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椿古道具屋 第二話

少年の神さま 10


「で? 俺にまたやれって?」
「うん。じゃないと、亮一君の母親が危ないって」
 手嶋の電話が気になって、史朗は凪に会いに行った。外に出ると、日は傾きかけていた。送ったメールに返信はなかったが、部活をしているかも知れない、と学校へ行ったら、弓道場は弓の飛ぶ音だけが鳴っていた。
 史朗が金網の隙間から弓道場を覗いていると、凪と目が合った。ふいっと裏に向かったので、史朗も後を追うように裏へ行くと、金網越しに手拭いで汗を拭く凪がいた。そこでしどろもどろながら、先刻の神様たちとの話と、頼み事を言ったのだった。弓道衣姿の凪は、いつもに増して大人っぽい。
「神馴らしの次は悪霊退治かよ」
 まったく、と溜息をつく凪に、史朗は小さくなるしかない。
「まあ、名前が違うだけで、やることは同じなんだろ?」
「らしいよ。神様相手じゃない分、簡単だろうって。ただ今回は無理やりだから、向こうもかなり抵抗するかもしれないけど……」
 凪はとにかく、神馴らしをやりたくないのだ。痛いとか気持ち悪いとか、とかく辛いことをするにしても泣き言を決して言わないのが凪だ。その凪がこれだけ嫌がるのだから、相当きつかったのだろう。でも――。
「凪しかできないし。頼めるのも、凪だけだから」
 史朗は思わず、金網を掴んだ。かしゃん、と小さな音がする。凪は手拭いを首に引っかけて、その史朗をじっと見つめている。
「また、この間みたいなことになるかも知れないぞ」
 この間みたいなこと――それが何を指しているのか、史朗はもちろんわかっていた。自らが、神様への捧げものになる。だが、命を取られるわけでもないのだから、と道すがら自分を無理やり納得させたのだった。とはいえ、そこは史朗のこと。答える顔は自然下を向いてしまった。
「うん。それは覚悟してる。俺は頼むばっかりで何もできないし」
 色々な複雑な気持ちがわき上がって来て、史朗は凪を見ることができなかった。自分は何もできないという悔しさも、それなのに神様の捧げものとなるという違和感も、それが決して痛いだけではないからこその恐怖も、全てがごちゃまぜになる。
 がしゃんっと大きな音と共に、頭を叩かれた。金網越しだから、凪の手は満足に届いていない。それでも、史朗は無意識に頭を撫でた。
「明日でいいな。学校は休むから」
 はっと顔を上げると、「仕方がない」という顔をした凪がいた。腰に手を当てて仁王立ちしている姿はとても偉そうだが、今だけは許そう、と史朗は思った。実際、偉いのだから。
「ありがと」
 史朗の囁きに、凪が僅かに顔を崩した。滅多に見せないその顔を見ると、史朗も微笑みたくなってしまう。
 へへ、とばかりに笑ったら、金網を握る手を叩かれた。それでも、笑みが零れるのは止められなかった。


 翌日は朝から天気の悪い日で、黒い雲に覆われた空は、今にも雨が降り出しそうだった。亮一の母親は個室に移っていたが、薄暗い病室のせいだけではなく、頬がこけて青白い顔になっていた。隣に立つ手嶋の顔色も悪い。離婚間近だったと言うが、やはり結婚までした相手なのだ。心配そうだった。
 亮一は相変わらず無表情ではあったが、母親の傍に坐っていた。その蒲団の上で、人形を歩かせている。
 手嶋たちを呼ぼうと言ったのは、凪だった。この際全部話をした方がいい、と言うのだ。亮一の前で話をするのはどうかと思ったが、人形は必要だろ、と言ったのも凪だ。霊を人形に戻せるかはわからないが、やるだけやればいい。そう、言ってくれた。
 凪が病室に入ると、根付様に「悪霊」と言われた霊は殺気立った顔をして母親の横に現われた。もちろん、手嶋と凪には見えていないが、亮一はそこをじっと見つめていたから、いることはわかっているのだろう。
「じゃあ、私と妻の関係は知ってらっしゃったんですね……」
