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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
12
 競技会に優勝した後で、俺はすごく気分が良かった。堂々と樹先輩に会いに行けることもまた、嬉しかった。ばらばらに競技が終了する俺たちは、部での祝勝会などはあまりしない。最後の最後、登りつめるだけ登りつめた部員が終わってから、騒ぐことになるのだ。例えば、今回インターハイの全国まで行けば、その全国に行った部員の競技が終わるまで。団体の運動部の奴らには「淋しい」といわれるが、個人だからこそ、部全体で最後まで一緒に頑張ろう、という意味があるのだろうと俺は思っている。
 サボテンも預けたままだったな、と思いながらインターホンを押すと、樹先輩の変わらぬ柔らかい応答が聞こえた。その声に、どこか緊張しながらもほっとしている自分がいる。
 ドアを開けて迎え入れてくれた樹先輩はでも、少し元気のない顔をしていた。
「疲れました?」
 俺がそう言うと、それは自分の方だろう?と笑われた。それから、お疲れさま、と微笑まれて、思わずその肩口に頭を載せる。全身から搾り出すように息を吐いた。
「坂城……?」
 珍しく途惑ったような先輩の声がして、俺は慌てて顔を上げた。
「すみません……」
 謝ると、困ったような顔をする。やはり、あまり顔色が良くない。
「やっぱり先輩、疲れてますね」
 また来ます、と言いかけた俺を制して、とにかく坐るように促された。それから、サボテンの鉢植えを持ってきてくれる。
 柔らかく、でもどこか儚さを伴った表情でふわりと微笑まれた。
「俺からのご褒美は、やっぱりサボテンかな。もっと大きな植物が欲しかったら、それでもいいよ。ここにあるのだったら、坂城の好きなもの持っていって」
 言われた言葉にもびっくりしたが、どこか違和感があった。思わずじっと先輩を見ると、目を逸らされる。
 坂城、と先輩は言った。あんなに自然に、「和高」と名前で呼んでくれていたのが、戻っているのだ。それに、ここにある植物のどれでも好きなものを持っていってもいいって……?
「先輩。それは……もうここには来るなってことですか」
 浮かれていた気分が、一息に沈んだ。先輩、と呼んでもいつものように名前を入れろと訂正されない。ただ、酷く疲れた、そして困惑した顔の先輩がいるだけだった。
「先輩……?」
 笑って、否定して欲しかった。人の好意をそうやって無下にして、と怒って欲しかった。でも、先輩は、何も言わなかった。
「どうしたんですか?俺何か、しました?」
 恐る恐る聞いても、先輩は首をふるふると振っただけだった。やはりひどく、顔色が悪い。
「坂城の言う通り、疲れたのかもしれない」
 弱々しく、そう言う。やはり、名前で呼ぶのはやめたらしい。
「ごめん。本当に、どれでもいいよ。好きなの持っていっていいから」
 そう木々たちを指差されたのは、早く帰れ、ということだろう。俺はわけがわからないまま、唇を噛んだ。
「俺のリクエストは、聞いてくれないんですか」
「ああ、ごめん。できたら今度に……」
「今度なんて、あるんですか?」
 思わず呟いたら、はっとしたように先輩が顔を上げた。でも、否定はしてくれないのだ。
 理由を知りたいと思った。
 競技場で会ったときは、いつもと同じだった。それがなぜ、たった数時間で変わってしまったのか。
 でも、樹先輩は本当に辛そうで、とにかく俺は自分自身の頭を冷やすためにも、出直そうと思った。


「なんだ一体」
 呆れたような高居先輩の声に、俺は顔を上げず、膝に両手をついて下を見たまま、荒い呼吸を繰り返した。
 俺の走りは本当に素直すぎる。
 疲れを取るためにと翌日は休み、その次の日は軽くメニューをこなしただけでタイムは計らなかった。そして三日目。タイムを計った途端、表情に出ない分の悩みやぐちゃぐちゃした気持ちが、全部走りに現れていた。それが、もう一週間近く続いている。ときどき、吹っ切ったように走り抜けられることもあるが、タイムはひどく不安定だ。
