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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た 第二話

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 翌日、樹は気分が悪いと最後の授業をサボって、植物館にいた。休み時間ごとの東西の攻防戦は激しく、とくに昼休みは少し異様な空気が流れていたと思う。いつもならふざけ半分で追いかけっこをするようなものなのに、今年は織姫とその敵方の寮長が付き合っている、というシチュエーションが生徒の好奇心を刺激したらしい。樹まで、ことごとく監視されていた。
 それにうんざりしていたのは確かで、和高などはきっともっと大変だろうと樹は教室から一切出ないで考えていた。
 さすがに授業をサボった樹について来る生徒はいない。基本的に、こういった行事で授業に支障をきたしてはいけないのだ。ただし、授業のサボりは生徒の責任に任されていたりする。それで成績が落ちたりすれば、後で厳しい補習が待っていたりするのだ。
 和高は、どうするだろう。
 樹は植物館の窓を開けながらちらりと校舎の方を見た。押し開くタイプのその窓は、外から人が入れるほどは開かないようになっている。無人で開けっ放しにすることもあるからだ。
「樹先輩?」
 ふいに声が聞こえて振り向くと、和高が立っていた。走ってきたのか、軽く肩を上下させている。
「え?なんで?鍵は?」
「予備ぐらいあるさ。それよりちゃんと閉めたか?」
 驚いた顔をして、それでもこくこくと頷く和高がおかしくて、樹はふっと笑った。それから、最後の窓をぐっと押し開いた。
「散々だな。なんでこんなもん引き受けたんだ」
 まだ立っている和高に樹が首をかしげる。和高はようやく力を抜いて、ふらふらと樹の傍まで寄って来た。
 それから、深いため息を吐きながら、樹の肩に頭をのせた。今までも、疲れたり参ったりすると、和高がやっていたことだ。でも、今回はそれに抱きしめる腕もついてきた。樹はその回された腕に、ひどくほっとする。
「引き受けるって問題じゃないじゃないですか。こっちのことなんて全然考えてくれない」
 確かに、こういうときは有無を言わさず役をやらされる。あの寮生たちに太刀打ちするのは容易なことじゃない。
「俺は、それどころじゃなかったのに」
「それどころじゃない?」
「でしょう?不安がってる先輩を一人にするなんて恐ろしいことできません」
 せっかく手に入れたのに、と囁かれる。不覚にも、樹は泣きそうになった。
「何が不安なんですか?」
「和高……」
「俺、樹先輩のこと好きだって言いましたよね?ちゃんと、言いましたよね?」
 ぎゅっと抱かれて、樹は何も答えなかった。それを信じていないわけではない。
 ただ、不安なだけで。
「ごめん」
「なんで謝るんです?まさか、別れるとか言わないですよね?」
 はっとしたように和高が樹を覗き込んだ。そこに揺れる瞳を見て、樹は首を振る。
「そうじゃない。でも、自分でも何が不安なのかわからないんだ」
 千速に言ったように、きっと全てなのだと思う。
「植物とは違うからなあ……」
「なに?」
「先輩が愛する植物たちは、大事にすればちゃんと答えてくれるでしょう?でも、俺はわからない。いつも傍にいるわけじゃないし、一人で生きていくこともできる」
 そっと離れていく体温が怖くて、樹は思わずぎゅっとその服を掴んだ。
「二つが違うのはわかってる」
「はい」
 樹が手を離さないから、和高はまた腕を背に回してそっとその身体を抱きしめた。
 どうして、この腕はこんなに温かく、その中はこんなに安心できるのだろう、と樹はふっとため息を吐いた。それなのに、どうして、不安になるのだろう。
「優しすぎるんだ」
「はい?」
「和高は、優しすぎる」
 そうですか?と和高は本気で眉根を寄せた。
「優しいのは先輩でしょう?俺は……臆病なだけです」
 顔を見ないで話す違和感に、ようやく樹は身体を離した。離れてみれば、ずいぶん暑苦しいことをしていたのだとわかった。梅雨の湿った空気は植物達には気持ちがいいようだが、人間には少し息苦しい。
