home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 *
ユーフォリア――euphoria――
14
今度はおまえが話す番だ、と七緒は言ってコーヒーを哲史に渡した。さすがに真冬の公園は寒く、哲史が落ち着いた頃、タクシーを拾って七緒の家に二人で帰ってきた。署から七緒の家は一駅も離れていない。歩いてもすぐだったはずだが、冷え切った哲史を心配して、七緒が無理やりタクシーに押し込めたのだ。
家に着いてすぐ、七緒は浴槽に湯を張り、署に電話して家にいることを告げた。今のところ事件は起きてないから、まあゆっくりしろ、と朝井に苦笑された。それから、哲史を風呂に入れて温めて、ようやく一心地着いたところだった。
「俺の話す番?」
「今、どうしてるんだ?」
「どうって……」
学校と家の往復だ。ただし、両親との仲はすっかり冷え切っていた。
はっと思い至って、哲史は揺れた瞳で隣に座る七緒を見る。
「知ってる……?」
「さっき、な。伏見に聞いた」
ただし、哲史がどこまで知っているかがわからなかった。知らなくて良いことは、このままずっと知らないままのほうが良いと七緒は思っている。
「前に泊まりに来たとき、なんかあったんじゃないのか?」
本当はそのときに問いただすべきだった、と七緒は思う。いつもいつも、後悔ばかりだ。
「どこまで知ってるんだろうね、七緒も伏見さんも」
哲史がふいっと視線を窓に向けて、呟いた。
「あのときはごめん。ちょっとどうしても家に居たくなくて、七緒の顔が見たくて、我侭だったね」
知らないうちに、大人の顔をするようになった、と七緒はその横顔を見つめた。それが、自然な時の流れと言うより、否応なしに作られたようで、痛々しかった。
「話したくなかったら、いい」
七緒がそう言うと、哲史は微笑んで首を振った。
「グループにいるとき、ほんのちょっとだけ、期待した。もしかしたら、俺達も家族ってものを作れるのかもしれないって。でも、それが馬鹿な願望だって、薄々気づいてもいたんだ。親父が俺を早くグループから出したいって思ってることもわかってたし、二人の仲が良くなったわけじゃなくて、世間体を気にしてるって事も知ってた。両親の仲が戻るって言葉が、当てはまらないのもどこかで知ってた」
最初から、悪かったんだからね。哲史はそう言ってふっと息をはく。
「でも、あの二人は両親なんだって、俺は思っていた。あの日、書類を見つけるまで」
哲史が落ち着いたことを見て取った両親は、すぐにまた元のような生活に戻った。それどころか、父親はますます家に寄り付かなくなり、どうやら母親まで男がいるらしいことを知った哲史は、もう、諦めていた。
それでも、もう逃げなかったのは、七緒がいたからだ。あの地獄の日々から救ってくれた七緒と、一緒に歩きたいと思ったから。だから、もう逃げるわけにはいかなかった。
「書類?」
「俺の体外受精と代理母に関する書類」
あまりに淡々と哲史が言って、七緒は一瞬何も言えなかった。ある程度、予想はついていたけれども。
「それを見たとき、ひどく納得した。俺、ずっとわからなかったから。どうして両親は俺なんて産んだんだろうって」
どこまでも作られた家族なのだとわかって、哲史はかえって吹っ切れたのだ、と思う。もう、何も期待せずにいよう、と思った。それでも、そのときに七緒に会いたくて仕方がなかった。
そのときは、どうしてなのかわからなかった。でも、今はわかる。
「七緒に会いたいって思った。会って、深海家の長男じゃなくて、哲史を確認したかったんだ。作られた俺じゃなくて、自分の感情を持った俺を」
「哲史が知ってるって、わかってるのか?」
「俺が言った。それから、好きにしろって言った。体裁が必要なら、そうしてればいい。俺も脛を齧っている間は、協力する、家の名を汚すようなこともしない。でも、それ以外のことは俺も好きにさせて欲しい、それから、高校卒業したら、家を出て好きにさせてもらう」
「親父さん、良いって言ったか」
七緒の問いかけに、哲史は鼻で笑うような顔をした。
「大喧嘩だよ。いや、喧嘩って言わないなあれは。俺のことなんて自分の所有物だと思ってるからね。一方的に、馬鹿なこと言ってるんじゃない、おまえには医者になってもらわないと困る、だって」
自嘲気味に笑う哲史に、七緒は思わず手を伸ばした。どうして笑えるのか、不思議だった。
ソファーに隣り合って座っている哲史の肩を抱き寄せる。ことり、という風に哲史がその頭を七緒の肩に預けた。
「逃げなかったのは、七緒がいたからだよ。七緒が教えてくれたんだ。俺には俺の感情がある。あいつらにもどうにも出来ない、大切なものがある」
俺は、家を出る。哲史がそう言って、七緒のジャケットをぎゅっと握った。
「高校卒業したら、絶対に家を出る」
もう、親の言いなりに生きていくことはできない。それを哲史は知っている。医者になりたいとも思っていない。
「……ったく。いつの間にそんなに頼もしくなったんだ」
呟く七緒の手が、髪を撫でて気持ちがいい、と哲史は思った。やはりこの手を失えない。
「たまには、甘えろよ。俺はおまえを信じてる。好きにしたらいい。いくらでも手助けはする」
七緒ならそう言ってくれるだろう、と思っていたのに、それでも哲史は嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。ここに、自分の場所があるのだと思うと。
