01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 *




青空でさえ知っている

11

 玄関まで来て傘を広げると、一緒に入れて、と日尾がその隣に並んだ。手には何も持っていない。一度寮に帰ったのだろう。雨はまだ降り続いているし、もちろんとばかりに安里が少しスペースを空けると、ありがとうの声と共に、傘は日尾の手に渡った。悔しいことに、彼の方が安里より五センチは――日尾はのちに十センチと訂正しているが――背が高い。
「どうせ校庭には誰もいないよ」
 という言葉は本当で、篠つく雨にサッカー部も早々に引き上げたようだ。遠く、体育館と武道場から元気な声が響いていた。
 図書館に入ってきたとき、日尾は別段濡れてはいなかった。不思議に思ってすぐ隣のシャツを見てみるが、やはり濡れた様子はない。その視線に気付いた日尾が、苦笑を堪えたような顔で、「何?」と訊いてきた。
「一回、寮に帰ったんだよね? こっちに来るとき、傘はどうしたのかなって思って」
 日尾はいたずらな目をして、にっこりと笑った。
「もちろん、傘を差してきたよ」
「え? じゃあ……」
「でも、置いてきた」
「――なんで?」
   ふいに、日尾が立ち止まって、内緒話をするように、安里の耳に口を寄せた。
「中ノ瀬に、逃げられないように」
 囁きには、くすくす笑いもおまけについてきた。安里があっけに取られてその顔を見上げると「濡れるよ」という言葉と共に、肩を抱かれた。日尾は、心臓に悪い言動ばかりする。
 安里は「逃げないよ」と小さく抗議してみるが、日尾の手が離れることはなかった。傘に落ちる雨の音が、やけに大きく聞こえた。
 結局、安里は西寮を通り過ぎ、南寮まで日尾を送った。そして誘われるまま、部屋に行くことになった。
「俺、南に入るの初めてだ」
 そう言うと、驚いた顔をされた。「守谷の部屋は?」と訊いてくるので、首を振る。
「俺、本当に守谷とは何でもないよ?」
 南寮は、少し不気味なほど静かだった。西寮はいつもざわざわしている感じだから、余計だった。二階だから階段で行くよ、と言われて、後をついていく。
「わかってるけどね」
 本気でそう思っているのか、疑わしい口調で日尾が言う。その思いが顔に出たのか、部屋の鍵を開けながら、日尾は振り返って苦笑した。
「本当に、わかってるよ。っていうか、中ノ瀬が階段で言った言葉を信じてる。あいつが長倉一筋なのも知ってるし」
 入るように促されて、安里は小さく「お邪魔します」と頭を下げた。
 部屋の作りは、変わらなかった。ただ、一人で使っているために、広さは感じる。
「でも、そう思っても、中ノ瀬が一番自然に話してる感じがするから、馬鹿馬鹿しいけど嫉妬しちゃうんだよな」
「嫉妬……」
「そう、嫉妬」
 日尾が突然振り返って、そのあまりに近い距離に、安里は息を詰めた。茶色い目を、まともに見てしまう。
「適当に坐って。今、何か飲むもん持ってくる」
 くるりと向きを変えた日尾に、安里は止めていた息を吐き出した。それからふらふらと、ラグの上に坐った。
 日尾は両手にケーキの乗った皿を持って、すぐに戻って来た。安里が目をぱちりとさせると、満足げに微笑む。
「食堂で買っておいたんだ。ささやかだけど、二人で打ち上げしようと思って」
 テーブルにケーキを置くと、今度は両手にカップを持ってくる。安里の目の前に置かれたマグカップには、アッサムと書かれたタグのついた紅茶バッグが入っていた。日尾のカップには、コーヒーが入っているようだ。
