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蜜と毒


12
新しい部屋に引っ越したとき、裕貴はテーブルと椅子を買い換えた。それが小さく丸く、背の低いテーブルだったことの意味を考えるべきだったのだと、裕貴は後々思った。
初春の空は明るく晴れて、結婚式に相応しい天気となった。近所の神社で行われたその式は、慎ましくも神聖で、晴れやかだった。
こんな幸せがあるのだと、裕貴は羨んだ。
内輪だけの小さな式といっていたが、裕貴の知った顔も、二、三あった。
――京梧の、顔も。
二人は遠くはなれて、多分、見詰め合っていた。互いが見ていることに気づかないようにと、視線が読めない距離で、ずっと。
京梧は、変わらないな、と思っていた。嫌になるくらい、変わらない。過去を過去と思えないくらいだと、苦笑する。
裕貴は、だいぶ大人になった京梧に、ほんの少し困惑して、それから、嬉しく思った。
思えば、明里の子供の萌も、もう二つになった。今は祖母の傍で大人しくしているが、好奇心旺盛で、いつもは落ち着きがない。
二年だ。
あれから、二年経つのだ。それは、こんなにも長いのに、甘い疼きは消えていない。今日会うまでは、大丈夫だと思ったのに。
ゆっくりと、二人の前で、明里と新倉が杯を交わす。割と体格の良い新倉は、袴が似合っていたし、明里は、もともときれいな顔立ちを、白無垢がさらに映えさせていた。
二人の間に、今は何の関係も媒介していない。元生徒と教師と言う関係は、今と言う時には何も意味がない。今は、京梧は新婦側の友人で、裕貴は新郎の同僚だった。ただゆっくりと、その時間が流れて、終わろうとしていた。
神社と言うのは、森の中のように緑深いところが多いが、式の行われた神社も例外ではなく、かなり背の高い木立に囲まれた、静かなところだった。常緑樹が青空に映えて、見上げると、世界が丸い空間になる。
式の後は、二次会代わりのパーティーだった。明里の高校時代の同級生たちが発起人で、裕貴も誘われてはいたが、躊躇していた。
「どうしようか……」
神社の裏手の石段に腰掛けて、着替えの間預かってくれと言われて預かっている萌に向かって、裕貴は呟いた。萌はこんなに大きくなったのに、俺は成長しないよな。
萌は、その下で木の棒で何かを地面に書いていた。
式に参加した客たちがまだ残っているようで、ざわめきが聞こえてくる。ぼんやりとこんな風に考え事をするのは、裕貴には久しぶりのことだった。いつもは、考えないで、煙草で時間をごまかしていた。
萌がときどき無邪気に伸ばす手を、掴んでやる。そんなことが、あのときは出来なかったと、その小さな手の温もりを感じながら、裕貴は思う。
「そんなつもりじゃない」
冬の資料室で、抱けと言った裕貴に向かって、京梧はそう言った。そんなことは、わかっていた。ただ、寄り添うことを求めていたことなど。
同じ気持ちを抱くのに、裕貴はそれを振り払う。
臆病だった。
ただ弱くて、臆病で、逃げ回ってばかりだった。
求める温もりが、消えるときのことばかりを考えて。
いつも、そうだった。京梧はきっかけを作るのに、裕貴がそれを潰す。
その、繰り返しだった。
「あいつも来てますけど、声、掛けられないですか?」
尚登の、意地悪な声が蘇る。
「萩、おまえ相変わらずだな」
笑った視線の先に、京梧を置いては見るが、裕貴はすぐにその視線を逸らした。式の始まる前で、辺りにはほんの少しの緊張と、期待の混じった空気が流れていた。
「別れたって聞いたとき、少し驚きました」
裕貴の代わりとでも言うように尚登は京梧を見て、そう呟いた。
「別れるとか、そう言う関係じゃなかったんだよ」
裕貴にとっては、尚登が昔言った、「終わりに向かっている関係」と言うのが、一番相応しい気がした。その終焉を、迎えただけだった。
尚登が、くすりと笑う。裕貴の嫌いな、笑い方。裕貴は懐かしささえ感じて、その顔を見ていた。
尚登は、京梧の言葉を思い出していた。「終わったんだ」京梧も、確かに別れると言う言葉は使わなかった。なんだってこんなに、二人は分かり合っているのだろう。そしてそのことに、何の不満があるのだろう。
「……さっきの言葉、そっくりあなたに返しますよ」
相変わらず、馬鹿なことをしてますね。じっと見る裕貴に尚登はそう言うと、新婦側の客のもとへと戻っていった。
やけにスーツが似合っていたと、裕貴はその背中をぼんやりと思い出す。
「萌?」
不意に萌が立ち上がって、どこかへ行こうとするのを視界の隅で捕らえて、裕貴は顔を上げた。まだ不安定に、横に揺れて歩く。
小さな足。短い歩幅。
「……」
一瞬の沈黙の後、見上げた相手は、困ったように笑う。
「子供をだしにするなんて、なんて親だよ」
萌が、そう呟く京梧の足に抱きつく。その萌を抱き上げて、京梧は改めて裕貴へと視線を移した。石段の三段目に座る裕貴は、京梧と同じ高さの目線になる。
何か言おうとして口を軽く開きかけた裕貴は、それを止める。それからゆっくりと微笑んで、京梧を指で呼んだ。
あの、最後の朝のように。
京梧は小さく笑って萌を抱え直すと、ゆっくりと歩き出した。
裕貴が、手を伸ばす。
その手が京梧の頬に触れて、そのまま首筋へとおりていく。その手に促されるように、京梧が身を屈めて、二人の唇が重なった。重なる唇があまりに冷たくて、口付けは、一層深くなる。その途端に、京梧の背に回っていた裕貴の手が、きゅっと強められた。
二人の間にいる萌が、苦しそうに身を捩って、不満を訴える。
それで二人はようやく離れて、笑い合った。
「もう、罪なんて言うなよ」
「……言わないよ」
立ち上がって並ぶと、手が触れた。その手に、指を絡める。そこから少しずつ温かくなっていくことに、二人は知らず微笑んだ。
「二次会、どうする?」
「萩がうるさそうだな」
ゆっくり歩きながら裕貴がそう言うと、京梧はその顔を思い描いて笑った。何を言っても、確かに皮肉が返ってくるだろう。
「帰ろうか、アイス買って、裕貴の家に」
「寒いのに」
早く帰ろう。
いつもそう手を引っ張ったのは、裕貴だった。
早く、はやく。
アイスが、溶けないうちに。
「アイスは良いからさ、歯ブラシとか、買わないと」
裕貴がそう言うと、京梧の肩に頬をのせていた萌が顔を上げて、「アイスー」と叫んだ。
「なぁに、アイスなんて。この寒いのに」
その声を聞いて、明里が近寄ってくる。もうすっかり化粧も直して、シンプルなドレスに身を包んでいた。京梧が萌を降ろすと、萌は明里に向かってとことこと駆け寄っていく。その萌に笑いかけながら、明里が京梧と裕貴に視線を移した。
「お二人さんは二次会どうするの?」
答えなどわかっているかのように、明里は笑ってそう言う。
「子供をだしにするなよ。探して来いなんて嘘ついて」
京梧が照れたように話題を変えると、明里は一層堪えられないと言ったように、満面に笑みを浮かべた。
「感謝こそされても、文句を言われたくないわね」
ねぇ萌?明里がそう言うと、萌は二人を見て、アイスッ、と叫ぶ。それには三人とも笑って、裕貴が分かったよ、と萌の頭を撫でた。
「今度、アイス持って行くよ」
「良かったわねー、萌。じゃ、アイスをデザートに、私の自慢の料理をご馳走するわ」
五人で食べましょう、明里はそう言って、笑った。
「期待してる」
京梧がそう言うと、遠くから明里を呼ぶ声が聞こえた。京梧と裕貴は一瞬視線を交わすと、じゃぁ、と遠慮がちに言う。
明里は萌を抱き上げて、手を振った。

