椿古道具屋 第二話
少年の神さま 11
声がした方を見ると、亮一の母親がベッドに半身を起していた。
「お母さん?」
「藍子……」
「言ったじゃないか。君がいらないお母さんは僕が貰うって言ったら、いいよって、言ったじゃないか!」
「言ってないっ」
「言ったよ! 怖いお母さんはいらないって言った!」
言葉だけ聞いていると、子供の喧嘩だ。だが、妙齢の女がひどい形相で、子供の話し方で叫んでいるのを見ると、異様だった。
「藍子……? どうしたんだ」
手嶋がベッドに駆け寄った。だが、ぎっと睨まれて、気圧されたように身を引いた。
「お父さんはいらないよ。亮一はね、お父さんとキャッチボールをする約束したんだって。お父さんは絶対約束を守るから、いつか一緒に遊んでくれる。だから、怖いお母さんじゃなくて、お父さんと一緒にいたいって言うんだ。僕はその願いを叶えてあげただけだよ。あのままじゃ、亮一はお父さんと離れ離れになっちゃうから、こうしてお母さんを眠らせた。そうすれば、怖いお母さんもいなくなるし、お父さんも離れられない。ね? いい考えでしょ?」
「亮一……」
亮一は、ぼろぼろと泣いていた。顔を真っ赤にして、いやいやでもするように、頭を振っている。手嶋は呆然と、自分の息子を見ていた。
「キャッチボールの約束なんて、ずいぶん前じゃないか……」
手嶋の顔もくしゃりと歪んでいた。凪はふいっとその手嶋の近くに行き、その肩を押した。
「今の亮一君には、あなたしかいないんですよ」
手嶋がゆっくりと右下にいる亮一を見た。手が戸惑うように伸ばされると、亮一がその手をきゅっと握りしめた。
突然、病室に甲高い笑い声が響いた。藍子が、大きな口をあけて笑っている。だが、目は笑っていないどころかうつろに虚空をさまよっているだけで、それを見た史朗は背筋を震わせた。
「亮一にはお父さんがいる。だからこの人は僕のもの」
ねえ、お母さん、と藍子がほほ笑む。その藍子自身に向って放たれている言葉なのだから、気味が悪い。史朗が思わず心細いような気持で隣を見ると、凪が厳しい顔をしてベッドの上を睨んでいた。それからふいに史朗を見ると、視線で手嶋達親子を外に出すように言ってきた。神馴らしをするのだ。
「手嶋さん、少し、席をはずして貰えませんか」
「え? でも……」
史朗はそっと二人をドアの方へ促した。手嶋は抵抗するように後ろを振り返ったが、奇妙に歪んだ妻の顔を見て、覚悟を決めたようだった。
凪と史朗には、自分たち以外の人間に「神馴らし」がどのように映るのかわからない。だが、穏やかなものではないことは想像できる。史朗は凪に、前もって二人には外に出てもらうように、と言われていた。
二人がドアの外に出ると、凪と藍子が睨みあっていた。少しだけ、彼女の表情の奇妙さが薄れていっている気がする。史朗は眉根を寄せた。霊が馴染んできている、と言っていいのか。これ以上放っておくのは、確かに危ないのかもしれない。
だが、史朗は凪に少し待ってくれるように頼んだ。
「この子と話がしたいんだ」
「史朗、もう……」
「名前、聞きたい。ね、なんて言うの?」
少年の霊とも亮一の母親ともいえない女性が、史朗を見た。警戒感があらわで、史朗は子供を宥めるような気持でほほ笑みかけた。本当は、大人の女性なのだが。
「名前、忘れちゃった?」
目が揺れる。そこだけ見ていると、本当に子供の目のようだ。警戒心と、でも縋るような不安さが、素直に表れている。瞳を揺らしながらもちらちらと剣呑な顔をした凪を見ているので、史朗は幼馴染も宥めなければならなかった。