「臆病?」
「ええ」
 和高が苦笑した。ひどく大人っぽい顔をするものだと、樹はそれを不思議そうに眺めた。
 ときどき、和高はこうして全く違う顔を見せる。
「本当は今でも、怖いんです。俺は、先輩と一緒にいていいのか、わからない。それが、先輩を不安にさせるのかもしれない」
 ゆっくりと緑の中を二人で歩いた。ときどき葉を撫でるように触る和高の指を、樹は少し後ろから眺めていた。
「一緒にいてくれないと、困る」
 樹の呟きに、和高はゆっくりと微笑みながら振り返った。
 許されるなら、と言った和高の目はどこかとても切なそうだった。
「許されるなら、ずっと一緒にいますよ?」
「誰に?」
「全てに」
 視線が落ちる。小さく咲いたバラの花を、その手がそっと触れた。
「和高。許されたい誰かがいるのか?」
 樹は思わず聞いていた。確信はなかったが、和高が過去を見ている気がした。
「……いません。ただ、許されなかったことが、あるんです」
 許されなかったこと?と樹が首を傾げると、和高は目を細めた。それから、近くの壁に背を預けた。
  「俺、中学のときから結構体格は良くて、高校生みたいだったんです」
 急にそんなことを言い出した和高を、樹はじっと見つめた。
「今よりもっと色々積極的で。実は生徒会とかまで入ってたんです」
 中心になって騒いだりするような、今なら哲平達のような感じだったのだ、と和高は苦笑した。
「出来ないことの方が多いのに、やる気になればきっと何でもできる、と思っていて。そのガキらしい考え方で、俺は間違いを犯した」
 それを間違いと言うには、抵抗があるような顔だった。自嘲の笑みと、苦しそうな顔を同居させた、奇妙な顔を和高はしていた。
「三年の春に、大学を出たばかりの若い女の教師が赴任してきて。東京の大学を出た、綺麗な人だった。年上に憧れるときだから、俺たち男子生徒の中でアイドルみたいな扱いをしていたんです。九州の田舎の学校だったから、東京から来た、ってだけでも結構違う目で見てましたしね」
 和高は懐かしそうな目で、どこか遠くを見ていた。ガラスの窓を通り過ぎて、どこか、樹の知らない場所を。
「本当に、ちょっと身近なアイドルみたいに、憧れを出ない域で騒いでいただけでした。でも、三年の秋口に、その先生がすごく淋しそうな顔をして、一人で教室で泣いてるのを俺は見てしまった」
「先生だってただの人間だって、あの頃ってわかっているようでいない。それが、すごく身近に感じて。慰めたいと思った。ただ、慰めたいと思った。それが出来ないなら、声なんて掛けるべきじゃなかったんだ」
 どんな風に声を掛け、どんな目で慰めたのか。樹はわかるような気がした。そして、その温かい腕に、その教師が縋ってしまったことも、容易に想像できた。
「東京に恋人を残して来ていて。家族と住んでいたみたいだけど、淋しくて堪らなかったって。その年の新任は一人で、同年代の同僚もいなくて、こっちは生意気なガキどもで……誰かに支えて欲しいって言ってたな」
 優しい和高のことだ。きっと必死に支えたことだろう。それが、他から見れば危なっかしい関係だとしても、和高は全力で守ろうとしたに違いない。
「逃げでしかないって、俺は気付かなかった。立場的に絶対に先生の方が危険な立場なのに、俺はそれを守れると思った。何も、間違ってない、教師と生徒だとしても、責められることじゃない、と思ってた」
「好きだったんだな」
 ふいに樹が言って、和高は顔を上げた。とても柔らかい目をした樹がいて、和高は素直に頷いた。
「でも、本当はわからないんです。年上の女の人を守っているんだって自分に、酔ってたのかもしれない。障害のある恋っていう状況に、酔ってたのかもしれない。ただあのときは、本気で好きだと思ってた」
 恋なんてそんなものだ、と樹は思う。だから、樹はきっと不安なのだ。
「ばれたのか?」
「ええ。卒業前に。先生が妊娠したんです」
 さすがにそこまで考えていなかった樹は、思わず目を見開いた。
