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満ちてゆく月欠けてゆく月
12
ルカの滞在している館はロドヴィコの別宅のようなもので、それほど大きな館ではなかった。そうと言ってもミラノ公の血筋を持つのだから、普通の家よりずっと広い。客室だけでも十部屋はあり、その中の一室が、ルカの部屋になっていた。
レオーネもまた、ロドヴィコから一部屋を借りていて、二人は同じ家で二週間ほどを過ごすことになった。
夢のような、二週間だった。
ルカは朝早くから絵に取り掛かる。午後は気分が乗れば絵を描き、乗らなければ本を読んだりする。一人での仕事だから、随分と時間が掛かった。
レオーネは、そのルカの手伝いをするでもなく、絵を描いているルカをデッサンしていた。ときどきは、絵の具を混ぜるのを手伝ったりはするが、決して塗ったりはしなかった。それだけ、画家としてのルカに敬意を払っていた。
「な……何、レオーネ?」
壁面にモルタルを塗ろうと混ぜていたルカは、突然頭を撫でられて、驚いた。ただ、その手の主はレオーネとわかっているから、振り払うようなことはしない。ゆっくりと、さらりと髪を梳かれる。それが抱き合った後のレオーネの癖を思い出させて、ルカはかあっと身体の芯が熱くなるのを感じた。夜毎の情事は、確実にルカの身体を変えていった。
レオーネは、薄っすらと赤く染まったルカの耳先に、唇を寄せた。
「この髪の毛がなかなかうまく描けなくてね。ずっとみているうちに、触りたくなった」
抱き合ったあと、レオーネは無意識にルカの髪を触っていることが多い。それが気持ちよくて、ルカはそのまま眠ってしまう。
なんて幸せだろう、とルカが思う瞬間だ。
「触りたくなった……って……」
「細くてふわふらしていて、手触り抜群なんだ」
毛先を持って、レオーネはそこにキスをした。ルカの肌色がさらに赤くなる。
「レオーネ……」
「ん?」
こんなところで、とルカは思ったが、二人の場合はそれがどんな場所にも当てはまることに気付いて、その表情を曇らせた。
人目があるところでは、二人が恋人同士であることを、決して悟られてはならない。自分たちがしている恋は、そんな罪深きものだった。
自分自身は、それでもいい。もう、地獄に落ちることなどわかっている。
でも、レオーネは。
同じように罪を着せることが、ルカにはどうしても心苦しかった。
「ルカ、何を考えている?」
心持顔色を失った風のルカを抱きしめようとして、レオーネは躊躇した。ここは、小さいながらも神に祈りを捧げる場所だ。それに、いつ誰が見ているとも限らない。
道ならぬ恋にルカを引き入れたのは自分だ。せめて、守り通したいとレオーネは思っていた。自分は、何を言われてもどんな罪を問われてもいい。でも、ルカだけは。
レオーネは伸ばした手をルカの肩に置いて、顔を覗き込んだ。
「何も……」
ルカは心配そうなレオーネに、淡く微笑んだ。
それでも、ルカはレオーネを離せない。掴んでしまったこの手を、諦めることなどできないのだ。
それは、レオーネにしても同じことだった。焦がれたこの心も身体も、もう誰にも触れさせたくない。今この場所にたった二人でいるように、誰もいない場所で生きていけたら、どれだけいいだろうと、馬鹿らしいことを考えてしまう。二人は恋人なのだと、大声で言うことが出来ないのだから尚更だ。
ルカには、将来がある。
工房に入りたての頃から、その腕には目を見張るものがあったが、一枚絵を描くたび、その腕は確実に上がっている。そして、絵を描いているときのルカは、本当に真剣で楽しそうだ。何よりも、その時が好きなのだとわかる。
この先、どんどん大きな注文が舞い込むだろう。画家は注文がなければ絵は描けない。
それに、ルカはきっと、この画家という職業を変えていってくれるような気がした。
