
七緒はそう言いながら、そのときの哲史の驚くほどさばさばした顔を思い出していた。哲史は、知っていたのだろうか、と思う。自分が、どんな風に生まれてきたのか。
「役目って……なんて……」
なんてひどいことがあるのだろう、と伏見は思った。子供に、そんなことを言わせるなんて。
思わず絶句した伏見に、七緒は礼を言いながら立ち上がった。さっきの、痛々しいほどの哲史を思い出したのだ。とにかく今は、哲史を一人にすべきではない。
「七緒」
携帯を取り出して、電話をかけようとした七緒を、伏見が呼び止めた。
「あなた、哲史くんの気持ちに対して、何も答えてないでしょう?」
ぬるま湯の中のような関係だと、哲史が一度自嘲気味に笑ったことがある。それが切なくて、伏見は何も言えなかったのを覚えていた。
「中途半端は、残酷だわ」
身代わりも、ね。呟くように言った伏見を、七緒はじっと見つめた。
「身代わりなんて思ってない。ただ、あいつが一人で苦しむのは耐えられない。それじゃあ答えにならないか」
傍にいてやりたい、と思う。傍にいて欲しい、とも思う。それが哲史に対する答えになるのか、七緒にもわからない。
「そうね、そこそこ及第点、って感じの答えかしら。ちゃんと、言ってあげなさいよ、それ」
伏見はそう言って、苦笑した。なんて、不器用なんだろうと、思いながら。
コートを羽織って外に出ると、夕暮れに街が染まっていた。吐く息まで、その日に染まる。携帯はなかなか繋がらない。留守電になるかと思ったところで、ようやく相手が出た。
「哲史?」
とにかく駅に向かおう、と歩き出した七緒は、慌てて哲史の名を呼んだ。でも、答えは返ってこない。
「哲史、七緒だ。今どこにいる」
「どうして?」
ようやく返って来た答えは、七緒の満足するものではなく、その上呟かれたように小さな声だった。
「どこにいるんだ」
七緒は自分を落ち着かせながら、優しく言った。後ろで聞こえている音も必死で拾ってみるが、街中だろうということしかわからない。
「俺、七緒に甘えないって決めたんだよ。決心、揺らぐようなことするな」
穏やかで、でもそれは必死に押さえているからだとわかる声だった。七緒はその哲史の強さに、眩暈に似た思いを抱く。
「わかったよ。じゃあ、俺に甘えさせてくれ。どこにいる?会いたいんだ」
逃げていたのは自分だ。卑怯だったのも自分だ。哲史はあんなにまっすぐ七緒を、そして自分自身を見つめていたのに。
「ずるいよ、七緒」
哲史の泣きそうな声に、七緒の焦りが募る。電話での声だけじゃなく、顔を見たかった。ちゃんとこの手で、捕まえたかった。
「ああ、俺はずるい。逃げてばっかりで、ちゃんと答えようとしなかった」
「いい。答えなくていい。でも、俺がんばるからさ、もうあの時みたいに突き放さないで」
――あのとき。
哲史の言葉に、七緒はぎりっと奥歯を噛んだ。どれだけ哲史のことを思ったからにせよ、傷つけたのは事実なのだ。もっと、もっと上手く出来たのかも知れないと、何度も後悔した。それさえ、哲史が更生したことに救われた。
「哲史、どこにいる」
「もうちょっと、待って。そうしたら、俺もっと強くなる」
哲史の声に重なって聞こえた音に、七緒はふっと顔を上げた。交差点の、信号機の音だ。
――同じ音がしている。
七緒は素早く周りを見渡すと、点滅し始めた横断歩道を走り出した。
哲史は、七緒が突然何も言わなくなったのを不審に思って、思わず小さな声で七緒の名を呼んだ。切れてはいない。
――でも、この音は……
はっと顔を上げたら、もう赤になろうとしている横断歩道を走ってくる長身の男が目に入った。コートの端を靡かせて、携帯を片手に持って。
哲史は思わず走り出した。さほど多くはないが、障害物に十分なりうる人を避けながら、小さな路地に入る。表通りから一本入っただけなのに、そこは閑静な住宅街で、突然人気がなくなった。後ろの足音が、はっきり聞こえる。名前を呼ばれた気もしたが、哲史はただ夢中になって走っていた。
逃げているのに、なんだか嬉しかった。七緒が、自分を追いかけてくれているのが。
公園に入ったところで、腕を捕まれた。やっと捕まえた、と荒い息の下で七緒が言った。冬の夕暮れの公園には人気がなくて、哲史の目に小さなブランコが映った。
「逃げるのを、捕まえるのが、警察の仕事、だっけ」
哲史も乱れた呼吸を整えながら、そう笑った。でもすぐに、ぐいっと肩を捕まれて、七緒に抱き込まれて、一瞬息が止まった。
「馬鹿が……仕事で追いかけたんじゃない」
はあ、とため息のように吐き出された息が、哲史の髪を揺らした。哲史も背は低いほうではないが、七緒はかなり大きい。哲史の頭が、ちょうど七緒の肩あたりに置かれるぐらい。それでようやく今の状況に思い至った哲史は、慌てて身体を引き離そうとした。
「こら、暴れるな」
余計にきゅっと抱かれて、哲史は抵抗を強める。頭と、腰を押さえられていて、手だけは自由なのに、押し返そうとして押し返せないのだ。
こんなのは困る――
走ったあとだからだけではなく、心臓がばくばく言っていた。
「七、緒っ」
離せ、と言っても、嫌だ、と言われる。
「甘えるの、やめたんだ」
「そう、だよっ。だから、離せよ」
「それで?誰に甘えるんだよ。間違っても伏見とか言うなよ」
七緒の手が、哲史の髪をゆっくりと撫でていた。哲史はそのあまりの心地よさに、とうとう抵抗をやめた。小さく、息を吐く。
「優しいじゃん、伏見さん。あれこそ憧れの年上のお姉さん……」
言ってる最中に冷ややかな視線を感じて、哲史は思わず顔を上げた。
「本気で言ってるのか?」
呆れたような七緒に、哲史は思わず笑った。
「俺より七緒のほうが知ってるだろ。それに、俺はもう誰にも甘えない」
最後は俯いて、でもはっきりと言った。その哲史の頭をもう一度、肩に押し付けた七緒は、長い息を吐いた。
「おまえは謝るなって言ったけど。やっぱり俺の不器用さを認めないわけにはいかないな。あのとき、おまえを傷つけることしか出来なかった」
「わかってる」
「違うよ」
え?と顔を上げると、七緒に微笑まれた哲史は、その優しい顔に思わず顔を赤くして視線を逸らした。
「違う。あんな風に、傷つけるべきじゃなかったんだ。でもあの時、俺はああすることでしか、おまえを手放せなかった」
俺が、駄目だったんだよ。七緒の囁きに似た声に、哲史はきゅっと唇を噛んだ。
「泣けよ」
哲史の心を読んだように、七緒が言う。何度も聞いた、何度も聞きたいと思った、優しい声だ。
「ただし、一人のときと、俺以外の奴の前では泣くな」
最後の自分の言葉に、七緒が苦笑する。この子供じみた独占欲の正体は、よく知っている。
いいよ、とでも言うように頭を軽く叩かれて、哲史はくっと声を漏らした。それからは、止まらなかった。ただただ、涙が流れるままに、哲史は泣いた。その間ずっと、七緒は優しく、温かい手でその髪を撫でつづけていた。
home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 * 14