そっと凪の肩に触れて、睨む視線を外させる。それから、促すように頷いてみせると、うす紅い唇が僅かに開いた。
「……伊吉」
「伊吉くん? 伊吉くんかあ。良い名前だね」
呼ばれたその顔が歪んだ。今にも泣き出しそうな顔だ、と史朗は思った。ゆっくりと、視線が合うようにベッドの脇に屈みこむ。
「君には伊吉という名前がある。この人は――君が今憑いている人は、伊吉くんのお母さんじゃないよ。亮一くんと言う、違う男の子のお母さんだ」
君のお母さんは、きっと天国で君を待ってるよ――。
そう言おうと思った史朗はでも、一瞬言葉に詰まった。その一瞬に、細い腕が伸びてきて、史朗の首を掴んだ。
「史朗!」
凪の声が病室に響いた。だが史朗には、目の前で顔を真っ赤にしている女の顔しか見えなかった。
「……うるさい」
ぐっと手を押しつけられる。苦しくて、息ができない。史朗はその腕を掴んで引き離そうとしたが、余計に絞められるだけだった。
思わず目を閉じたそのとき、ふと首を絞めていた手が緩んだ。床に座り込みながら、慌てて息を吸う。涙目になりながら見上げると、凪が女の胸の辺りに手を突き入れているところだった。
「凪っ……」
その光景を見て、史朗は思わず叫び声を上げた。だが、掠れた声しかでない。頭も少しふらふらする感じだったが、史朗はベッドの手すりを掴んで、なんとか立ち上がろうとした。
目の前が、真っ赤に燃えていた。
凪の手が、炎に包まれていた。それでも凪は、手を引きこめようとしない。その顔はかなり苦痛に歪み、大量の汗が噴き出していた。
「凪! 何やってんだよっ。手が……」
「史朗、こいつに成仏してほしいんだろ。何か言え!」
「それより凪の手が――」
「火は幻だって言われただろ。だから早く!」
確かに、周りの衣服や布団から火は出ていない。だが、凪の手は燃えているように見えた。
史朗は荒く呼吸を繰り返し、だが迷いを振り切る様に口を開いた。
「伊吉くん、君のお母さんは、きっと君を天国で待ってる。だから、いつまでもここに留まっていないで、成仏して!」
叫んだとたん、火が消えた。ひどい形相だった手嶋藍子の顔も、泣いていた子供がことりと眠りに着くように、穏やかな顔となった。大きく深呼吸をした史朗がふと隣を見ると、凪が自分の左手首を掴んで、何かに耐えるようにきつく目を閉じていた。その額から、ぽとりと汗が落ちた。
「凪、手が……」
「実際にけがはしないはずだろ。大丈夫だ」
大丈夫なはずがない、と史朗は顔を歪めた。目に見えるものは幻だが、感覚はある、と神様たちは言っていたはずだ。熱い、という感覚はあったのではないだろうか。
凪の手は、確かにいつもと変わりない。赤くなっているわけでも、焼け爛れているわけでもない。だが、額から落ちる汗は尋常じゃなかった。
「凪――」
「触るなっ」
思わず伸ばした手を思い切り振り払われて、史朗は息を呑んだ。凪は目も閉じたままで、くるりと史朗に背を向け、存在そのものを拒否している感じだった。思わず手を着いた先の布団が冷たい。
史朗がもう一度手を伸ばそうとしたとき、病室のドアが開いた。
「あの、椿屋さん、大丈夫ですか?」
遠慮がちに入ってきたのは、手嶋だ。傍らには、手をつながれた亮一もいる。
「あの、藍子は……」
「あ、あの、もう大丈夫だと思います」
「本当ですか?」
手嶋がベッドに駆け寄った。それと入れ替わるようにして、凪が病室を出て行った。
「え? 凪っ」
史朗が呼びとめたが、凪は立ち止りもせずに病院の廊下を足早に去っていく。史朗は病室のドアに手を掛けたところで後ろを見た。穏やかな顔になった藍子を、手嶋と亮一が心配そうに見ている。そっちはこの二人にまかせていいだろう。史朗は病室を飛び出して、どんどん小さくなっていく黒い背中を追った。
