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la vision
15
久しぶりの日本の空気に、尋由は大きく深呼吸した。
暑さよりも爽やかさが交じり合った空気に、秋を感じる。半年振りなのだと、吸い込んだ空気から教えられる。半年前に吸った空気の暖かさよりも、涼しさの混じった、爽やかさ。
それが、瞬く間に肌になじんで、尋由は自分の体の緊張が解けていくのを感じた。
その目に懐かしい顔が映って、その緊張が一息に解けて行く。
「ただいま帰りました」
ゆっくり、頭を下げる。ふいと手が伸びてきて、肩に軽く触れられた。
「お帰り」
電話で何度も聞いた声なのに、それは確かに違う響きを持って、尋由の耳に届く。
「周は…」
「あぁ、おまえの部屋を片付けるのが間に合わないって」
「そんなこと後でいいのに…済みません、迎えにきて頂いてしまって」
穂積はゆっくりと歩きながら、「構わないさ」と微笑んだ。
「どうするんだ?実家に帰るか?」
車まで来て、エンジンをかけながら穂積が聞いてくる。
「取り敢えず、マンションにお願いできますか?」
穂積がそれに頷いて、車が走り出す。見慣れた、ヨーロッパとは明らかに違う景観を眺めながら、車は静かに走っていた。その無機質とも見える景色さえ、尋由には懐かしかった。
「会社の方は、どうですか?」
「ん?あぁ…周君のおかげでね。おまえがいなくてもなんとかやったよ」
「周、ご迷惑をお掛けしませんでしたか?」
探るような視線。それを分かっているのに、穂積は何も気付かない振りをしている。
それどころか、にやりと笑った。
「世話になったのは案外俺かもしれないな」
「え?」
「働き過ぎだ、飯を食えって…」
楽しそうに笑う穂積に、尋由は気付かれないように安堵のため息をついた。
でもそれを、穂積は見逃しはしなかった。
実家に帰ると言う周を、尋由が引き留めていた。
久しぶりに会ったのに、ろくに話もしていない。
三人で食事をした時も、あまり話をしなかった。もともと周は遠慮するところがあるから、尋由はあまり気にしていなかったが、それでも久しぶりに会った弟だった。
容姿だけではなく、雰囲気さえも大人らしくなった周に、尋由は少し驚いていた。
たった半年の間に、こんな風になれるものだろうか。
「泊まっていけばいいよ。明日、一緒に家に帰ろう」
そう言われても、周は頷けなかった。
目の前に、穂積がいる。
そして、尋由がいる。
考えるのが、嫌だった。
色々なことを――自分が傷つかずにすむ方法も、空気を張り詰めらせずにすむ方法も――考えるのが嫌だった。
だから、一番楽な方法を取った。逃げられるなら逃げてしまって、それで誰がどう思おうと、良いと思った。
尋由が、例え悲しそうな目をしても。
「帰るなら、送って行くが」
穂積が、そう言った。尋由が、周をじっと見つめた後、すみません、と小さく言った。
「大丈夫です。一人で帰れますから」
そうは言っても、もう終電間近だった。
「車ならすぐだよ。俺ももう帰るから」
そう、促される。ここで上手く断る方法を考えるのも億劫で、周は目線を合わさずに、お願いします、と呟いた。
疲れていた。
三人の食事。目まぐるしく回る考え。それから気を逸らそうとすることにさえ、大きな労力を費やした。
車窓から暗い空を眺めている間中、周は穂積のナイフを持つ手や、尋由に微笑みかけた顔がその窓に映るのを、諦めたように眺めた。
神経質そうな指。
あたたかい、目。
見た覚えがないのに、しっかりと目に焼き付いていて、周は失笑する。
食事の間、ずっと尋由を、料理を見ていたはずなのに。
こんなにも、まざまざと思い浮かべられる。
きっと、瞬間の映像なのに。
外を見ながら、目線だけで盗み見た穂積は、何も変わらない。
尋由とも、冗談を言ったりしていた。
示し合わせたように、二人は社長とアルバイト、もしくは尋由の弟、という役柄を演じ切った。
思わず笑い出したくなるくらい、それは自然で、上手くいった。
「どうした?」
視線に気付いた穂積が、ちらりと周を見る。それを、周は避けるように窓の外を見た。
流れる、ネオン。
明るい、街…
本来闇があるべきなのに、わざとらしいくらい偽ったその明かり。そこに身を委ねることを、周は突然夢見た。全てを偽って、この退廃的としか見えない場所に、身を置くことを。
穂積を見て、妖艶に目を光らせる。
その瞳にネオンが映って、穂積は思わずその瞼に触れた。
そのままそっと、目を閉じさせる。
引き込まれるように唇を重ねて、信号が青に変わった。
めい一杯に倒されたシートに凭れる穂積の腕を取って、周は引き上げようとした。
より深い、結合を求めて。
その様に、穂積は苦笑しながら応じた。
そっと、口付ける。
その優しい口付けを、周は嫌った。
自ら腰を使って、激しくする。穂積の腕に、爪を食い込ませる。
「んっ…あっ、あ…」
漏れる声も、揺れる腰も、全てを隠そうとはせず、行為そのものに溺れたように、周は乱れた。
何度も、何度も高みに引き上げられる。
それでも離されないことを望んだのは、周だった。
穂積の、笑う声。
艶やかな視線。
…切なそうな、顔。
それが、現われては消えて行く。
耐え切れなかったのだと、周は知った。食事の間中見せていた、穂積の表情に、視線に。
穂積が尋由を旅に出したのは、堪え切れなかったのだと。
尋由の、真っ直ぐな視線。尊敬に満ちた、声。残酷なまでの、笑顔。
その全てから、逃げたかったのだと。
泣いているのは、快楽の延長だと、周は自分に言い聞かせた。
優しく触れてくる唇も、熱い吐息も、一瞬の快楽のためのものと、思い込ませた。
残酷なまでに、優しい。
それは、穂積の目に映っているのが、自分ではないからだと、周は何度も自分に確認する。
引きずり出される快楽に、酔う。
―――穂積の胸に、ぽたりと雫が落ちた。
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