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風の匂い
11
酔うつもりなんてなかったのに。
小倉が悪い、と俺は心の中で悪態をついた。あんなすっきりとした顔で、さらりとカミングアウトなんてしてくれた、小倉が悪い。
そこに至るまで、どれだけ大変で辛くて苦しかったか、それは想像が出来たとしても。
路線図を見上げて、いつもの駅を探す。来るとき、いくら払ったっけ?と思い出そうとしてもわからない。
視界が定まらない。見上げたのが悪かったのだ。ふらりと後ろに向かって倒れそうになっていることにも、俺は気付かなかった。真っ直ぐ立っているつもりなのだ、こっちは。
「……危ないなあ」
がしっと両肩を掴まれて、のろのろと後ろを見上げると、春日がため息をついていた。
こいつ、いつの間にこんなに背が高くなったのだろう。
ちょっとここに寄りかかってて、と券売機に背を向けて立たされる。足早に家に帰っていく人たちの群が目の前を通り過ぎていった。そんなに急いで帰って、誰が待っているのだろう。
「行こう。……真己?どうした?」
春日の姿がぼやけて見えた。俺は何度か瞬きすると、何でもない、と歩き出す。ふらついているのか、春日が腕を掴んできた。自分では真っ直ぐのつもりだから、わからない。
きれいな女だった。
しっかりと春日が掴んでいた腕は細くて、その先の爪は、控え目なピンクのマニキュアが塗ってあった。
「おまえ、彼女いいのか?」
電車待ちの間、ベンチに倒れこむように坐った俺を呆れたように見ながら、春日は熱いコーヒーを買ってきた。それを受け取りながら、俺はふいに思い出して言った。
「バイト先の先輩だよ。今日はみんなで飯食いに行って、帰り道だから送っただけ」
困ったような春日の顔。何に、困っている?それとも、照れているだけだろうか。
「馬鹿だなあ、おまえ。チャンスをみすみす逃すなよ」
「だから、そういうんじゃないって」
春日が怒ったような口調で呟く。電車が滑り込んできて、俺は立ち上がった。ふらりと、身体が揺れる。
掴まれそうになった腕を、反射的に振り払った。
放っておいて欲しい。
ただひたすらにそう思って、電車に乗り込んで一人でさっさと座席に坐った。春日が小さくため息をついて、隣に坐る。あんな綺麗な女を置いて、酔っ払いの世話をさせられているのだ。春日も災難だ。
降りるべき駅まで、俺たちは喋らなかった。俺は口を開くのも億劫だったし、春日も怒っているのか黙り込んだままだった。
だいたい、何の話ができるというのだろう。
今更普通に話をしても、きっとどこか白々しいだけだ。俺がしたのは、そう言うことなのだ、とようやく気付いた。
「ごめん」
ふいについて出てきた言葉に、俺自身驚いた。春日は一瞬目を開いて、それからそれをすっと細めた。
謝って済むことではない。
でも、それならどうしたらいいだろう。
真っ直ぐな、俺の大事な、春日を汚したこの罪を、どう償えば。
電車が駅について、俺たちは無言のまま降りた。春日がタクシーを拾って、俺は大人しくそれに乗る。
何もかも。
何もかも、なかったことにしてしまいたかった。
家に着いたときにはだいぶ酔いも醒めて来ていて、俺は春日に何枚か札を押し付けて玄関に向かった。門を開けて、真っ暗な家に向かう。
かしゃり、と音がして、振り返ると春日が門から入ってきたのが見えた。春日の家と違って、俺の家の門は鍵などついていない。それでも外から開けるにはコツがいるのだが、春日には苦でもないのだろう。
「おつり」
「いらないよ。酔っ払いの世話をしてくれた駄賃」
思わず、下を見ながら笑ってしまった。律儀な春日。
それから構わず玄関を開けて入ろうとすると、納得していないのだろう、春日がこっちに向かってきた。それにも気付かない振りをして、戸を閉めようとしたら、がしりと押さえられてしまった。
