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風の匂い
13
はっきり、何を言えというのだろう。
俺は目の前の春日を睨んだ。あれ以上、何を言って、どう俺に惨めになれというのだ。
「帰れ」
さっきから、何度も言った言葉を繰り返す。掴まれた手首が、熱かった。
「帰れ……っ」
叫んだ言葉は途中で遮られた。だんっと冷蔵庫に背中を押し付けられて、それから、キスされた。
長く、激しいキスだった。
息を継ぐ間もないほど、貪られる。反射的に顔を顰めたが、逃げられなかった。
―――どうして。
どうして、こんなキスをするんだ。
「春日……」
ようやく解放された俺は、ずるずると床に坐り込んだ。手からはいつの間にか、ビールの缶は奪い取られていた。
「なんで……」
呟いた俺を、春日が見下ろしている。怒っているのか、険しい目をしていた。
「なんで、だって?なんでだと思う?」
すっと腰を落として俺と同じ目線にすると、春日は俺の両脇にだんっと両手をついて、耳元で囁くように言った。
「俺も、真己にキスされていろいろ考えた。なあ、なんで?」
耳元の声に、思わずぎゅっと身を縮ませた。少し意地悪な春日の声。仕返しなのだ。
あの、どうにもならなくてしてしまった、キスへの。
耳元へ唇を押し付けられて、ぞくりと身体を震わせた。あの夜の快楽を、身体はきっちり覚えている。
「春日……やめろ」
「遊びでも、身代わりでもない。それなら、あのキスはどうして?どうして―――俺に抱かれた」
声だけで、俺は身体が反応するのがわかった。ぐっと唇を噛み締める。
さっきのキスで、身体が敏感になってしまった。あんな、先を期待してしまいそうなキス―――。
春日。
春日。
お願いだから、もう俺を解放してくれ。
香奈の言う通りだ。曖昧なままではいけないんだ。だからもう、綺麗さっぱり、嫌って欲しかった。
「泣くなよ……くそっ」
春日の呟きに、俺は自分が涙を流しているのだと知った。情けない。こんなに、涙もろくはなかったのに。
「真己、ごめん。ごめんって」
何を謝っているんだ。春日は何も悪くない。何も、本当に。
そう思いながらも、俺はだらだらと涙が流れているのがわかった。園児並みの泣き方だ。
「謝るな。おまえは何も悪くない」
掠れた声で言うと、春日が困った顔をした。それから、でも、と口篭もる。
「でもも何も。最初から俺が悪いんだ。勝手におまえに惚れて、勝手に押さえきれなくなって、結局引っ掻き回した俺が悪いっ」
もう自棄くそだった。吐き出すようにそう言って、俺ははあっと息を吐いて天井を見た。春日の顔など、見られるはずがなかった。
言ってしまった。
とうとう、言ってしまった。
「真己……」
「わかっただろ。もう帰れ。すっぱり綺麗にさっさと振って、帰ってくれ」
長かったな、と思った。
好きだと気付き、悩んで、失恋を覚悟して、また悩んで。
呆れるくらい長い間、俺は春日を思っていた。
「なんで勝手に振るって決めてるんだよ……」
僅かな沈黙の後、春日がそう言って坐ったままの俺の上に倒れてきた。重たい。
「真己は俺に失恋したわけ」
「そうだよ。わかったらさっさと帰れ」
「それにしては愛情が感じられないんだけど」
「失恋したのにそんなもんがあってどうする」
俺は春日を押し返そうとした。春日は容赦なく、全体重をかけてきている。そんなに密着したらやばいだろう。
「だからさあ。どうして勝手に失恋だって決めるんだ」
肩口から震えるように春日の声が響く。いい加減、どいて欲しかった。
「じゃあ何か。おまえも俺に惚れてるとでも言うのか」
そんな都合のいい、夢見たいな話があるはずがない。俺は酒を飲みたくなって、さっきまで持っていたビールの缶を探した。だらりと垂れた春日の腕をどかす。
それを、どれだけ焦がれたか。
この腕が、俺だけを捕らえることを。
「ああ、惚れてる」
ふいに耳元でぽつりと言われて、伸ばした手をそのままに、俺は固まった。
今、何て言った?
春日。
「何探してんの」
「……ビール」
「駄目。もう飲むな」
これが飲まないでいられるか。
春日、さっき、何て言った?