「それで、人が心配して追いかけたってのに、名前呼んでもぜんっぜん止まらないし。やっと捕まえたと思ったら――」
史朗はそこで口ごもった。だいぶ酒も入ってきている。神馴らしをした後の、恒例の神様へのお礼をしているのだが、今日は凪はいない。「帰る」と一言いわれて、逃げられてしまったのだ。
「捕まえたと思ったら?」
「あ、あいつ、礼なんてお前がすればいいとか言ってさ、勝手に帰りやがって。礼をしないとやばいのは自分だろ?」
史朗は早口でそう言ってから、コップをぐいっと空けた。あの時のことは、思い出すだけで顔が火照る。
捕まえたと思ったら、逆に腕を掴まれた。それから木陰に引っ張られて――噛みつかれた。
あのときの凪の目は、そう言うにふさわしい目をしていた。両腕を掴まれ、木に押しつけられて、衝撃で閉じた目を開けたら、獣のような目をした凪がいた。そしてそのまま、キスされた。
史朗は無意識に、酒に濡れた自分の唇を拭った。
あれをキスとは呼びたくない。一方的で、ぶつかる様に唇が重なっただけだ。驚いて抵抗した史朗を、凪は簡単に押さえつけた。でも――。
キスは、ゆっくりと深くなっていった。顎を掴まれ、唇を割られ、舌をねじ込まれた。その舌の動きは、思いの外優しかった。
キスが深くなるにつれ、体の奥底で、見知った官能がふっと灯ったのがわかった。自分はこの目の前の人間と抱き合ったことがある。その熱を知っている。それを思い出させるには十分なキスだった。
あのとき、人の声が聞こえてこなければ、自分たちはどうなっていただろう。少なくとも、押しのけようと力を込めていた史朗の手は、もう少しで抵抗をやめるところだった。
史朗はあのときの熱を思い出して、その熱を吐き出すように息を吐きだした。燻ぶる火は消える気配がない。たぶんもう、ずいぶん前から。
「史朗兄さあん? 何色っぽいため息吐いてんの?」
かんざし様がしな垂れかかってきた。もうだいぶ飲んだようだ。
「い、色っぽいってなんですか! そんなことないです!」
「本人の自覚がないところが一番そそるというけどねえ。凪兄さんのことでも考えてたの?」
「違います!」
史朗はぐいっと目の前のコップを呷った。
「心配なさんな。凪兄さんが平気って言ったんだから、平気よお」
平気平気、とかんざし様はひらひらと手を振っている。その様子を見ている限りでは、全く根拠などないようだ。
史朗は、あの後ずっと無言で、自分のことを見なかった凪の横顔を思い出していた。険しい顔をしていて、辛そうでもあった。バスを降りた後も、何も言わず去って行った、あの後ろ姿。思い出すと、不安になる。
「悪霊がいたずらしたみたいだからね、何もなければいいけどねえ……」
糸巻き様の呟きに、史朗の不安が大きくなる。火を上げて抵抗したことを、見猿様が「あの餓鬼は生意気に抵抗しやがって」と言っていた。
「しけたつらしてんなあ、史朗。あいつは斎庭の息子だから、なんとかなるだろ」
市松ががしりと肩を抱いてきた。史朗はよろけながら、「なんとかなるって……」とその市松をちらりと見た。
「水穂様がついてるからな。ま、ちいーっとばかりあの兄さんは辛い思いするかもしれないが」
史朗はため息を吐くしかなかった。そして、凪の家に行くべきか、と水穂神社の方角を見た。だがその史朗の前に、ふらりと朱紫さまが立った。
「史朗様が捧げものになってもならなくとも――凪様には地獄」
え? と史朗が聞き直したときには、ぽちゃりと音がして、池に水輪が広がっているのが見えただけだった。