「おつりはいらないって。大した金額じゃないだろ?ああ、これじゃあ足りない?」
春日がそんなことを考えているなど思ってもいないのに、俺は薄く笑って見せた。春日はじっと、俺を見つめていた。
玄関の薄明かりに、青白く厳しい顔の春日が浮かび上がる。
「何に謝ったんだ?」
「え?」
「さっきの、ごめん、って」
言われてもすぐにわからなかった。俺が答えないでいたら、春日がきゅっと唇を噛んだ。
「何に、謝ったんだ?酔っ払って送ってもらったこと?手を振り払ったこと?それとも―――この間のこと?」
全部だ。たぶん、全部に。
何も、かもに。
「後悔してる?あんなことをしたこと、後悔してる?」
逸らした視線の先で、戸に掛けたままの春日の手がぎゅっと固く握られたのが見えた。
後悔をして、以前の時間を取り戻せるなら、後悔だってする。
いや、そう思っている時点で、俺はきっとものすごく後悔をしているのだ。
「悪かったと、思ってる」
ようやく出た声は震えた。
相手のことなど考えなかったのだ。俺の、気持ちだけで。
「悪かったって、何が?」
「春日……」
「後で謝るくらいなら、あんなことするなよっ」
がしゃん、と殴られた戸が音を立てる。ゆっくりと視線を移すと、春日はひどくきつく唇を噛んで、泣きそうな表情をしていた。
ああ本当に、俺は取り返しのつかないことをしたのだ。
「なんでもなかったみたいな顔して。俺がどんな思いで……っ」
言葉を発する度に、春日は閉じた唇をあまりにきつく噛む。俺は今にも血が滲み出してきそうなそれを見ていられずに、思わず手を伸ばした。
「どういうつもりなんだよっ」
そろりと伸ばした指が触れたか触れないかというところで、手首を掴まれた。その勢いのまま、壁に手を叩きつけるように押し付けられた。春日が手を離さなかったから、実際に壁にひどく打ちつけられたのは春日自身の手だ。
「春日っ」
「キスしたり、あんなことしたり、俺で遊んで楽しいか」
握る手に力が入る。なんて、強い。
「遊んでなんか……っ」
「ああ。代わりだったんだろ」
突然静かに言われた言葉に、俺は思考が追いつかなかった。
代わり―――。
「代わり?」
「誰だか知らないが、俺を誰かの代わりにして抱かれたんだろ」
一体、春日の代わりなど誰がなれると言うのだろう。
いや、春日はそう言ったのではない。
春日が、誰かの代わり―――?
「なに言って……」
「今日の奴……じゃないな。まあ、誰でもいいよ。真己が淋しいなら、慰めようと思った。誰かの代わりでも、いいと思った。でも、やっぱり駄目だ。俺にはできない」
「春日?何言って……」
「悪いな。―――謝るのは、俺の方かもな」
春日は最後は自嘲の笑みを浮かべて、ふいっと俺の手を離すと、くるりと背を向けて歩いていってしまった。
俺はいまだ頭の中が整理できずに、しばらくそこに立っていた。
春日を、誰かの代わりにして俺が抱かれた?
慰めようと思った?
春日の言葉がぐるぐると頭の中を回る。それがようやくすとんと落ち着いたときには、俺は知らず小さく笑っていた。
春日は誤解をしている。
そうだとしても、それで良かったかもしれない。
―――慰めようと思った、だって?
俺はただ、春日の優しさを利用したのだ。
可笑しかった。
春日が誤解したことが。
腹立たしかった。
それを笑う、自分が。
笑いながら、泣きたくて堪らない、自分が。
どいうつもりだと春日は言った。
好きだと、言ったら良かったのだろうか。
そうしたら、春日はどうしただろう。
優しい春日は、きっとすごく困った顔をするだろう。
謝るかもしれない。
今日も、最後に結局謝ったように。
春日は何も悪くないのに。
悪いのは、全部俺だというのに。
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