「俺は馬鹿だったから。先生が悩みに悩んで、子供をおろすと決めたことに反対した。それで喧嘩になって……それを同じ学校の生徒に見られちゃったんです。あとはもう、俺にはどうにもできなかった。先生と会うことも出来なくて、先生は学校を辞めて、子供を一人でおろした」
 それから、東京に行ったのだと噂に聞いた。東京の恋人を忘れられなかったことはわかっていたのだ、と和高は言う。それなのに、自分は追い詰めるようなことしかしなかったのだ、と。
「和高」
 そっと近づくと、和高があの大人の表情をして顔を上げた。この顔は、そんな過去からできたのだと、樹はようやく理解した。
「間違ってはいけないことを、俺は間違った。あのときどうして、俺はあんなに子供だったんだろう」
 例えば和高が生徒ではなかったら。成人した、大人だったら。それは、苦い恋で終わったかもしれないし、それを予想して、違う形で支えられたかもしれない。
「間違い、だったのかな」
 和高が子供だったことを責めるなら、その教師は大人であったことを責めるべきだろう。でも、和高の優しさに、その腕に、縋ってしまった教師の気持ちがわかる樹はぽつりと言った。それは和高には何の非もなく、そして、その人間の弱さを責めるほど、樹も自分が強いとは思っていない。
「先生は、支えが欲しかった。和高は、支えたかった。それは、間違いじゃないだろう?」
 結局一つの命を消す結果となったことは、確かなことだ。それを仕方ないと言うのは憚られた。でも、その二人のことを間違いだと言ってしまうこともまた、樹には出来なかった。
「でも、俺は支えきれなかった」
 樹がそっと、和高を抱きしめた。
「俺が遠い山奥の全寮制の高校に来たのはそう言うわけもあったんです。もともと受験はしてたんですけどね。それで、一年のときはそれを引きずって引きずって。二年になって落ち着いて。で、先輩に会ったんです。でも俺は臆病になってたから」
 肩に置かれた頭の重みが、樹は心地よいと思った。
「だから、鈍かったんだな。こっちが色々仕掛けても」
「もう自分の中では落ち着いたはずだったんですけどね」
「それを俺が掻き回しちゃったんだな」
 和高が顔を上げた。急に目の前に現れたその目に、樹はどきりとする。
「このことで、恋愛することを怖がるようにならないで欲しい、ってその先生に言われたんです。何度も、ごめんねって謝られて。きっと、いつか本当の恋愛ができるからって。俺は、たぶん、それがわからなかった。本当の恋愛って、だったら自分たちがしていたのはなんだったんだろうって。それはずっと、わからなかった。だから、先輩に会えてよかった」
「和高……」
「恋愛って言うものがどんなものなのか、俺は先輩に教えてもらった。俺は先生のことが好きだったけど、あれは同情のほうが強かったのかもしれないって、思った」
 支えることしか、考えてなかったから、と和高は自嘲の笑みを零した。
「それじゃあ、一緒にずっと歩んでいくことは出来ない。そんなことも俺は気付かなかった。今は少なくとも俺は先輩を支えたいと思っているし、ときには、甘えたいとも思ってる」
 にこっりと和高が笑った。樹は密かに気に入っているその笑顔を間近で見て、くらりと眩暈がするような思いだった。
「でも、どうしたら上手くやっていけるのかはわからないんです。不安も、障害もある。それをどうしたらなくして行けるのかは、わからないんです」
 それは、と樹は考えた。
 目の前で真剣な目をしている和高が、とてもとても愛しいと思いながら。
「それは、二人で解決していけばいいことだ。支えあって、守りあって、甘えあって、進んでいけば、いいことなんだ」
 独り言のように言ったのは、きっと和高もそんなことはわかっているのかも知れないと思ったからだ。驚くことに、後輩に諭されてしまったのだ。それでも嫌な気も、悔しさもないのは、和高の大きさを樹は知っているからだった。
 和高は少しだけ照れた樹に何も言わず、そっと唇を寄せた。二人とも、七夕対決のことなどもう忘れていた。
 そもそも、それより大切なことだと二人とも思っていたのだ。
 

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