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満ちてゆく月欠けてゆく月

11
 深い青い空に、月がぽっかりと浮かんでいた。
 レオーネはその月明かりの下、灯りもつけずにデッサンをしていた。ときどき、虚空を見つめてはまた描き始める。まるでそこに、モデルがいるかのように。
 ルチアーノは、手にしていた灯りをふっと吹き消すと、そっとアトリエに入っていった。
 レオーネは天使の絵を描いているはずだったが、その目が一体誰を見ているのか、ルチアーノにはわかっている。こういうところまで、子弟で似るのだろうか、と口元に微笑を浮かべた。レオーネの師であった父もまた、母をモデルに聖母を描いていた。
 集中しているのか、レオーネはルチアーノの気配に気付いていなかった。ルチアーノは、そっと後ろからデッサンをのぞきこんだ。
 柔らかい、心温かくなるような微笑を湛えた、顔があった。
 その雰囲気は、ルカのものではない。でも、顔形はルカそのもので、こんな風に微笑まれたら、どれだけ幸せだろう、というような笑みだった。
 レオーネの筆は淀みない。本当は、ルカはこんな顔をするのだろうか。
 その隣の、じっと一点を見つめて静謐な空気を出している姿のデッサンは、ルカらしさが出ている。
 ルチアーノは、知らず涙を流していた。
 勝てないのだと。こんな風には、愛されないのだと、知った。
「……ミラノに、行こうと思っている」
 レオーネの静かな声がした。ルチアーノは、ぐっと唇を噛み締めた。
 それならば。
 置いていくと言うのなら。
「お願いがあります」
 声は、思ったより震えなかった。ただ、溢れる涙は止まらなかった。
 お兄ちゃんみたいだと、レオーネが工房に入った最初は嬉しかった。それが、憧れになり、恋になるには、そう時間は掛からなかった。きっとレオーネが思っているよりずっと長く、ルチアーノは彼を思っている。
 傍にいられるだけで、いいと思った。
 抱かれたときは、歓喜に震えた。
 でも、注がれない視線も愛も、もう耐えられなかった。
「ルチアーノがお願いか。初めてじゃないか?」
 レオーネの温かい声がする。
 初めてじゃない。
 あのときだって、行かないでと、泣いたじゃないか。
 ルチアーノは、片手でぐっと両目を押さえた。
「聞いて、いただけますか」
「ああ。約束しよう」
 レオーネが、内容を聞くこともなく答える。そう言う優しさが、ずるいと思う。
「弟子は、私一人だけにしてください。そして、待つことを―――」
 待つことを、許して欲しい、とルチアーノは言った。レオーネはゆっくりと振り向いて、頷いた。
 ルチアーノを、家族のように愛していることは変わらない。
 たとえそれが、残酷な愛だとしても。


 フレスコ画は、彩色前にもう一度モルタル石灰を表面に塗る。ただし、その部分はその日のうちに彩色をしなければならないので、下絵の段階で彩色のことまで考えなければならない。例えば一人の人物の肌を何日もに分けて描くことは、ムラになるためにしないのだ。
 工房の仕事ならば、下絵が出来れば後はそれほど時間が掛からない。下絵写しも彩色も、職人たちが一斉にできるからだ。
 ルカは上着の袖を捲し上げて、深い青い色を塗っていた。ラピスラズリをふんだんに使った顔料は、とても高価なものだ。だからこそ、それをキリストの腰布に使おうとルカは考えた。
 キリストの右手には、天国がある。左手には、地獄だ。奇怪な動物や、炎に包まれたその絵の中の人物は、苦しみに悶えている。
 ―――自分が辿り着く先は、見えている。
 この地獄の絵は、下絵の段階でミケーレも目を見張るほどの出来栄えだった。
 今は、幸福よりも苦しみの方がわかるからだろうか。
 丁寧に、丁寧に色を塗り込めていく。陰影はルカが凝るものの一つだ。深い青の、さらに深い、青。
 自分は、罪を重ねすぎている、とルカは思った。
 同性を愛し、肌を合わせている。それも、愛したその人とではなく、身代わりのようにして、その温もりを求めている。それこそが、大きな罪だろう。
 凛としたキリストの視線に、描いた本人が耐えられなくなる。
 ルカはその顔を見ることなく、腰布だけを見て着色していく。ゆるく捲かれた布は、何度かデッサンをしたものだ。
 何度も、夢を見た。
 あの熱く甘い夜の夢だ。夢の中では、快楽より、レオーネの美しい肌や柔らかい目を思い出していることが多い。触れたいのに、いつも途惑う。罪深き自分が、触って良いのか、わからずに。
 そう躊躇しているうちに、ルカは波にのまれて行く。そして、レオーネは囁くのだ。
 ―――愛している、と。
 ただ、それはいつも自分の勘違いかと思うほど、かすかにしか聞こえない。
 それでも、そのときは、ひどく幸福な気分であることは間違いがない。
 それほど幸せな夢なのに、目が覚めると、ルカはいつも泣いていた。
 嘘だと、知っているからだ。
 それは夢なのだと、わかっているから。
 腰布の彩色を終えると、ルカは小さく息を吐き出した。絵筆を持ったまま、遠くから眺めてみる。
 その美しい色の布を纏って、キリストはすっと両脇に手を伸ばしている。それが救いの手なのか裁きの手なのか―――ルカにもわからない。
 そうやって、しばらくぼんやりとしていると、後ろで、扉が開く音がした。ここに来るのは、ミケーレくらいのものだから、きっと今日も見に来たのだろうと、ルカは振り返りもせずに絵を見ていた。
 窓から、美しい光が入ってきている。それに映える絵を、描きたいとルカは思った。
 変わらぬ、綺麗な姿だ、とレオーネはそのルカを見ながら思った。
 汚すことなど出来ない、ルカの真っ直ぐな、美しい姿。それを貶めた自分を呪ってみたりもしたが、自分ごときが汚すことなどできるはずがなかった。それほど、ルカは気高い。
 レオーネは、ゆっくりとそのルカが眺めている壁画に視線をずらした。描きかけだが、その壮大な絵の構図の見事さはわかる。「最後の審判……」
 そう、自分は、裁かれに来たのだ。