「春日、おまえ……」
「あーもう。俺は酔ってないんだから、何回も言わせるなよ」
春日はそう言って、ふいに身体を起すと、どこにあったのかビールを煽った。ごくりごくりと、まるで水でも飲んでいるかのように喉が動く。
「おまえ……っそんな飲み方」
「真己に言われたくない。でも、すきっ腹だから効くな」
春日はふうっと息をついて、それから悪戯を思いついた子供のような目をして俺を見た。
「馬鹿だな、真己は」
春日はそう言って、残りのビールをぐっと口に含んだ。何を、と問いかけようとした俺の唇を、塞ぐ。
生温かいビールが流し込まれてきた。ほとんど呆然としていた俺はそれを受けきれずに、口の端からビールが零れた。春日はそれを丁寧に唇で拭きとって、くすりと笑った。
「俺もだな」
ぎゅっと抱かれて、俺はようやく頭を動かし始めた。
嘘だろう……?
春日が俺に惚れてる―――?
かあっと、一気に身体中の熱が上がったのがわかった。信じられなかった。
「嘘だろ?」
「嘘じゃない。……って、真己真っ赤」
わかってる。わかっているが、どうしようもない。
「春日、ちょっとどけ」
「なんで」
「ビールが取れない」
冷蔵庫を背に俺は座り込んでいるのだ。これでは冷蔵庫を開けられない。
「もう飲むなって。役に立たなくなる」
何が、と聞くまでもなかった。首筋を軽く噛まれる。
「春日っ」
「俺、明日帰るって言っただろ」
ああ言った。言ったが、だからって……。
「真己の部屋行こう。それとも客室がいい?」
いや、その前にシャワー……。
「時間ないって」
ずるずると、引っ張るように春日は俺を運んでいた。俺はたぶん、まだちゃんと事態を把握しきれていない。
時間がないって、まだ夕方だ。ああそろそろ夕食の時間。
「あとでな。腹減ったら」
「おまえ……どれだけするつもりだよ」
「そりゃあ一週間分」
部屋について、春日がにっこりと笑う。ああくそ。年相応の可愛い顔をしやがって。俺はその顔に弱いんだよっ。
俺は仕方なしにため息をついた。
「シャワーは譲れない」
「じゃあ、一緒に入る?」
このガキはっ。と思ったところで、春日のズボンのポケットから携帯の着信音が聞こえた。ごくごく普通の電話の鳴る音だ。春日がちっと舌打ちする。
「忘れてた。俺、買い物の途中だった」
それならきっと、家からだろう。なにやら逡巡している春日の携帯を、俺は勝手に取り上げて、表示を見る。実家、の二文字が浮かんでいるのを見て、俺はそのままボタンを押した。
「もしもし、上柄です」
あら真己ちゃん、とおばさんが驚いている。俺はそれを無視して口を開いた。
「買い物の途中で春日に会って、明日帰ると聞いたものですから、つい引き止めてしまって……ええ。いえ。もう帰らせようかと」
春日の手がすっと伸びてきたが、俺はそれを避けた。
「え?いえ、俺は今日はちょっと……そんな。せっかく夏休み最後なんですから……。いえ、本当に」
それなら一緒に夕食を、と言われて、さすがに焦った。今日ばかりはどんな顔をして、春日のおじさんとおばさんに会えばいいのかわからない。
何とか上手くそのお誘いはかわして電話を切ると、春日がこっちを睨んでいた。
「帰るかっつーの」
「そうはいかないだろ。夏休み最後なのに」
「たかが休みだ」
「それでも、おばさん、春日の好きなもん作ってくれてるんじゃないのか」
やはり寮生活の息子の食事は気になるだろう。さっき、ちらりとおばさんが言った今晩のメニューは、春日の好物ばかりだった。
「たっぷり食って、それから上手く言って抜け出して来い。……泊まりの許可も貰ってな」
俺がそう言うと、春日は渋々頷いた。それからふっと、俺を見る。
何、と聞こうとした口は塞がれた。柔らかい、優しいキスだった。誤魔化しようのない、真摯で、切ない、キスだった。
「覚悟してろよ」
唇が離れた途端、にやりと笑う。
ガキの癖して、と俺は内心悪態をついてみたが、真っ赤になっていることは自覚していたので、何も言えずに、ただ立っているのが精一杯だった。
春日。
嘘じゃないんだな。
おまえは俺を、選んだんだな。
春日。
知らないだろう。
俺がどれだけ幸せだと思っているか。
おまえは、わからないだろう。
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