「まったく、手のかかる二人だな」
明里と萌を迎えに来た新倉が、二人の背を見ながら、呆れたようにため息をついた。でもその顔が、ほっとしたように微笑んでいる。
「ほんと」
明里もそう笑う。
背広を着て並んで歩く二人が、少しずつ遠ざかる。目を細めるようにしてその姿を見ていた明里が、二人の身長がそれほど変わらないことに気づいて、考えるように首を傾げた。
「あぁ……そうね……」
「何?」
独り言のように呟いた明里から、新倉が萌を抱き取った。萌は疲れたのか、うとうととし始めていた。
「前はあの二人、並んで歩いてなかったのね」
いつも京梧が少し後ろで、だから、裕貴の背がほんの少し小さく見えていたのだ。
「だからボタンの掛け違いが起きたんだよ」
突然後ろから声が聞こえて、二人は振り返った。
「萩……」
「おせっかいだな」
尚登がそう呟くと、人のこと言えないでしょ、と明里が笑う。いつもいつも、文句を言いながら二人のことを案じていたのは、何も明里たちだけじゃない。
「主役のお二人さんがこないと、始まるものも始まらないだろ。あんな二人はほっといて、行くぞ」
明里に言い返せなくて尚登はそう言うと、二人を促す。
冬の午後の日差しは明るく、温かかった。その温かさは冬の終わりを思わせて、明里は、春が待ち遠しいと、空を見上げながら思った。







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