「ねえ、泊まっていい?」
上目遣いに七緒を見ると、その目を手で覆われた。
「駄目。言っとくが、誘っても無駄だぞ」
七緒の硬い声に、哲史は眉根を寄せた。感触でわかったのだろう、七緒が手を離すと、哲史は寄りかかっていた身体を起こして、七緒を正面から睨んだ。
「甘えろって言ったじゃん」
「誘えとは言ってない」
「まさか……まだ犯罪だ、とか言うんじゃないよね」
「あのなあ、あの伏見のねーさんはそりゃあ怖いぞ」
「ばれなきゃ良いだろ」
「ばれないと思うか?あの化けもん相手に」
伏見に隠し事はできない、というのは署の中の共通認識だ。
「待ってよ……じゃあ、いつになったらOKなわけ?まさか高校卒業まで、とか言わないよね」
それまでには、あと一年以上ある。
「俺も今の職は無くしたくないからな」
「……うそ」
一年も、我慢できると思っているんだろうか、この人は。今だって、ちりちりと体の奥深くで燃え出したものがあるというのに。
「もしかして、勃たないとか」
言った途端、殴られた。その不機嫌な顔に、哲史は唖然とする。七緒だって、我慢しているのだ。ここはもう一押し、と思ったところで、じろりと睨まれた。
「諦めねーと、今すぐ追い出すぞ」
その視線に、欲情をたっぷりと滲ませているのに、そんなことを言う。哲史は大きなため息を吐いて、この頑固者はどうしてやろうか、と天井を仰いだ。
七ちゃーん、という不気味な声が聞こえてきて、七緒は反射的に耳を塞いだ。その目の前に、伏見が覗き込むようにして、にこにこと笑った顔を出した。
「やめろ伏見。おまえのその爽やかな笑顔は返って怖い」
まだ、にたりと笑ってくれたほうがいい、というのはきっと署の連中の同意を得られるだろう、と七緒は思った。
「あらやーね。自分が欲求不満だからってそんなこと言わなくったっていいじゃない」
「おまえ……」
「お利巧さんで頑固な七緒に、哲史くんが吼えてたの」
そうにっこりと笑う。七緒はそれに、一瞬言葉を失った。
「なんだってそんな話をするんだよっ、おまえらが」
哲史ととりあえず落ち着いてから、もう二ヶ月が経った。始めのうちは懸命に誘っていた哲史だが、決して落ちない七緒に、最近は諦め半分、呆れ半分、という感じだった。
「一切、手を触れないって言ったんですって?」
からかい口調の伏見に、七緒もにやりと笑って返した。
「俺も男だからねえ。あれもどんどんいい男になってるだろ?押さえるの大変でね」
伏見は一瞬言葉を失って、ごちそうさま、と苦笑した。
「それで?そんなこと相談しに行ったのかあいつは」
「あら、私がデートに誘ったのよ」
「……誘うなよ」
「いいでしょう?あーんな可愛い子独り占めするなんてずるいわ」
「おまえはろくなこと言わないからな。変な入れ知恵するなよ」
「やあね。煽ったりなんかしてないわよ」
「ふーしーみ」
「するわけないでしょう?でもね、あんたはちょっと口下手なんだから、私相手に惚気てないで、ちゃんと言ってあげなさいよ」
何を?とは七緒も聞かなかった。哲史が不安になっているのもわかっている。触れ合わない分、余計に。
「心配かけるな、伏見には。悪いね」
七緒がそう言うと、伏見はあらあら、と面白そうな顔をした。
「殊勝になって見せても駄目よ。あなた達相手だって、私は容赦しないからね」
せいぜい私に捕まらないようにねー、と伏見は言って、ひらひらと手を振った。入り口で誰かが呼んでいる。
七緒は、その後姿を見ながら、結構切実な問題なんだが……と大きなため息を吐いた。
「伏見とデートしたって?」
哲史は高校三年生になり、新学期が始まってしばらくは忙しくしていた所為もあって、二人で会うのは久しぶりだった。
「妬いた?」
哲史が笑う。暖かくなって、哲史は七緒の部屋の窓を開けて、そこに寄りかかっていた。その後ろから、七緒がそっと哲史を抱きしめる。
「……俺もキリがない」
目の前にある手に、哲史が自分の手を重ねる。ごつごつしているのに細く長い手を、指で辿ると、七緒のため息が聞こえた。
「何を心配してる?」
この手が自分にもたらす快楽を、早く知りたい。哲史はそんなことを考えながら、首を横に振った。
「馬鹿なこと」
「言えよ」
「……俺を抱かないのは、卒業を待ってるからだよね」
呟くような声に、七緒は哲史の考えていることがわかって、微笑んだ。
「俺もキリがないって、言っただろ?たとえ気持ちが伴ってなかったとしても、おまえを抱いた今までの男に嫉妬してないと思うか?」
「七緒……」
「今すぐにだって抱きたい。全部忘れさせたい」
「わかった、ストップ。やめて。俺が堪んない」
焦った哲史に、七緒がくくっと笑った。
「でも、そうやって今のことだけで、この先を潰したくないんだ」
仮にも俺は刑事だしな。そう言うと、今度は哲史が笑った。
「仮にも、なのか?まあ、確かに見えないけど」
「おい」
ふわりと、髪を撫でられる。
仕方がない。今はそれで我慢しよう。
哲史はそう思った。七緒は、ずっとこの先の未来を考えてくれている。それだけでも、あと一年、我慢する価値があるじゃないか、と哲史は自分に言い聞かせた。
「楽しみだな」
思わずそう言うと、頭の上で、七緒がくすくすと笑うのがわかった。
了
home モドル 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 *