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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
11
「どこまで、切れました?」
荒い息の下で聞くと、高居先輩がにやりと笑った。風のない、走るには最適の日だった。ゴールに俺がいるのに、と樹先輩に言われて、俺は単純にも走っている間中、その先に樹先輩を見ていた。本人からも言われたのだ。これは意地でも記録更新をしないと会うに会えない。
それにご褒美は何なのか、とてもとても気になっていた。それが馬にとっての鼻先のにんじんなのかもわからないのに。
「87。コンマ90は切ったな」
「先輩……なんか笑顔がやらしいですよ」
あまりににやにやと笑っている高居先輩は珍しい。この人は、一体どこまで何を知っているのだろう。
「いや。深山にどれだけいい褒美を貰えるのかと思って」
呟くように言われた言葉に、俺は絶句した。それから、ひどく苛々したような気持ちが湧き上がる。
「知りませんよ。それに、別に褒美が欲しくて走ってるわけじゃない」
「何怒ってるんだ?」
「怒ってません」
むっとした声でそんなことを言っても説得力がないのはわかりながらも、思わず吐き出す。一体、二人はどんな話をしているのだ。なんだか両者にからかわれているような気がしてくる。
「怒ってるだろ?それに、褒美が欲しくて走ってるんじゃなければ、何が欲しくて走ってる?」
ばさりとパーカーを頭から被せられて、俺はそれに腕を通しながら「何も」と答えた。
「何かが欲しいわけじゃないです」
そう言うと、上からため息が聞こえてきた。思わず顔を上げると、高居先輩が呆れたような顔をしていた。
「わかってないのか、結局」
それから、マッサージをするから坐るように促される。
「わかってないって……」
「約束はコンマ85を切ることだったな。それまで、もう深山にこっそりとでも会うなよ」
話を逸らされてしまって、俺は黙った。この間会ったのは、やはりばれているらしい。
「それが多分、一番手っ取り早いんだ。実際90は切っただろ?」
確かにそうだろうけれども。どうして切れたのか、答えは自分で探さないとならないのだろう。
「手っ取り早いって……先輩、俺と深山先輩を何だと思ってます?」
大きな手で、柔らかく筋肉を解してくれる先輩の手はとても気持ちがいい。怪我をしてからは、毎日のようにこうしてマッサージをしてくれるようになった。
「何って?坂城はどう言って欲しいんだ?恋人?カップル?」
どっちも大して言ってることに変わりはない。俺は深々とため息をついた。
「先輩、後輩です。何か誤解してると思ったら」
「誤解ね」
にやりと笑う。整った大人な顔立ちの先輩がすると、嫌味になると発見した。
「深山が聞いたら泣くよ」
「なんですかそれ」
「言葉どおり。まあ、泣いたら慰めてやるけど」
その言葉に、思わずぎっと先輩を睨むようにした自分が、ひどく馬鹿馬鹿しかった。言ってることと行動が伴わない。
「85切ったら、深山のおかげでもあるんだから、あいつにもご褒美やれよ。おかげさまでってな」
「ご褒美って……」
「待ってるよ?深山は」
高居先輩はそれだけ言うと、それ以上先は言わない、とばかりに立ち上がった。
「先輩は?何が欲しくて走ってたんですか?」
俺も埃を叩きながら立ち上がる。辺りはもう薄暗い、優しい日暮れだった。
「それを言ったら、答えになるだろ?」
厳しい。いつだって、先輩方というのは本当に厳しいと思う。そして、忍耐強いのだ。こんな後輩のために、きっと苛々しながらも、見守って待ってくれる。
「簡単なことだ。よく考えろ。なぜここで走るのか。シンプルなことだ」
高居先輩はそう言ったけれど。
簡単だからこそ、なかなかわからないものなのだ、と俺は思う。
インターハイの予選となる競技会が近づいてもなお、俺はなかなか自己記録を更新できなかった。樹先輩も本気で会わないつもりなのか、その姿さえなかなか見ることができなかった。
俺は焦りや苛々で、授業などまともに受けられる状態じゃなかった。それでも哲平達が何も言ってこなかったのは、どうやら先輩たちから話を聞いているからのようだった。
ようやく樹先輩の姿を拝めたのは、競技会当日だった。まさか来てくれるとは思っていなくて、高居先輩にスタンドを見ろと言われたときはびっくりした。
「先輩」
走りよって見上げると、樹先輩も手すりから身を乗り出した。
「褒美用意して待ってるから、切れよな」
にっこり笑って、そんなことを言う。俺は頷いて、それから少し迷って口を開いた。
「リクエスト権、ないですか?」
その言葉に先輩は少し驚いたようだったが、すぐににやりと笑って、優勝したら考えてやる、と言った。
「なんだよ、リクエスト」
「それは後のお楽しみです」
そのために走るのは、どこか違うような気がしたが、でも、今一番欲しいのは樹先輩と前みたいに話ができることだ。だから、それを目指そうと思った。そのために、必死になってみようと。
驚いたことにそれが良かったのか、俺は風を切る感覚を思い出していた。予選で、コンマ90は確実に切ったとゴールしたときにわかったのだ。
「どうやらようやくわかったか?」
高居先輩の声に、多分、と俺は答える。
「走るのが好き、だけならこんなところで走らなくてもいいってことですよね」
それに、出来の悪い生徒がようやく答えられた、と安心したような先生の顔を先輩はした。
「おまえは優しいから。本当は競争に向いてないと思ったんだ。それならそれで、俺も放っておこうと思ったんだけどな。でも、良い走りはするし、本当は負けず嫌いなところもあるし」
その言葉に少し恥ずかしくなる。確かに、俺は子供のような負けるのが悔しいと言う感情を持っている。それが子供っぽいことと、厄介ごとに繋がることが多いことから、押し殺してはいた。
「こうなったら、優勝しますから」
俺がそう言うと、高居先輩が呆れたように笑った。
速く、誰よりも速く走りたい。
そう思わなければ、競争になど勝てるはずがない。争い事が嫌いなどと、このことに関しては言っていてはいけないのだ。そこが俺の甘かったところ。優勝したら樹先輩と話ができる。だから、勝ってやろう、と思った俺の動機は不純ではあるが。足りなかったのはそんな闘志だったのだと今はわかる。
それに気付いてとことんやる気だった俺は、自己新記録を樹立して見事に優勝させてもらった。走り終わったときには驚くほど気持ちが良くて、今までで一番速く走れたこともわかった。
「おめでとう」
スタンドから変わらず見てくれていた樹先輩が、そう言ってくれた。それが嬉しくて、俺も思わず思い切り笑顔を返す。
「リクエスト、聞いてくれるんですよね?」
「約束だからな。寮で待ってるよ」
くすりと笑いながらも、先輩はそう言った。俺は頷いて、部の仲間のところに戻る。高居先輩も、顧問の石神も、これでもかと言うくらい乱暴に祝福してくれた。東郷も関東行きの切符は手に入れていて、俺たちはお互い叩き合って喜んだ。なんだか今まであった色々なことが全部、報われた気がした。
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