 ケーキは苺のショートケーキだった。オーソドックスなそのケーキが、少々子供っぽいと思いながらも、安里は大好きだった。まさに、本を読みながらご褒美に食べたいと思っていたものだ。
「食堂で売ってるんだ……」
「知らなかったのか。テスト明けは、結構色々なケーキがあるよ。売れるんだってさ。まあ、甘いものが食べたくなるのもわかるよな」
 日尾は坐ると、食べよう、とフォークを持った。ケーキ用のフォークなんてものは、大概の部屋にはないので、ここでケーキを食べるときは、大きなフォークか手づかみが主流だ。ときには箸、という生徒もいる。
「美味しい」
 安里は一口で、幸せ一杯になった気がした。目を輝かせて日尾を見ると、彼も嬉しそうな顔をしていた。
「本がなくて悪いけど。今回は勘弁な」
 言われた言葉の意味を図りかねて、首を傾げる。それから、日尾がテスト明けの「ご褒美のケーキと読書」のことを言っているのだと気づいて、驚いた。
「なんで?」
「ん? だって、図書館報に書いてただろ?」
 一度、図書館報で読書の友特集を組んだことがある。本を読むときに、欠かせないもの、あったら幸せになれるものを各委員が紹介したものだ。安里は確かに、ケーキと紅茶を挙げた。だが、あれはずい分前のことだ。去年の夏頃だから、一年ほど前になる。安里はどんな顔をしたらいいのかわからなくなって、俯き加減で紅茶を一口飲んだ。
「本はなくてもいいよ。日尾がいるから」
 安里には、そう言うのが精一杯だった。正直な気持ちでもある。カップを置きながらちらりと目の前の顔を見ると、じっと見つめられていた。その瞳に捕えられたように、視線を外せなくなる。
 どれくらい見詰め合っていただろう。ふいに日尾がテーブルに手をついて、身を乗り出してきた。その手が片方、安里の顔に伸ばされる。頬を包んだ指はすうっと顎に滑っていき、くいっと顔を上げさせられる。ゆっくりと綺麗な茶色い目が近づいてきて、安里は目を閉じた。
 柔らかくて温かい唇の感触を、最初は瞼に感じた。それからその温かさは、頬に、唇に滑り落ちてくる。優しく吸われると、頭の芯がぼうっと霞んだ。
 しばらく重なっていた唇が、そっと離れていくのが名残惜しくて、目を開ける。目の前の端正な顔がふっと緩んで、霞んでいた頭の芯が熱くなったのがわかった。
 幸せな気分のまま、苺を食べる。それは少しすっぱくて、ほんのりと甘かった。


「ええー! 信じらんねえ」
 一際大きい二葉の声が、薄闇に響いた。闇が薄いと言うより、靄がかかっていると言った方がいいかもしれない。あちらこちらで点される花火から、大量の煙が出ていた。
 安里は消えた花火をバケツの水につけて、隣のゴミ袋に入れる。二葉の声に振り返ると、肩を竦める日尾が見えた。
 夏休みに入ってすぐ、花火大会が催された。と言っても、手持ち花火をやるだけなのだが、山の中の九重の校庭でやる分には、どれだけ騒いでも苦情は出ない。夏休みの開放感も手伝って、みんな大いに楽しんでいた。
 安里が日尾のもとに戻ると、二葉は疑り深い目で日尾を見ていたし、綿内は「俺はちょっと日尾を見直したなあ」と頷いていた。ちなみに路は、「花火を振り回すな!」と遠くで先輩に怒られている。
「どうしたの?」
 訊いても、日尾は笑って肩を軽く竦めるだけで、何も言わず、新しい花火を渡してくれた。色を変えてまだ火花を散らしている日尾の花火から、もらい火をする。二葉が安里に何か言おうとしたが、日尾に襟首を掴まれて、後ろに引っ張られていった。
「気にしないほうがいいって。二葉のデバガメ的好奇心の餌食になるだけだから」
 安里がちらちらと二人を見ていると、綿内が呆れた口調で言う。しゃがみ込んでいる彼の隣に、安里も膝を抱えるようにして、腰を落とした。花火は赤から白に変わっていく。さっき、色の変わる花火をいいなあ、と羨んだのを、日尾はちゃんと聞いてくれていたようだ。