 小さな声がして、ルカははっとした。ミケーレが入ってきたのだと思って、後ろの人物など忘れかけていたのだ。
 ルカは、ゆっくりと振り返った。その目が、大きく見開かれる。唇が震えて、何か言葉を紡いだが、声にはならなかった。
 夏の終わりにミラノに来てからも、何度も会いたいと思った。でも、その距離のおかげで、川向こうにいた頃より諦めることはずっと簡単だった。
 それでも、求める心は何度も泣いた。
 そうやって求めている間は、フィレンチェには帰れない、とルカは思っていた。そしてそれは、きっと永遠に違いないと。
「ロドヴィコ殿に、見学の許可を頂いたんだ。君の許可は、直接貰うと言ってね」
 レオーネはゆっくりと真っ直ぐに、ルカに向かって歩きながら言った。そこには要らぬ取り引きがあったのだが、レオーネはそのことはルカには言わなかった。
「レオーネ……」
 愛しい名前を、ルカは呟く。何度も、呼んだ。でも、それに答えてくれる声は、決してなかった。
「見事な絵だ。完成が楽しみだな」
 レオーネが、ルカの隣に立って、壁を見上げる。すっと鼻梁の通った美しい横顔に、ルカは惹き付けられた。
「……特にこの地獄には、震え上がる」
 そこに堕ちる自分を知っているからだ、とレオーネは苦笑した。
「そんな、レオーネが地獄になど……」
 ふるふると頭を横に振ったルカを、レオーネはじっと見つめた。ルカはその目に、動けなくなる。
 俺の罪は、とレオーネが呟いた。
「俺の罪は、とても大切な人を、一度目は誤解で手荒く抱いたこと。二度目は、薬でおかしくなっているところに欲情したこと。そして、その後に謝ることも、傍にいることもできなかったこと」
 身代わりを立てたこと。
 それは、ルチアーノのためにも口には出せなかった。
「レオーネ」
「それでも、まだその人を想っていること」
 ルカの唇が再び震えた。見開かれた目が、濡れている。
「二度目のあの晩、本当は朝にきちんと君と話すつもりだった。自分の気持ちも、告げようと思った。でも、色々とあって、あのときはどうしても行かなければならなかった」
 父親が探している、とジュリアーノがそっと教えに来てくれたのだ。酒が入って気を荒くしていた父は、メディチの館だというのに、レオーネを探し回っていた。あの部屋には鍵は掛かっていなかったから、踏み込まれることもあったかもしれないのだ。
 同性と抱き合ったと知ったなら、父がどれほど怒り狂うか、レオーネには嫌でも想像できた。それは、自分ばかりかルカにも及ぶだろうことも。そして、暴れる父を押さえられるのは自分だけだとも、わかっていた。
 ひどく、離れがたかった。
 確かめたいことが、たくさんあったのだ。
 抱いてくれるのか、と問うたその言葉の真意も、自分に助けを求めたのだと伺えた、言葉の正誤も。
 でも、父を送って家に行くと、なかなか抜け出せなくなった。兄までもレオーネを引き止めることに協力していて、レオーネがようやく工房に戻った頃には、ルカはミラノに旅立っていた。
「レオー……ネ」
 ルカの目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「絵を、持ってきたんだ。これを、君にと思って」
 レオーネが小さな板を取り出した。その布を、そっと取り外すと、ルカは「あ……」と驚きの声を上げた。
 肖像だった。
 柔らかく微笑む、幸せそうな、ルカの肖像だった。
「本当は、天使の絵を描くはずだった。でも、何度描いても君の顔になってしまって」
 でも、レオーネはルカをモデルに天使の絵を描くつもりはなかった。ルカは、ルカなのだから。
 ルカの目から、再び涙が零れた。こんな風にレオーネが自分を見てくれているとは、思っていなかった。
「あなたが地獄に落ちるというのなら」
 ルカは涙を流しながらも、静かに言った。
「私も、地獄に落ちるでしょう」
 きっと、自分の罪のほうが、重いだろう。
 お互いがそう思っているとは知らず、ルカは微笑んだ。
「でも、もし、あなたと一緒に落ちるのだと言われたら……」
 レオーネを見上げたルカの頬を、溢れた涙がつっと伝った。レオーネは、その頬を両手で包んだ。ルカはその温かさに幸せそうに微笑むと、うっとりと目を閉じた。窓からの明かりが、きらきらと濡れた睫を照らした。
「私は、喜んであなたと落ちます」
 たとえ天国にいても、そこにレオーネがいないことの方が、どれだけ辛いだろう。
 ただ、傍にいたいと。
 それだけを、何度も願ったのだから。

 

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