 どう話していいのかわからないまま、史朗がまず話したのは離婚話だった。手嶋はばつの悪そうな顔をして、目を伏せた。
「妻と私はほとんど駆け落ち同然で結婚したんです、これでも。でも、妻は派手好きで……。服装とか、生活のことだけじゃなくて、その、異性関係もだったんです」
 溜息を吐いた手嶋の顔は疲れ切っていた。自分の息子がいることも、話している相手が高校生だということも忘れてしまったようだった。
「そう言ってもね、ただの友達だって言うんですよ。男友達です。確かに妻はそう思っていたようですが、相手はね、わかりませんよ。男ですから」
 だから、自分も浮気をしたのだろうか。史朗がどう言おうかと悩んでいると、手嶋は察したようだった。史朗は正直すぎる、とは、家族をはじめ友人たちによく言われることではある。
「その腹いせに、私も、と今の彼女と付き合い始めたわけではないですよ。いえ、自分ではそう思っています。ただ……」
 寂しかったんでしょうかねえ、と他人事のように呟く。だが、その目が亮一を見ていないことが、史朗には気になった。では、亮一の寂しさはどこへ行ってしまうのだろう。こうして親から見てもらえない子供の気持ちは。
「その人と、再婚するつもりなんですか」
「しよう、とは言われているんですけどね。どうせお金目当てだろうから、先は見えてる」
「知ってたんですか」
 思わず言ってしまって、史朗ははっとして口を噤んだ。だが、手嶋は苦笑している。
「なんだか、それでもいいかと思ってしまったんですよね。この人とこれ以上一緒にいて、あれこれ心配したりするのに疲れてしまって……」
 手嶋の言い方は、まるで彼に子供などいないかのようだった。亮一の気持ちも、別れた後にどうするのかという視点も、まるでない。自分の境遇を憐れんでいるだけで、あまりに無責任に思えた。
 同じ気持ちでいたのか、それまで黙っていた凪がぼそりと呟いた。
「それで息子は捨てるのか」
 はっとして、ようやく手嶋は亮一を見た。無表情の亮一が、その視線を感じたのか顔を上げた。
 凪が、その亮一の腕を取った。それから、スエットの袖を捲り上げる。史朗はそこに現われた火傷の跡やみみず腫れに、思わず目を逸らした。その視線の先にあったのは、ぎゅっときつく握られた手嶋の手だった。
 外では、とうとう雨が降り出したようだった。滴が葉にあたる、優しい音がする。だが、暗くひやりとした病室は、そこから遙かに遠い。優しい雨は、この寒々しい光景を流すことはない。空気をきれいに洗う雨は、ここには届かない。
「知っていましたよね?」
 凪の声は静かだった。労わるような仕草で亮一の袖を下ろす。傷を擦って、痛い思いをさせないように、そっと、ゆっくりと。
 手嶋の長い吐息が病室に響いた。
「妻がこんな風になって、昼間は隣の方に亮一を預かってもらうことになったんです。それで、息子の体の傷を知っているかと訊かれて……」
 そのときまで、気づいていなかったというのだ。もう、噂にまでなっていたというのに。
「それを知った上で、彼を母親のもとに置く、と決めたんですか」
 手嶋は窓際に行って、雨を落とす空を見た。外は暗く、一日雨が続くだろうと思われた。木々もすっかり濡れそぼって、雨の重さに葉を垂らしている。
 その雨の音に溶け込ますような声で、手嶋が「自信がないんです」と呟いた。
「こいつのこと、全然わからないし。喋らなくなってからは、なんとかしようと少しは努力してみたんです。でも、駄目だった」
 手嶋は、彼の家族には背中を向けたままだ。ただじっと、窓を流れ落ちる滴を見ている。
「駄目ってなんですか」
 史朗の声は、込み上げた怒りに震えていた。怒鳴らなかっただけ、褒めてもらいたいくらいだった。