「深山と上手くいってないみたいだな」
 先輩はマッサージのために俺を坐らせると、そう言った。俺はやはり、何も言う気がなかった。上手くいってないも何も。
「何を拗らせたんだ?」
「何も。俺にもよくわからないんです」
 樹先輩は今では完全に俺を避け始めている。今までは樹先輩が自分から動いていたから何も言わなかったいわゆる親衛隊に近い連中が、その樹先輩の行動にひどく協力的なのもまた、障害になっていた。これだけ近くにいて、会おうとしても会えないなんてことが起こり得るのだと俺は知った。
「競技会の後に会いに行ったんだろう?」
 まったく、どこまでこの人は知っているのだろう、と思いながら俺は素直に頷いた。なんだか、今一番頼りになりそうだと思ったのだ。
「そのときから、もうおかしかったんです。部屋にもう来て欲しくないみたいだったし」
 邪魔になったのかもしれない。誰か、一緒に時を過ごす人が、出来たのかもしれない。それだけじゃ説明できないことが多々あるのに、俺はそんなことばかり考えていた。
「……褒美には何を貰ったんだ?」
「サボテンを。小さくてね、可愛いんです。前にも貰ってたんですけど、二つ目。あの部屋の木なら、好きなの持っていっていい、なんて言われたんですけどね」
 俺がそう言うと、高居先輩はやれやれとばかりに首を振っていた。それから、ふとその動きを止めて、宙を睨むようにして何か考えていた。
「おまえも深山に礼をやれって言ったよな。何かやったか?」
「それどころじゃなかったですよ。さっさと帰れって感じでしたし」
 普段なら話さないひどくプライベートなことを、ぺらぺらと話している自分が不思議だった。それだけ煮詰まっているのか、とため息が転がり出る。
 俺はあの傍にいたいのだと。
 緑だけでは駄目なのだと。
 しみじみ思い知らされた。
「先輩の言うことは聞くことだな。ちゃんとお礼、やれよ」
「高居先輩……何か知ってます?」
「いや。でも、検討はついた」
 三年だからなあ、とわけのわからないことを呟いて、先輩はマッサージを切り上げて立ち上がった。
「ほら。今すぐ行ってこい。誰のために走ったのか、優勝できたのか、ちゃんと話して来い」
 高居先輩はそう言って、ひらひらと手を振った。俺は「今から?」と言ってみたものの、後押しされたようで、覚悟は決まっていた。
 どんなに阻止されようと。捕まえてやる。
「俺、先輩に応援されるとは思わなかった」
「ん?俺はおまえの走りに関してだけ厳しいんだよ。だからあのとき、深山を遠ざけた。あいつは闘志とかと正反対にいるからな。でも坂城はそれを掴んだんだから、ちゃんと生かせよ」
 そんな勝手なことを言う先輩に呆れつつ、俺は頭を下げて部室に向かった。そこでさっさと着替えて、そのまま、まずはと植物館に向かった。でもそこは鍵がかかっていて。
 先輩を手伝った菜園や、花壇、樹先輩のクラス、図書館、ととにかく走り回った。短距離走者だが陸上部でよかった、と馬鹿なことまで考える。
 あとは部屋だろう、と俺は東寮に向かった。その頃にはたぶん俺が樹先輩を探し回っていることは知られていたのだろう。寮の前にはしっかりと、用心棒よろしく東寮生が立っていた。
「西寮の坂城が何の用だ?」
「西も東も関係ないだろう?知り合いのところに行くのに、ここではいちいち断ってから入らなきゃならないのか」
 同じ二年だったのが幸いだ。俺は無理やり中に入ろうとした。でも、今度は三年の先輩が出てくる。
 先輩は敬いましょう。
 それは、馬鹿馬鹿しい年功序列の、子供じみた感情で先輩に強要されて覚える気持ちではなく、それなりの実力や包容力などを見せられて覚えるものだから、それに逆らうのはなかなか難しい。でも。今回は無理にでも通してもらおう、と思っていたら、思わぬ救いの手が差し伸べられた。
「あ、坂城。良かった。待ってたんだよ」