「線香花火トーナメントやるぞー。用意しろー」
 遠くから都築実行委員長の声がして、日尾と二葉が線香花火を配り始めた。渡された線香花火は、昔ながらの赤と緑のこよりで出来ていて、他の花火に比べれば少し頼りない感触だ。
 あちこちで、最後の火花が散っていく。微かな風が、煙をゆっくりと山の方に運んでいく。いつの間にか、手に蝋燭を持った日尾が隣に来ていた。
「競争しよう」
 言われて、安里は頷く。辺りはしだいに闇に包み込まれていき、それと共に、静寂も訪れる。真っ暗な中に、煙がゆったりと流れていった。
 その煙が途切れた頃、前の方で蝋燭の火が一つ、灯った。それから、朝日を浴びた花のように、あちこちで次々と小さな火が咲いていく。日尾も、蝋燭を地面に置くと、火を灯した。
 ぐるりと、何人かでその火を囲んでしゃがみ込む。この中で勝ち残りを決めるのだ。日尾の「用意」の声で、みんなが一斉に線香花火を摘んだ。
 スタートの合図で、花火の先に火をつける。
「あ、燃えすぎー」
「うわー、落ちる落ちる」
 あちらこちらで悲鳴が上がる。安里は無事点火し、ゆっくりとその花火を自分の前に持ってくる。じじじっと微かな音がしていた。
「中ノ瀬の、大きいな」
「そう? でも、大きい方が早く落ちそう」
 隣で日尾も、なるべく揺らさないように花火を持っていた。暗闇に咲く小さな花に目を奪われる。
「これ、くっつくよな」
「あ、小さい頃やったことある」
 日尾が花火を近付けてきた。慎重に、その先端がぽとりと落ちないように、ゆっくりと。
 じじじ、と静かに燃える先端が震えている。安里もそっと、左にそれを動かした。二つの小さな玉が、吸い付くようにくっついた。
 少しばかり大きくなった花火を、息を詰めてみつめる。ちらりと隣を見ると、日尾も横目で安里に目を向けていて、思わず二人で微笑んだ。
「あ、終わる……」
 飛ぶ火花が、どんどん小さくなっていく。結局、二人の花火はくっついたまま、静かに消えていった。
「オレの勝ちー」
 二葉が控え目にガッツポーズをしている。まだ燃えているのだ。
「でも、なんか勝った気がしない……。俺もやりたかったなー、そうやってくっつけるの」
 二葉は恨めしそうに綿内を見ていた。何度も同じことをやろう、と誘っていたのに、綿内が嫌がったのだ。当の本人は、知らん振りをしてゴミを片付け始めた。
「あっちゃん、冷たいよねー」
 二葉がぶつぶつと言っている。安里はなんだか可笑しくなって笑った。
「ほら信吾、二回戦始めるぞ」
 日尾から燃え尽きた花火を受け取り、安里がそれを綿内に差し出すと、綿内は少しの間それを見ていた。


 後片付けは全員でやるのだが、やはり中心となるのは実行委員で、安里も最後までバケツを運んだり、ゴミ拾いをしたりした。今は校庭の周りに明かりがついていて、祭りの後の淋しさを照らし出していた。
「おまえたち、やっとくっついたんだなあ」
 日尾が持っていたゴミ袋に、安里が集めてきた燃えカスを入れたところで、委員長の都築がしみじみと言った。安里は思わず日尾を見て――すぐに勢い良く、都築を振り返った。
「え? 都築先輩……?」
「いやー、良かったな、日尾。報われたじゃないか」
「ほんとほんと。いちゃついちゃってさ」
 三年代表の光武まで来て、にこにこと笑っている。
「ほんとですよー。人目も憚らずって、ああいうのを言うんですよね。当てられる身にもなって欲しいですよ!」
 安里たちの後ろから訴え出たのは二葉だ。ぽいっとゴミを袋に投げ入れる。