「なんでもう諦めたみたいなこと言ってるんですか? あなたたちのせいで、亮一君は辛い思いをしているんですよ? 手嶋さんが諦めていいはずがない。いないことにすることも、見捨てることも、できないんです。どうして大人ってそうなんですか? 子供だって当事者なのに、何も言わない。言わせない。だから亮一君だって、何も言わなくなったんじゃないですか? 話しくらい、したらどうですか!」
 最後は叫び声になってしまった。亮一が、何かを訴えるかのようにじっと史朗を見上げている。その顔に、幼い頃の凪の顔が重なった。あのときは、目線は同じだったけれども。
 史朗の名を呼んで肩を叩いたのは、その凪だった。宥めるような、優しい声と温かい手だった。
 史朗はここが病院だということを思い出し、ふっと息を吐いて気を落ち着かせた。ちょうど看護師も「どうかしましたか?」とドアを開けて顔を出した。手嶋が「すみません。何でもありません。大丈夫です」とぺこぺこと頭を下げた。
 史朗も、すみません、と手嶋に詫びた。だが、気持は納まり切っておらず、少々不貞腐れたような言い方になってしまった。
 しばらく、沈黙が流れた。雨音と、亮一の母親に着けられた呼吸器の音だけが部屋の中で響いていた。亮一は、人形をぎゅっと握ったまま、史朗を見つめている。
「亮一」
 凪が、初めて少年の名を呼んだ。亮一は史朗から視線を外さなかったが、凪は気にせずに話し掛けた。
「大人には見えない友達、いるだろう?」
 言ってから、ちらりと目配せをしてきたので、史朗が言葉を継いだ。
「亮一君と 同じくらいの背で、青い着物を着てる。ぼさぼさで、まるで焼けたみたいな髪の毛の子だよ。知ってるよね?」
 亮一が驚いたように目を見開いた。だが、答えたのは父親のほうだった。
「なぜ、そのことを……」
「手嶋さん?」
「どうして、君たちがその子供のことを知ってるんだ? それは、亮一の妄想の産物で……」
「彼は、その子供の話をしたことがあるんですね?」
 亮一は、持っていた人形を自分の背中に隠した。少々乱暴な扱いだった。
「一時期、この子が良く誰かに向って話をしていたことがあったんです。最初は人形に話していたと思うのですが、そのうちに何もない空間を見つめて喋り出して……」
 母親も、その様子を見て心配していたという。そのことが原因で、口げんかになったこともあったそうだ。
「聞いてみると、ずいぶん具体的な姿形でしたから、私も彼女も気味悪くなって……ただ、そのうちその子供の話はしなくなったので、私たちも忘れていました」
 信じてもらえないとわかれば、子供だって話さなくなる、と凪が呟く。
「その、その子供がお二人には、その……」
「俺には姿は見えません。史朗には見えますけどね。もちろん、それを信じるか信じないかは手嶋さんの自由ですよ」
 手嶋は明らかに戸惑っていた。今まで自分の側の人間だと思っていた少年たちが、突然亮一の側に回ってしまった。それも、とても信じられる話ではないというのに。
 凪はしばらく、ふてぶてしいまでの表情で手嶋を見ていたが、やがて亮一の方に向き直った。
「その友達に、何を言った? お母さんをあげる約束したのか?」
 亮一は激しく頭を横に振った。
「でも、そいつはおまえに貰ったと言っている。このまま何も言わないでいれば、本当にあいつの母親になっちまうぞ」
 ひゅっと息を呑む音がした。亮一の顔がみるみる赤くなる。
「お母さんがこうなったのは、あいつの所為だって気づいてたんだろ? 本当にこのままでいいのか? あいつは眠っているときは母親も怖くない、そう言っていた。おまえは怖い母親はいらない、と言ったんだろ? このまま、永遠に眠ったままにされてもいいのか」
「やだっ」
 初めて亮一が声を出した。ぎゅっと人形を握って、凪を睨んでいる。
「僕、あげるなんて言ってない。怖い母さんはいらないって言ったけど、でも、あげるなんて言ってない!」
「言っただろっ」
 ふいに、甲高い声が響いた。


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