 そう言ったのは、なんと東の春姫、重藤先輩だった。にっこりと笑ったその顔に、誰も反抗できずに、俺はすんなりと東寮に入った。東も西も、作りは一緒だ。でもその中庭は樹先輩が手入れしているだけあって、木々が気持ちよかった。こんな風に植物を育てられる先輩を、やはり俺は好きだと思う。
「ありがとうございます」
 俺がそう頭を下げると、重藤先輩は「何が?」と首を傾げる。それから、待ってたのは本当、と言った。
「深山のところに行くんだよね?その前にちょっとだけ、いい?」
 そう言われて、断れるはずがなかった。重藤先輩は、樹先輩と仲が良いのだ。そのまま重藤先輩の部屋に連れて行かれたのには少々困ったけれど、聞かれたい話でもないから仕方がなかった。また、東の奴らに恨みを買いそうだ。
「俺さ、こう言うキャラじゃないって言うか……あんまり人のことに口出ししたりするのは苦手なんだけど」
 重藤先輩はそう言いながら、コーヒーを出してくれた。海田統括と付き合い始めてから、色っぽくなった、と誰かが言っていたが、なんとなくわかった気がした。俺が常々遠くから見て感じていた幼さが、少し消えている。それともそれは、後輩の俺の前だからだろうか。
「深山はすごーく頑固で、絶対何も言わないからさ。ちょっとだけ、お節介」
 そういたずらな顔で笑う。なんとなく、樹先輩が一緒にいるのもわかった気がしてしまった。すごく素直で、まっすぐなのだ。
「先輩は……何を知ってるんですか?」
 俺が思わず呟くと、さあ、とにっこり笑われた。やっぱり一筋縄ではいかないのだ、先輩と言うのは。
「俺は、坂城の気持ちを聞きたかっただけ。言っておくけどね、お節介は坂城のためじゃなくて、深山のためにするんだよ」
 つまりは先輩が味方となるかは俺次第、ということか。それにしても、と思わずため息をついた。
「なんでここって、当事者を放っておいて、勝手に話が動くんですかね」
 自分の気持ちに気付いたのは最近で、でも俺の周りはきっともっと前から気付いていた。見守ってくれていた、と言えばそうかもしれないが。
「それはまあ……愚痴りたくなるのもわかるけど」
 困ったような顔をした重藤先輩は、その最たる被害者なのだろう。運動部は随分前から海田統括の重藤先輩に対する気持ちを薄々ながらも気付いたいたもんな。特別だ、というのは暗黙の了解だった。
「敏いのが多すぎるよね。こっちは必死なのにさ」
 そうそう、と頷く。
「必死なんだ?」
「必死、ですよ。あの樹先輩が相手ですから」
 そう言うと、くすくすと笑われる。
「本当に名前で呼んでるんだね」
「呼べって、うるさかったんです」
「それでわからない坂城も、随分鈍感」
「……意気地なしですから、俺」
 良い方に考える、ということがなかなかできない。だからこそ、穏やかで平凡で、平安な毎日を俺は過ごしたいと思っていたのだろう。
「うーん。なるほどね。可愛いんだ、坂城って」
「可愛いって……」
「深山が気に入ったのもわかる」
 可愛いって、重藤先輩に一番言われたくない言葉じゃないだろうか。俺は困って、頂きますと断ってからコーヒーに手を伸ばした。
「何ナンパしてるんだ、おまえは」
 そこにそう言って入ってきたのは、海田統括だった。ドアが開いていた、と怒っている。
「閉めてたら閉めてたで怒るんじゃないの?」
「そこまで嫉妬深くないぞ、俺は」
 呆れたような声は出すものの、面白そうににやにや笑っている海田統括ははっきり言って俺には怖い。重藤先輩にはこう言いながら、後で釘刺されるかもなあ、と俺は思っていた。
「大体これは、深山のだろう?」
 さらにはそんなことまで言って、俺は逃げ出そうかと腰を浮かせた。
「こら坂城。おまえに話が合って来たんだ」
 統括はそう言って、俺の肩を押さえた。
 やっぱり平凡で平安な日々がいい、と思った俺は、まだ意気地なしだ。



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