詩や音楽に比べて、絵画は芸術ではないと思われている。でも、詩人や音楽家のように、画家も芸術的な才能が必要なのだと、レオーネは思っていた。
ルカには、その才能が溢れている。
だから決して、その将来を潰すわけにはいかなかった。
「もうすぐ、フィレンチェに戻るんだね」
ルカはされるままになりながら、目を伏せた。ああ、とレオーネがくすりと笑う。
「淋しくてそんな顔をしていたのか?二週間だ。二週間で、戻ってくる」
ああここでぎゅっと抱きしめたい、とレオーネは思った。たった二週間なのに、離れることに不安があるのは実はレオーネだって同じなのだ。
特に、ここにはミケーレがいる。
レオーネが滞在している間に数度、ロドヴィコの三男、ミケーレが製作風景を見に来ていた。その最初から睨まれていたが、それがなぜなのか、レオーネはすぐに察した。
二人とも、実際に会ったのは初めてだったが、名門の家の三男ということで、名前だけは知っていた。何かというと引き合いに出されたからだ。だから、会ったこともないのに、幼い頃は妙なライバル心を持っていた。
引き合いに出されるのは、似たようなところがあったからだ。決して、正反対だからではない。
その幼い頃の気持ちが残ったままで、ミケーレはレオーネに負けたのだ。レオーネ自身、得意な気持ちになったことは否めない。
似ていると認めるのは、嫌だった。でも、初対面で同じ匂いを、確かに感じた。
だから、レオーネは不安で、必ず一週間で用事は済ませて、ミラノに戻ってこよう、と決めていた。その後一ヶ月もしないうちに、ルカの絵は出来上がる。そうすれば、今度は二人でフィレンチェに帰れるのだ。
「早く、フィレンチェに帰ろう」
レオーネがそう言うと、ルカは満面の笑みで頷いた。
ロドヴィコの館には、二人の食事や身の回りの世話をしてくれる人間が雇われていた。だから食事は何の手間もかけなくていいのだが、ときどき郷里のトスカーナ料理が食べたくなって、二人は台所に立つことがあった。
その日もレオーネが偶々出会ったというトスカーナの商人から、新鮮なトマトを両手で抱えないほど買ってきた。それで、トマトスープを作ることにした。もう大分日は短くなり、夜には寒くなる。
トマトは切るのがもったいないほど赤く艶やかで、土の香りがした。
ざくりざくりと切っていた手を止めて、レオーネは徐にトマトを一つ掴んでそのまま齧った。美味しそうなトマトの誘惑に勝てなかったのだ。ルカがその様子を見て、ふふ、と笑う。
「美味しい?」
聞くと、ぐいっと口元を拭いながら、レオーネは頷いた。それから、そのトマトをルカに差し出す。
ルカはそのまま、大きな口を開けてトマトに齧り付いた。レオーネの豪快な食べ方が、あまりにおいしそうだったのだ。
「おいしい……」
ルカがにっこりと笑うと、レオーネも嬉しそうに笑った。
ふとルカがレオーネの手元を見ると、トマトは見るも無残な形になっていた。いくら煮てしまうとはいえ、思わずくすりと笑ってしまう。なんでもできる器用なレオーネは、料理だけは不得手だったのだ。
ルカだって、最初は危なっかしい手つきで包丁を使っていたのだが、工房で食事の支度をするうちに、その使い方も料理のレシピも覚えた。工房の中では、エドアルドが最も料理上手なのだ。一緒に作っていれば、自然腕も上がる。
「あ、笑ったな」
「だって、そのトマト……」
「どうせ形なんて崩れるだろ?」
そうだけど、とルカは言いながらも、くすくす笑うのを止められない。少し不貞腐れたようなレオーネがまた、可愛い。
「いいよ。後は僕がやるから、レオーネはその野菜を炒めて」
人参やズッキーニを切ったのはルカだ。綺麗に大きさの揃えられたそれらの野菜に、今度はレオーネが小さく笑った。
「ルカは器用だな。性格も出るというか」
そう、小さな四角い人参を指でつまんで、掲げてみせる。
「性格?」