「ちょっと待って。あの、どういうこと……?」
 困惑顔で見上げる安里に、日尾は苦笑しつつ首を振った。
「別に俺が言ったわけじゃないよ」
「日尾は何も言ってくれないよなあ。でも、二人を見てたらわかるだろ?」
「わかりますよね。それなのに、お互い片思いとか思ってんだから」
 二葉がおおげさに首を振る。都築も光武も、へえ、と面白そうに笑った。
「なんでわかんなかったのかなあ。中ノ瀬はこんなに素直で正直だし、日尾は――隠す気なんかなかったんだろ、どうせ」
 光武の言葉に、安里は顔を赤くするだけ、日尾は黙って肩を竦めるだけだ。
「知らぬは本人ばかりなり、ってこと? 実行委員の中じゃ、一年だって知ってただろうに」
 それには、安里も驚いて声を上げた。
「一年も、って!」
「図書委員の同級の奴らも知ってるんじゃないかなあ」
 安里は愕然として、二葉を見た。
「じゃあ……じゃあ、クラスのみんなは……?」
「ほとんど知ってるだろ。知らないっていうか、気付いてないのは路くらいだろ」
 あっさりと言われて、安里は頭を抱え込んだ。
「あいつはガキだからって、山王がよく言ってるよ」
 光武が苦笑しながら視線を走らせた先には、その路と山王がいた。山王は、路をよく叱っている同じ実行委員の先輩だ。菖蒲湯のときに説教していたのも、山王だった。まるで路の父親と言うか兄と言うか担任教師と言うか――そんな風に、路を育てている感じだ。路もそれはわかっているようで、反発をしても、呼ばれると結局素直についていったりする。
 今も、路が何か騒いで、山王が呆れたような顔をしている。それでも路は、山王に纏わりついているように見えた。
 一体路は、山王のことをどう思っているのだろう。一度訊いてみたいと安里は思っていたが、今はそれどころではなかった。
  「俺、そんなにわかりやすい?」
 涙目になりそうだと思いながら二葉を見たが、先に答えてくれたのは先輩たちだった。
「それは日尾の所為だから、中ノ瀬が気にすることないよ」
 一体、慰めになるのかならないのかわからないことを、光武が言う。
「そうそう。日尾はあからさまだったからなあ。相手はどんな奴だろうって、ついつい中ノ瀬を見ちゃうんだよ。で、見ているうちにわかることがたくさんあったわけだ」
 都築の言ったことは、少しも慰めにならなかった。つまりは、やっぱり、わかりやすかったということだろう。
「クラスでも、そもそも実行委員に理が指名したってことで、裏を勘ぐる奴なんて一杯いたし」
 安里はとうとうしゃがみ込んで、顔を上げられなくなった。夏休みに入っていて良かったと、心底思う。明日もみんなと顔を合わせなければならないとなると、どんな顔をしたらいいのかわからない。クラスも、委員会もだなんて。
「もう周知の事実なんだから、気にすんなよ、中ノ瀬。さあ、終わりだー」
 都築はそう言って、最後の指示を出しにみんなを集め始める。ぽんぽんっと頭を叩かれて、安里が情けない顔を上げると、頭上で日尾が苦笑していた。
「先輩の言う通りだと思うよ。それに、わかってて見守ってくれていたってことは、少なくとも認めてもらったってことだろうから、俺たち幸せだよ」
 確かにその通りだ。クラスのみんなも、委員会のみんなも、誰も何も言わなかった。ただ普通に接してくれていた。だから多分、これからも大丈夫。
 安里はしゃがんだまま、一つ深呼吸をして、伸びてきた手を掴んだ。そのまま、力強く引っ張り上げられる。
 目が、合った。
 二人はどちらともなく、笑った。
 



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 *