「どんなことにも、丁寧だ」
そんなことないと思うけど、とルカはぶつぶつと言った。確かに、絵を描いているときなどは執拗なほどディテールに拘るときもある。細かい描写というだけではなく、質感や手触りと言ったものまで、忠実に再現しようとする。そのために、絵を一つ仕上げるのに異常なほどの時間が掛かる。それではこの先、生活に困るだろうと誰もが思うのだが、ルカはどうしてもそのスタイルを崩す気はなかった。
自分が納得するまで、突き詰めたいのだ。
そうぶつぶつと呟くようにいうと、レオーネは「俺はいいことだと思うけどな」と微笑んだ。
「画家は職人だって言うけど、俺は画家だって詩人や音楽家と同じで、いや、それ以上に美を追求している、と思う」
たらり、と鍋にたっぷりのオリーブオイルをレオーネは垂らした。それから野菜をぱらぱらと入れる。
「美を追求……」
「だろう?美しいものを、美しいと思う形で描く。虚像を描いているかもしれないが、真実が常に美しいとは限らない」
ルカはレオーネの言葉を何度か頭の中で反芻した。手は、完全に止まってしまっていた。
真実が、常に美しいとは限らない―――
レオーネは考え込んでいるルカをちらりと見ながら続けた。
「ミューズが微笑むのは、何も詩人や音楽家だけじゃない。画家にだって微笑むはずだと、俺は思う」
その微笑を、ルカなら見たことがあるのではないか、とレオーネは言った。
「ミューズの、微笑み?」
どこか、自分のあずかり知らぬところで筆が動いて素晴らしい絵が出来る、と言うようなことが。そんなことがありはしないか、とレオーネは言う。
ルカは目をぱちりと瞬いた。それから、ゆっくりと首を傾げた。
「そんなすごいこと、なかったと思うけど……」
「じゃあ、これからあるかもしれない、ってことだな。画家にだって、そう言った才能ってものがあるはずだ。それも、ほんの一握りの人間に」
「そう、かな。僕はそんなすごい人じゃないよ」
照れたように言うルカの頬を、レオーネはすっと撫でた。くすぐったそうに、ルカは笑う。
「自分を卑下するなよ。絵描きも、絵というものそのものも、もっと評価されていいはずだと俺は思う」
そう言ったレオーネの目はとても真剣で、ルカはその横顔をじっと見つめた。
ルカは自分を卑下したつもりがない。でも、世間での画家という職業の評価は決して高くない。ただ、ルカは絵が好きなだけで画家になったが、その地位を考えたことはなかった。
レオーネは、ふざけているように見えて色々なことを考えている。決して遊びだけの人間ではないとはわかっていたが、ルカは改めて感心していた。
そして、レオーネも、彼を好きな自分も、誇らしいと思った。
「レオーネは?そう言う経験、あるんでしょう?」
目を輝かせるルカに、レオーネは「ないよ」と肩を竦めた。自分は、そう言う人種ではない。レオーネはなぜか、そう確信していた。
それならば、レオーネもきっとこれからそんな経験をするんだね。とルカは言う。
それはない、とレオーネは言わなかった。ルカの目が、そのことを信じて疑っていなかったからだ。
二人で歩む、この先の未来はわからない。本当は、ずっと今のように気ままに絵を描いていけたら、一番幸せだと思う。そう言うささやかな幸せが、何より大切だとレオーネは思っていた。
「ところでトマトはいつ入れるんだ?」
何か色々考えているルカに、レオーネが可笑しそうに声をかける。ルカははっとしたように、手を動かし始めた。
「大変!もうそんなに炒めてる」
ルカは慌てて、切ってあるトマトを鍋に入れた。それから、残りのトマトもざくざく切っていく。
レオーネといたら。
きっともっと、学ぶことがあるだろう。
そう思うと、ルカは嬉しくて仕方がなかった。
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